〇聖書個所 ルカによる福音書 17章20~21節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

 

〇宣教「 神の国はあなたがたの間にあるのだ 」

本日は、神戸バプテスト教会牧師としての西脇慎一が皆さまと共に守る最後の礼拝です。もしかしてこれからも礼拝の中でお話しさせていただく機会はあるのかもしれませんが、教会員の皆さまの信頼と委託によって立てられた神戸教会第七代目牧師としては今日が最後です。神戸教会の教会員の皆さま、またその他大勢の皆さまとの出会いを与えて下さり、これまでの歩みを支え守り導いてくださった主なる神さまに感謝すると共に、私の皆さまとのこれまでの歩みの中で私が感じてきた福音というものを「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と題してお話しさせていただきます。

今日の聖書箇所は、もうすでに教会員の皆さまはご承知の通り、神戸教会の「教会総意」に記されている耳なじみのある聖句です。イエス・キリストは言われます。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

「神の国」という言葉は今はタイムリーに響くことだと思いますが、イエスさまはこの言葉をいったいどういう意味で使ったのでしょうか。まずこの言葉に至る聖書の文脈を調べてみると、人々が「世の終わりの時に起きること」や「神の国がいつ来るか」ということを気にしている情景があります。わたしたちも神の国が実現することを祈り求めますが、その時に起きることはやはり気にすると思います。私も「神の国ってどんな国だろう」とか「どういう風にやってくるのだろう」と考えたことがあります。そして「神の国」っていうくらいだから、この世界とは比べられないほど美しい国で、汚らわしいものは何もない世界なのかなぁとか、神さまを信じる者たちだけが入れる特別な聖なる場所なのかなぁとか、罪びとはやっぱり入ることはできないのかなぁとか想像することがあるのです。

キリスト教会とは一口に言っても信仰している内容には教派によって違いがあります。例えば神さまを信じることは「天国への片道切符を得ること」だと言われることがありますし、「信じない人は地獄に行く」とまことしやかに語られることがあります。これは本当なのでしょうか。実は私、以前東京の大久保という駅で伝道活動していた人に「神さまを信じて天国に行きましょう。」と声をかけられたことがあります。「いえ、わたしはクリスチャンですから大丈夫です。」と言っているのに、「いや、あなたは救われていないから、私の教会に来なさい。」と言われました。何を根拠に…訳が分からない…と思い付いて行かなかったわけですが、そのように語られるとふとどこかで不安を感じました。自分は大丈夫なのだろうか。しかも終わりの時が近づいているらしい。じゃあそうなるまえに、もっと悔い改めて、「神さまの教え通りに生きなければならない」とか「清く正しい生活をしなければいけない」とか「罪びとと交わらないように生きる」とかそういうことを考えたりすることがあるのです。「終わりの時にはこんなことが起きる。あんなことが起きる。だから身を清めて生活しなさい。」根も葉もないけれど不安をあおるわかりやすい言説が人々を心を支配し、生き方を縛っていくということがあります。

でもやはりそのように語られる「天国」というものは決まりきって、「律法などの教えを守ることができる正しい人」しか救われないと言うものだと思います。それは果たして福音、すべての人の喜びの出来事、自由に導く神の真理なのでしょうか。それはむしろ律法学者やファリサイ人が生きていた世界観そのものなのではないでしょうか。私はそれはイエスさまが語っていたこととは違うと思うのです。

それではイエス・キリストが語る「神の国」とはどんな所なのでしょうか。イエス・キリストは福音宣教の初めに「悔い改めよ。神の国は近づいた。」と語り、そしていまや「神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」と言います。神の国は何故近づいたのでしょうか。果たして神の国が近づいたのは、人々が悔い改めた結果なのでしょうか。いえ、恐らくそうではありません。だって私たちだって完全に悔い改めることができたかというとそうではないと思うのです。むしろできないからこそイエスさまが私たちには必要なのです。ですから神の国が近づいたというのは、罪ある世界にイエス・キリストが来られることによって一方的に近づいてきたということなのです。何故その神の国が近づいてきたのか。それは神がこの世界そのものを愛しておられるからにほかなりません。ヨハネ3:16-17にはこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」つまり、私たちの悔い改め、或いは立ち返りというものが先立つわけではない。むしろ悔い改めることすらできない私たちの元に神の愛によって神の国の福音が届けられた。これによって、私たちは初めて立ち返り、方向転換できるようになるのです。

