〇聖書個所 ルカによる福音書 19章1~10節

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 

〇宣教「 ザアカイの得た『救い』とは何か? 」

今日は、キリスト教会でよく使われる言葉の一つである「救い」という事柄について共に考えてみたいと思います。皆さんは「救い」をどのようなものとして考えているでしょうか。聖書ではよく、救いというと「罪からの救い」と語られることが多いのですが、果たしてその救いとはいったい何であり、その結果どのようになるのでしょうか。今日はそれを考えるために、ルカによる福音書から「ザアカイの得た『救い』とは何か?」という宣教題でお話をさせて頂きたいと思います。

この徴税人ザアカイのお話は聖書の中でも特に有名で、子どもメッセージや絵本でもよく取り扱われるお話です。恐らくこの礼拝に出席しておられるほとんどの方は「ザアカイ」という名前を聞くだけでお話の概要をイメージすることができるのではないかと思います。でもザアカイさんの正式名称が、ギリシャ語では「ザカイオス」であるということはどれくらいの方が知っておられるのでしょうか。何故か日本語ではザアカイと親しみを込めてか呼ばれているのですが、その理由はもしかして彼の出来事がとてもユニークでチャーミングだからではないかと思います。先ほど聖書個所をお読みいただきましたが、もう一度ざっくりと話を振り返ってみましょう。

ザアカイは徴税人の頭でエリコの街に住んでいました。その町にイエス・キリストがやってきました。ザアカイはイエスさまのことを「どんな人なのか」と気になっていたようで、会ってみたいと思い出かけました。ところが通りには群衆が集まっていて、背の低かったザアカイはイエスさまを見ることができませんでした。そこで彼は先回りしてイチジク桑の木に登り、イエスさまを見ようとしました。イエスさまがそこまで来た時、彼を見上げました。そして「ザアカイ」と呼びかけ「降りてきなさい。今日は是非あなたの家に泊まりたい」と声をかけられました。ザアカイは急いで降りてきて喜んでイエスを迎えました。そしてその出会いの中で、ザアカイは貧しい人々への施しと、人から騙し取っていたものがあれば4倍にして返済するということを約束しました。イエスさまはそのタイミングでザアカイに対して「今日、救いがこの家を訪れた」と語るストーリーになっています。

先ほども申し上げましたが、今日この箇所を取り上げた狙いは、ザアカイにとっての本当の救いとはなんであったのかということを考えることです。聖書の文章だけでは彼の心に何が起きたのかがわかりませんので、彼の情報をもとに、当時の事情を少し加えながら説明したいと思います。

ザアカイは徴税人の頭でした。徴税人とは簡単に言えば税金を集める仕事をする人です。その税金が住民税であった、いや関税であったとはよく言われることですが、詳しくはわかりません。しかし「徴税人の頭」ということですから、今でいえば税務署長のような立場と考えられると思います。社会的地位は高く、経済的に恵まれ、普通にこの世的に見れば成功者の一人として見られていたはずの人であったと思います。ところが残念ながら、当時彼ら徴税人はまさにその人々から税金を取り立てるという仕事の性質上、あるいはそのイメージによって妬みやそしりを受けることがありました。しかもその税金がユダヤ人の公共の福祉のために使われるのではなく、自分たちの国を支配していたローマ帝国に納める税金の取り立てであったことから、同胞であるユダヤ人たちから非常に忌み嫌われていたわけです。徴税人は裁判の証言者として立つことができない決まりになっていました。それはもしかして「お金で転ぶような奴だ」と見られ、その言葉も信頼されないということだったのかもしれません。もちろん不正な富を得ながら働いていた人はいたと思います。しかし、そのイメージとはうらはらにまじめにやってきた人もいたのではないでしょうか。税金はお金に関わる仕事ですので、頭がよく計算できなければ務まりません。またある程度信頼できる人でないとやはりその働きは任せることができなかったのではないかと思います。しかもザアカイもといザカイオスという名前には、「純粋」とか「義人」とかいう意味を込められていたので、非常に忠実な人であったのかもしれません。私たちは「徴税人」という響きだけで人を色付けして勝手に判断してしまうことがあります。しかしそれは徴税人を裏切り者としてしか見ていなかった当時のユダヤ人たちと変わらないことになってしまいます。それではいけないのでしょう。それはもしかして、自分たちのイメージを相手に投影しているだけなのであり、その本人個人というものを見ていないということなのかもしれません。

