〇聖書個所 詩編133編1節 Ⅱテモテへの手紙 4章1~5節

【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。

 

〇宣教「 イエス・キリストの御言葉に生きる 」

先ほど祈りの中でも申し上げましたが、先週4日は神戸教会の伝道開始72周年の記念日でした。1950年にR.C.シェラー先生が神戸に来られてから今日は73年目に入る最初の礼拝を私たちは守っています。そのときはまだこの教会堂は建てられていませんでしたが、シェラー先生ご家族との出会いの中で私たちの教会は始まっていきました。そう考えると教会とはやはり聖書を読み、互いに祈り、賛美を歌う人々の交わりただ中に、主の伴いを確認するものだということが分かります。神戸バプテスト教会の人々の信仰の営みをこれまでの歩みを守ってくださった主に感謝すると共に、これからの教会の歩みの導きを祈り求めたいと思います。

今日は二つの聖書の箇所を選ばせていただきました。詩編133編とテモテへの手紙Ⅱの4章です。この二つの箇所には何らかの関連があるというわけではありません。しかし、二つの聖書個所がそれぞれに伝えようとしていることは私にはとても似ているように感じるのです。それは何かというと、困難のただ中にある私たちにとっての「御言葉を信じることの大切さ」、あるいは「御言葉を信じることが私たちに与える強さ」についてです。詳しく説明していきます。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み。なんという喜び。」この詩は有名な詩編の一節ですが、この詩が歌っているのは、兄弟が仲睦まじく座っている光景がほほえましいということではありません。実にこの詩が感動的なのは、この詩の背景にはイスラエルの人々が経験した歴史的な大患難とも呼ばれる出来事があったからなのです。それは神の守りのうちにあるはずのイスラエル国の滅亡でありし、バビロンという敵の国に捕囚という強制連行をされることであり、人々がちりぢりバラバラに住まうことを余儀なくされるということでした。イスラエルはディアスポラ(離散の民)と言われますが、まさにもう二度とかつてのように「共に座る」ということが難しい状況があったのです。しかも彼らはその出来事を神の裁きとして受け取ったわけです。しかし彼らはそれをただ神のせいにするのではなく、その後自分たちの悔い改めの出来事として受け取っていきました。

ですから彼らは年に一度それぞれの場所から出かけて行って主の神殿に集っていたのです。それはその一年の歩みの守りを感謝する時であった一方で神への悔い改めの時であり、自分たちがこれから立っていくべき神の言葉を改めて確認する時であったと思います。そしてその時、普段は会えない人々の無事を確認し、お互いの近況を分かち合い主の守りと恵みを感謝したのでしょう。

この詩が【都に上る歌】と名付けられているのは、そのような理由があります。彼らは主の神殿における同胞との再会の時の喜びを歌っているのです。その喜びの背後には苦難の日々がある。でも、お互いがそれぞれの困難を耐え忍び歩んできているからこそ、兄弟姉妹との再会はひとしお喜ばしく、互いに励まし合う時となる。そのような時にこそ、まさに「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み。なんという喜び。」これが感動として湧き上がってくるのです。そしてそれはまた再び出会う時までお互いの健康と平和を祈り合うというような名残惜しく、しかしお互いへの思いは変わらず持ったままの別れということに繋がっていったのだとも思います。

詩編はダビデの詩と書かれているので、ダビデが全部作ったと言われることも多いのですが、実は詩編は人々の日常の中で作られた、いわば「生活の歌」ですので、その言葉に表されている背景を知ることで私たちはより多くの恵みを受けることができます。

改めて言えばイスラエルの民は神の言葉から離れ、的外れの罪に陥ることで苦難の中にありましたが、改めて反省に立ち神の言葉に立っていくことを日常生活の中で確認していました。それは彼らにとってつらいことであったと思いますが、しかしそんな時にも神が私たちと共におられる、それでも神は私たちの神なのだということを信じて歩んでいく。それが彼らにとってその日々を生き抜いていく力と希望を与える信仰というものの強さであったのではないかと思うのです。言い換えれば、神の御言葉があったからこそ彼らは再び立ち上がっていくことができるようになったのです。