ですから神の国とは何か。それは私の言葉ではこの世界そのものであると言えるのではないかと思うのです。そう思う根拠の一つが天地創造です。神さまはこの世界のものをすべて造り「善し」とされました。「神はお創りになったものをご覧になり、見よ、それは極めて良かった。」と言われているのです。神はこの世のある者たちを選び、違う者たちを捨て去る世界を造るためではなく、すべての異なる性質をもったものをあるがまま愛し「善し」として造られたのです。

しかし、その神が愛された世界に罪を犯したのが私たち人間です。神の与えられた世界の中で神の言葉から離れ、他の物を追い求めるようになり、自分とは異なる部分を持っている者たちを攻撃し、仲間たちという枠組みと敵という枠組み、あるいは自分とは関係ない人たちという枠組みを造りました。今も私たちはその枠組みに捉えられています。しかし神はそんな世界の中で、その他大勢とされた名もなき人々に出会い、寄り添い、共に生きていくことを示すためにイエス・キリストをこの世に送られたのです。そしてイエス・キリストはそんな人々のただ中で「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われたのです。

人々はそんなイエス・キリストを疎ましく思い、邪魔だと思い、十字架にかけて殺してしまうわけですが、神はそんなイエス・キリストを復活させることを通して、私たちに生きるべき道を示されました。私はこのようなことを考えるとき、神の国とは他のところにあるというのでもなく、「完成」された形なのでもない。私たちの歩みのただ中、つまり「交わり」や「プロセス」にあるのではないかと思うのです。

先ほども申し上げましたが、神はこの世界を様々な違いのあるものとして創造され、善しとされました。この異質で多様な社会を、神は好んで造られということです。それぞれの違いはそれぞれあってよいのです。そして神の国は「こうでなければならない」というものは何一つないということなのでしょう。それはむしろ人の側が作り上げる枠組みです。

でも神は違うのです。神においてはすべての異なるものが肯定されているからです。問題は人々がそれに気づかずに「自分が正しい、相手が間違っている」と自分の価値観で争いを繰り広げることなのです。これが私たちの世界の問題です。しかし、私たちにそのような違いが前提としてある世界が与えられているということは、やはりここから平和を実現させていく、すべての人の命が満たされていく社会をつくっていくということを神は期待し、願っていることなのではないかと思うのです。

ですから私にとって「神の国はあなたがたの間にある。」これが希望の言葉として響くのです。「ここにある、そこにある」、これは「これがthe神の国」というものではない。ましてや死後に入る世界のことでもない。神の国は今を生きているあなたがたの内側の出来事なのだ。それは、つまりあなたたち同士の対話によって出来事となっていくものだということなのです。そしてそれはお互いの関係が、主の伴いの中で私たちの自分自身の世界が隣人の存在によって変化させられていくことを喜んでいくことだと思うのです。

実は、私は本当にこの言葉に励まされています。というのは、私自身がこの神戸教会という神の国に育まれてきたことを思うからです。私は、神戸教会に2014年度に招かれ、そして今日まで8年5カ月、皆さまと共に過ごさせていただきました。当初神学校を卒業したばかりでがちがちだった私をここまで育ててくださったのは皆さまとの対話の出来事であったと思います。

思い返せば色々ありました。一つ一つを思い出すと大変なことになるので言いませんが、本当に神戸教会の約140人の教会員、またそれ以外の在籍会委員の方々との出会い、また礼拝出席者の方々、幼稚園の職員、保護者、子どもたち、また近隣の皆さまとの出会いと思い出が深くありますし、その時の記憶がそれぞれに思い起こされます。

