〇聖書個所 マタイによる福音書 18章6~14節

「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 

〇宣教「神の御心は小さな者と共に生きること」

今日の聖書個所は新共同訳聖書では二つの小見出しに分かれていますが、「小さな者」という共通するテーマがありますので、今日は一つのお話として読んでいきたいと思います。ちなみにこの「小さな者」とは、先週の宣教箇所の1-5節からの連続として考えると、「子ども」あるいは「子どものようになる人」のことを指していると思われます。

私は先週の宣教の中で、弟子たちの関心ごとが「天の国で誰が一番偉いか」ということであったことに対して、イエス・キリストはこう言われました。「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が天の国で一番偉い。」私はこれを受けて、この「子ども」と言う言葉は2歳から幼児までを現わす言葉であり、その意味は無価値とか自由とか天真爛漫ではなく、「手のかかる存在」だと言いました。そして天の国とは、そのような手のかかる子どものような人が、そのままでいられるところ、つまり交わりの中で共に生きていくところだとお伝えしました。私たちはといえば「偉い人」と言うと立派な人、手のかからない人、自分にできないような功績をあげる人のことだと思いますが、最も小さい手のかかる存在を受け入れて生きる者が、天の国においては尊い存在である。だから私たちには心を入れ替えるということ、悔い改めるということが必要だというメッセージとして受け止めました。

今日の箇所ではこの「子どものようになる人」という言葉が「わたしを信じるこれらの小さな者」と置き換えられています。「小さな者」と言う言葉は、「ミクロス」と言う言葉で最も小さい者、吹けば飛ぶような者、目にも入らないような存在とも言うことができると思います。これは「子ども(幼児)」を飛び越えて最も小さな存在です。「わたしを信じるこれらの小さな者」と言う言葉から考えると、この小さな者たちは、「イエスさまのことを信じなければやっていくことができない、弱く無力な者」という印象を受けます。つまりそもそも自分で立っていくことはできないような人です。だからこそ手がかかるわけです。そして社会、あるいは私たちもまたそのような存在を躓かせたり、軽んじたりするのです。

今日の箇所は、そのような社会、或いは私たち一人一人へのイエスさまの痛烈な忠告であるともいえるでしょう。

でも、正直に言うと、私たちはこういう厳しい表現の聖書個所を読むのは、あまり好きではないと思います。私はなんとなく自分が裁かれているかのような気になってしまい、早く読み過ごしてしまいたくなります。特に手や足が躓かせるなら切ってしまいなさいとか、目が躓かせるなら抉り出してしまいなさいとか、永遠の火とか火の地獄に投げ込まれるとか言われると、気分がへこんでしまいます。それよりはイエスさまの優しい、心地の良い言葉を聞きたいと思います。でも、イエスさまがここまで言われるなんてただ事ではありません。どういうことなのでしょうか。

実はここはよくよく読んでみると、これは私たちを裁くためではなく、私たちが裁かれないようにイエスさまが言ってくださっていることであります。7節にこうあります。「世は人を躓かせるから不幸だ。躓きは避けられない。だが躓きをもたらす者は不幸である。」つまり、受け止めたいのは、私たちが人を躓かせてしまうことへの裁きではなく、あなたがたが人を躓かせないようにという教えであるということです。実はこの躓かせると言う言葉は、「罠にかける」とか「罪を犯させる」という意味があります。つまり、相手に対して故意に悪意を行うことです。相手に悪いことをしてしまうのは私たちも経験があることだと思います。でも、それを完全に避けることはできません。できることはそうなってしまったときにどう関係を修復していくかということだと思います。でも、ここで直接的に問題と言われているのは、私たちが故意に悪意を行うことです。それが躓きであり不幸なのだとイエスさまは語るのです。それは大きな石臼(ろば用のひきうす)を首に懸けられて深い海に沈められる方がましだと言うのです。すごい表現ですが、今で言えばコンクリート詰めにされて海に落とされるということでしょうか。いずれにせよ恐ろしいことです。でも、それの方がましだと言うのです。

でも、たしかに私たちは世の中の小さな存在に故意に悪意を行うことがあることを知っています。例えばホームレスの人々に対して理由もなく暴力をふるうというニュースがあります。他にも抵抗できない子どもに対して虐待をして殺してしまうこともそうです。いじめも同様だと思います。それはその対象となる人が何かの悪いことをしたという理由からではなく、わざと相手に悪を行うことであります。例えばそれは自分の中の欲求不満やストレスの解消ということもあるかもしれません。でもそれは、最も弱いもののいのちの輝きや尊厳を奪うことであります。そういうニュースを聞くたびに心が痛むことを思えば、イエスさまのこの感情的な表現も理解できないではありません。しかし恐らくイエスさまが心配しているのは、それは相手だけではなく行った本人もまた苦しむものであるということです。人に犯した罪は消えません。まさにユダがそうであったように、その罪の重さに潰されるのです。それは、まさにそれを犯した自分自身がどん底に突き落とされることでもあるということです。だからイエスさまが非常に強い言葉で警告しているのは、最も小さく弱い者への愛であると同時に、罪を犯しやすい人間への愛の言葉であるのです。この世には残念ながらそのようなことがある。しかし、あなたがたはそうであってはいけない。それは不幸なことだ。だからあなたがたは「命を奪う」のではなく「命に預かりなさい」とイエスさまは招くのです。