例えばもしその困難にあった時、イスラエルの人々が神を礼拝することを止めてしまったら、神の言葉に生かされるのを止めてしまっていたらどうなってしまっていたのでしょうか。それは彼らのアイデンティティが失われてしまうということに繋がり、彼ら自身も自分たちとして立っていくことはできなくなってしまったのではないかと思います。イスラエルの人々にとって自分たちを自分たち足らしめるもの、自分たちとして歩んでいくために必要なものが、神の言葉に立つということだったのです。

詩編133編が語るような再会の喜びはいまやイスラエルの人々だけではなく、私たちも今まさに感じていることかもしれません。コロナが始まり、二年半となりました。礼拝は少しずつ日常に戻ってきているとはいえ、まだまだ前のように気軽には会えない日々が続いています。今はまた新たな感染も広がっています。しかし、会えない時があったからこそ会える時がこんなに嬉しく喜びに満ちることであったのかということも私たちはこの二年半の間感じてきたのではないでしょうか。私たちは会える時には感じていなかった恵みに今気づき、会えない中にいる方々の為に祈ることを続けています。

そのような中で、「教会に集う」という今まで普通であったことが私たちにとってどれほど大切かということも感じたのではないかと思います。コロナ禍で私たちはオンラインで礼拝にあずかることができるようになりました。福音は教会に集められた人々に語られるものではなく、教会の外にいる人々へ発信するものになりました。また教会は集まる場所から繋がっていく交わりへと変化したと思います。これはとても大切な気づきでした。苦難の中にいても会いに行けない方に御言葉を届けたい、共に御言葉に力を頂いて生きていきたいと感じたことから、これは始まりました。そして私たちは教会には集えなくなったけれど、それぞれの場所で御言葉を頂いて、生かされてきたと思います。

しかしながら時を経ていくうちに、それでもやはり教会に集うということは私たちにとって特別なことであることを改めて感じたのではないかと思うのです。それは、神の言葉に互いに生かされてきた自分たちをその場で分かち合い、共に感謝するということが行われるからです。神の御言葉を受けることは一人でもできます。それは困難の中で力になって行くことでした。しかしそれでもやはり顔を会わせる「交わり」や「支え合い」というは私たちにとって欠かすことができないものであることを感じるのです。その中心にあったのが御言葉です。

もう一つの聖書の箇所、テモテへの手紙の内容も伝えようとしていることは同様のことだと思います。その中心の言葉が2節「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。」と言う言葉です。皆さんは御言葉を宣べ伝えるというと、どのようなイメージを持たれるでしょうか。例えば牧師が講壇の上からメッセージをするというようなことでしょうか。「宣べ伝える」という日本語にそういう印象がありますので、なにやら難しそうだと考えるかもしれません。また「福音宣教者」と言う言葉が出てくると、なにやら「伝道に熱心に燃える人になりなさい」などと聞こえ、ハードルを高く感じるかもしれません。

しかし宣べ伝えるを普通の言葉で言うのなら、「広く伝えること」です。特定の権威のある言葉ではありません。それでは私たちが伝える御言葉とは何のことでしょうか?定冠詞がついていますので、「the言」という意味です。言とはロゴス、ヨハネ福音書ではイエス・キリストを差します。ですから簡単に言うとイエス・キリストをお知らせしなさいということでしょうか。私実は、今日の宣教題を「イエス・キリストの御言葉に生きる」としましたが、「神の御言葉であるイエス・キリストに生かされる」という方がより適切であったようにも思います。それでは私たちはイエス・キリストを自分の言葉で人に伝えることができるでしょうか。あるいはイエス・キリストと言う方を他の人に伝える時、私たちはどのように知らせるでしょうか。イエス・キリストの教え、福音の内容を語りなさいと言うのではなく、あなたはイエスをなんと呼ぶか、なんと説明するか、借りてきた言葉ではなく自分の言葉でなんと告白するか。これが大切なのだと思います。それが「時が悪い時代」に私たちが飲み込まれないために必要なことなのです。これは福音伝道、つまり他の人の救いのためにするということよりもむしろ、あなたがその道から離れないために必要だということではないかと思うのです。