神戸教会は私の牧師としての初めての赴任地でしたが、色々な意味で刺激的でした。例を上げればきりがないのですが、「教会総意」にある「牧師の言葉を鵜呑みにしない」という表現、今となってはその通りと思いますが、衝撃的でした。でも鵜呑みって丸のまま飲み込むことではなく、最終的には外に出してしまうことであるから確かにそうされては困ります。その他にもBクラスにおける説教の応答でコテンパンに打ちのめされることも度々ありました。でもそのことはさらに私にとっての善き学びの出来事になりました。他にも牧会の対応でミスをして人を傷つけてしまうこともあったりしました。そのことによってお叱りを頂くこともありましたが、その後にお赦しを頂くこともありました。陰ながら祈ってくださった方、一年間かけて私のために祈ってくださった方もいました。そのような個人的な皆さまとのやり取りの一つ一つが今の私を形作ってきたのだと思います。

「違いの中にキリストを告白していく群れ」違いがあるのは良いと思うのですが、その違いによって傷つく人もありました。違いがある前提で繋がっていくということは、本来キリスト教会全体で取り組んでいることだと思うのですが、それを一つの教会ですることは大いなるチャレンジだと思いました。

でもそのような神戸教会は、「神の国」を「キリスト教会の伝統的なあるべき姿」や聖書に書かれている内容としてそのまま受け止めるのではなく、人々に伴われたイエス・キリストの愛をベースにして発展的というか動的に捉えているからそういうことが可能なのだろうと思いました。長時間に及ぶ役員会は時にすごく大変でしたが、それは役員に選ばれた皆さまの信仰や、その他の教会員の委託に応える気持ちがなさせていたのだと思います。この歩みはこれからも続けられていきます。

神戸教会は、今福音宣教開始から73年目を歩みだしました。シェラー先生から始まったこの福音宣教の種蒔きは、神戸教会から神戸西教会、宝塚教会、そして神戸伊川教会へと広げられていきました。それぞれその時々に株分けが行われ、私たちはそれぞれの教会に分けられて福音宣教に仕えることになりました。しかし、私たちの中心はイエス・キリストであり、私たちの国籍は天にあります。それは永眠者記念堂の墓石に書かれている通りです。本当にその通りだと思います。わたしたちはそれぞれその時々に神戸教会に加えられ、そして他の場所に遣わされていく時がありますが、それでも私たちは神によって繋がっているということです。この関係はこれをもって終わるわけではありません。

私は今日、この礼拝をもって九州福岡の西南学院バプテスト教会に赴きます。そこではまた新たな人々との出会いがあり、その交わりの中でまた新しい気付きを与えられていくことになると思います。

神戸教会もまた新しい人々との出会い、特に無牧師期間中に与えられる新しい説教者との出会い、また新しい牧師との出会いによって変えられていくことだと思います。それは私たちの教会が固定化されて動かないのではなく、人々によって生きているからこそ起こることなのです。

わたしは神戸教会には他の教会にはない魅力と使命があると思います。神戸北野異人館通りに存在する教会、この異文化他宗教の施設と共に生きる神戸教会には、信教の自由を大切にするバプテスト派としての大きな役割があると思うからです。すべての人が自分の信じたい神を信じ生きていって良い。他宗教と対決するのではなく、異なる神を信じる者たちの連帯として、平和を作り世界中に発信すること。これが実は8年前に私がこの教会に招かれたときから陰ながら心に秘めていたビジョンです。それは、良きサマリア人が追いはぎに襲われた人の隣人になっていったように、私たちも出会っていく人たちと平和を作っていくことができる。そこには国境もなければ民族の違いも宗教の違いも存在しないということなのです。互いに隣人になっていく教会になっていくということです。

私は皆さまとの交わりによって非常に多くの学びと気づきを得て、変えられてきました。このような交わりから始まっていくプロセスがイエス・キリストの神の国の始まりなのではないでしょうか。そしてこの神の国はこれからも広げられていきます。共にそれぞれの土地において、しかし結び合いながら主イエス・キリストの福音宣教に仕えて参りましょう。