また10-14節では「軽んじるな」と忠告しています。軽んじるとは、相手にしない、無視するということです。躓きは「故意に」でしたが、こちらは「無関心に」そのような小さな人を見ないようにする態度もまたイエスさまが忠告していることであると言えるでしょう。私たちはこの箇所を単独で読むと、99匹の羊と群れを離れた1匹の羊の譬え話に心を取られてしまいますが、この文脈で言うならば、この群れを離れた1匹とは、まさに99匹とは異なる存在であります。ちなみに、この「迷い出た」という言葉は、「惑わせられる、騙される、欺かれる」という意味があり、同じく受け身の形です。迷い出たという能動的な行動ではなく、まさに罠にかけられた存在です。ですから、この1匹の羊とはやはり最も小さくさせられた存在であるのです。

しかし、神の愛はそんな1匹の迷える羊に向いている。いやむしろ、そのような小さくさせられたように見える人それ自体が、この世の中でそう思わせられているだけなのかもしれません。何故ならば、イエスさまはその迷える一匹に向けられている神の目線を私たちに語っているからです。

もし天の父の御心が、これらの小さな者が滅びることではないと言い、かつその羊を大切に思っているのであれば、なぜこの羊は「小さな者」とされてしまったのでしょうか。それとは反対に「大きな者」という存在もあるのでしょうか。多分そのような「優劣」をつけてしまうのは神ではなく人なのでしょう。それはまさに1-5節で弟子たちが「天の国で誰が一番偉いのか?」と問うたように、その考え方を普通としている私たちの側に問題があると言えるでしょう。そしてそれはその小さくされた者の側に問題があるのではないということです。その方々は他の人々によって惑わされてしまっているのです。

イエス・キリストは、子どもを弟子たちの中心に招きました。そして今日の箇所と同じように考えれば、この群れから迷いだされていった小さな羊を探しに行き、連れ帰り、群れの真ん中に招き入れるということが神の御心であると言えるでしょう。しかしそのためには、私たちには「心を入れ替えること」が必要なのです。

何故ならば、ここまで言ってなんですが、それをしていくのはとても困難なことであるからです。それは「最も小さな者」というのは「手のかかる存在」であり、言い換えればこの社会の中心にするには歓迎されない人であるからです。

確かにお題目としては「小さな者を守ること」は正しいことですし、されなければならないことです。しかし、私たちは本当にそのために歩んでいるでしょうか。弟子たちの姿が示しているように、私たちの関心ごとは「誰が偉いか」。つまり誰が力や名誉や富を持っているか、なのではないでしょうか。あるいは、偉い人の話が聞きたい、誰か優れた人のお話を聞きたいという関心であり、小さな者を守ること、共に生きていくという行動には向いていないのではないでしょうか。もちろん私たち自身も小さな者たちであります。私たちは自分たちを受け入れてほしいと願います。しかし、そんな私たちが、他にここにやってくる小さな者を排除してしまう、あるいは無視してしまう、躓かせてしまうということがあるのです。これは私たちの教会でもそうだと思います。助けを求める方が来ます。住居がない。お金がない。食べ物がない。どう生きていけば良いかわからない。色々な課題を抱えている人がやってきます。私たちはその方々と共に生きていくために、果たして本当に「分かち合って」いるでしょうか。祈るだけして終わってはいないでしょうか。私たちは「その人たちの隣人になっている」でしょうか。

今日の箇所は自分たちの生活の真ん中にその人たちを招くということをイエスさまは私たちに言っているのです。誰かがやればよいではなく、わたしたちでありあなたに対してです。その求める者を躓かせてはならない。その者を軽んじないようにしなさい。

もしかしてこのメッセージを聞いて皆さまの中には自分が責められていると感じる方もおられるかもしれません。それについては申し訳なく思いますが、実はこの言葉によって今一番苦しんでいるのは私自身です。実に今日の箇所は今私の心に突き刺さっているからです。と言うのは、今まさにそのように助けを求める方々をサポートするということによって自分の心に葛藤を感じているからです。

出来る事に限りがあることは百も承知です。全てができるとは思ってはいません。またそうすることも良いとは思いません。でも、そういう方々と共に生きていくということは本当に大変なことであるということを今も感じているからです。相手のためにしてあげたいと思う反面、自分の中に起きてくるストレスなどもあるわけです。本当に自分の自己中心さを感じます。「隣人を自分のように愛しなさい。」と言われても、できない自分を感じつつ、自分を捨てて従っていくこともできていません。向かい合っていくことにしんどさを感じることもあります。どうしたらよいのかと思います。

でもふとした時に思います。この世はいわば小さな者を喰いものにすることで成り立っているような社会です。そして私たちもその社会の中に生かされているものであり、同じように小さな者たちに罪を犯させている存在に他なりません。そんな私たちに対して語るイエスさまの言葉は、確かにお怒りだろうと思うのです。でも、恐らくはそうではないのでしょう。それは深い嘆きの言葉のように受け取れます。しかしその嘆きの背後には、やはり私たちへの期待もあると思うのです。

やはり私たちは御言葉に問われなければなりません。わたしたちが命にあずかるために必要なこと。それは私たちがイエス・キリストにあって生かされている存在であるという土台に立つことです。イエスさまは、共に生きていくように招くためにこの世に来てくださいました。そしてそれはリアルな出会いの中で私たちに言葉となって現れるのです。まさに私はこの問いかけの中に今、新たにされようとしています。みなさんもまたこの宣教の中で同じように問われていることを感じます。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて、子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」わたしたちの心を入れ替えるためにイエス・キリストが来られました。それは神の子であるイエス・キリストが人の子として最も貧しい中に生まれたことから始まります。イエス・キリストは品行方正で偉い人を救うためにやってきたのではなく、迷える羊の一匹に寄り添われるために来られた。このイエス・キリストの到来を待ち望むアドベントが来週から始まります。私たちの心にイエス・キリストが生まれるということです。

共に祈りつつ御言葉に問われて参りましょう。