パウロは「折りが良くても悪くても励みなさい。」といいます。この言葉は、口語訳や新改訳では「時が良くても悪くても」と訳されています。ギリシャ語で「時」を現わす言葉が二つあります。クロノスとカイロスという言葉です。クロノスが時の流れを現わすのに対し、カイロスは機会とか出来事を現わします。この時が良くでも悪くてもと言う言葉は、両方ともカイロス(エウカイロスとアカイロス)という言葉です。ですから良い出来事の中にいても、悪い出来事の中にいてもということです。

私たちは良いときは神さまの恵みが豊かにあり、守られて順風満帆を感じますが、時が悪いときには神の裁きだとか神はなんで自分の祈りを聞いてくれないんだと思ったりします。あるいは、悪い出来事の時にはもう諦め、状況が良くなったら行うということでしょうか。そういうことではありません。もしそうであったとしたら、詩編133編の段階で信仰は既になくなってしまっていたはずです。大切なのは、それでも神の言葉は私たちに与えられているということです。新約の時代で言うとしたら、それでもイエス・キリストは私たちと共におられるために来てくださったということです。

イエスさまはインマヌエルと呼ばれましたが、それは「われらと共におられる神」という意味です。どのような時にも神は共におられるのです。あなたがどうこうあるからイエスさまはいて、信じなければいないということではないのです。そのようなイエスさまを伝えなさい。「折が良くても悪くても励みなさい。」の「励みなさい」は、ギリシャ語でエピステーミという言葉ですが、元々の意味は「~の上にしっかり立つ」という意味です。パウロは「御言葉を宣べ伝えなさい」と言いますが、第一義的にはどんな時も自分自身がそのイエス・キリストという神のに言に立っていくことが大切だと言い、それによって福音はあなたがたを通して広く告げ知らされると言っているのではないかと思うのです。

パウロは言います。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」

福音から離れることは簡単です。世の流れに身を任せればよいからです。今の世の中は情報があふれかえっています。もちろん多様な価値観がありますし、多様性と言うものは大切なことだと思います。しかしながら、その中でこれが本当の「真実」と吹聴されるようなものがあります。そして不安を煽るのです。不安をあおると人はついてくるのです。しかし、本当に大切なことはやはり一つなのだと思います。それは安心を語ることです。なんでなのでしょうか。私たちは安心を求めるのに、安心を語られると信じられず疑心暗鬼になり、不安を語られると救いを求めて人に付いて行ってしまうのです。本当に不思議だと思います。

「神はあなたを愛して造られた。神はあなたを大切に思っている。そのためにイエス・キリストはこの世に来られた。あなたはあなたのままで生きて良い。何故ならば、神があなたをあなたらしく創造されたからだ。」このような福音に立って生きて行ってほしいだけなのに、この真理から耳を背け、作り話(空想話、伝説)に逸れ、このようにしなければならない、あのように生きなければ救われないなどと導いていく力があるのです。それは本当に「罪(的外れな生)」そのものであると思います。

しかしそうではないのです。「キリストの健全な教え」とは、倒れ、くじけてしまった人々を再び立ち上がらせようとする言葉のことであり、もはや滅亡してしまったかに見える民族の人々の心に消えずに残る教えです。それはあなたが困難の内にあったとしても、イエス・キリストはあなた個人のいのちの守りのために、また隣人のために十字架に架けられて死に、しかし神によって復活させられたという愛にこそあります。だから私たちは神にあって感謝し、同じく神に愛されている隣人と共に生かされていくのです。

私たちはこれから主の晩餐式を守ります。主の晩餐式は、イエス・キリストが私たちのために献げられたいのちを共に頂き、その福音に生かされていくために毎月守るものです。この福音を共に受け取って日々イエスさまに合って生かされて参りましょう。