徴税人というレッテルへの悲哀については、他の聖書の箇所、特に徴税人マタイがイエスさまの弟子となった時の話に顕著です。彼は家に徴税人の仲間を呼び集めて宴会を設けていますが、それを傍から見ていたファリサイ派の人々は、「なぜあなたたちは徴税人や罪びとと共に食事をするのか」とその場を凍り付かせるかのような発言を堂々としていることからもわかります。それは、彼らにとって徴税人はまさに人間ではない扱い、私たちとは関係のない存在であると差別して切り捨てている証拠に他なりません。人として見られない人。イエスさまはそのような人々の友となられましたが世間は厳しいものでした。

ザアカイがそれをどのように受け止めて生きていたのかはわかりませんが、彼が生きていたのはそのような環境の中でした。しかも彼の住むエリコの街というのは、出エジプトの民がヨルダン川を渡り最初に入ってきた町であり、神の言葉を守ることによって占領することができた町ですので、そのような古い名残、しきたりというものが非常に残っていたことが考えられます。

ところがそんな街にイエス・キリストがやってきました。ザアカイはそんな噂を聞き、会いに行きたいと思いました。何故会いに行こうと思ったのかはわかりません。しかし、彼は求めて会いに行きました。

この時彼が求めて出かけなければ会えなかったはずです。しかし彼は背が低く、群衆にさえぎられてしまいました。絵本などでは群衆は背の低いザアカイに気づきながらも意地悪のつもりでとおせんぼしていたように描かれていますが、聖書にはそのような意味合いは書かれていません。「群衆がいたので会えなかった」くらいの表現です。しかし彼はそんな壁にぶつかりながらもあきらめないで、イチジク桑の木に登りました。普通の大人であれば、しかも立場があればあるほど気に登ったりはしないものだと思いますが、彼は恥も外聞も気にせず、自分の心に忠実にイエスさまに会うことを求めました。彼にとって困難は日常茶飯事であったかもしれません。しかし彼はその壁を乗り越えながらこれまでやってきたのでしょう。しかしその時に、彼はイエスさまに出会うことになったのです。

イエスさまは彼の名前を呼びます。初めて会うことになったザアカイをなんで知っているのか、ということには疑問が残ります。神の子だから知っていたと言われたらそれまでですが、もしかして街中でザアカイのことが噂されていたのかもしれません。それはあとから出てくる人々のつぶやきの中で皮肉のように言われていることであります。しかしザアカイは周りの人々の目線や言葉には戸惑わせられることなく、イエスさまの声に応答し、「今日、ぜひあなたの家に泊まりたい」という招きに応えたのです。

さて、ザアカイにとってイエスさまに声をかけられたことが救いだったのでしょうか。もちろん一つのターニングポイントになったことは疑いの余地がありません。しかしイエスさまが彼に対して「救いが訪れた」と語ったのはその後のことです。イエスさまがやってきたことが救いになるのでしょうか。それは一つのきっかけになると思います。でもより大切なのは、やはり「信じて受け入れる」ということなのではないかと思うのです。私がもっと大切だったと思うことは、ザアカイがイエスさまを受け入れたことだと思います。そして、そのような出会いと悔い改めということに躊躇がなかったということだと思います。立場とか名誉とかお金とかそういうものにしばられていたら彼はイエスさまに出会うことも、自分の歩みを変えてみることもできなかったでしょう。しかし彼はそのような変化を恐れずに、もっとも自分にとって必要な出会いを求めていきましたし、その出会いによって変えられることを恐れてはいませんでした。むしろこの出来事の中でイエスさまと巡り合っても変えられていないのは、群衆です。彼らはイエスさまの出来事を見ていただけですが、見ていただけでは何も変わりませんでした。「人の振り見て我が振りなおせ」と言いますが、彼らにとってはそれは自分の出来事にはならなかったのです。そうではなく変わろうとしている人に冷ややかにつぶやくくらいです。大切なのは呼びかけや招きに応えて木から降りること。自分のいた場所から降りること。その言葉に自分の出来事として応えていくことが何よりも大事なのです。

ザアカイはイエスさまの招きに応え、彼を家に招き入れた後、自発的に主に言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスさまはそんなことを彼に求めていたわけではありませんでした。しかしザアカイにとってはこのように応えることが必要だったのだと思います。それはザアカイが恐らくこれまで自分自身の心や尊厳を守るために必要としていたお金が必要ではなくなったということであり、かつそれから解放されたということを表しているのだと思います。

ですからザアカイにとっての救いとは、イエスさまとの出会いの中で起こった事柄ではありますが、イエスさまが来てくれてそれで与えられたものではありませんでした。むしろ彼が自分の決断の中で、自分に与えられたものを自分だけのために用いるのではなく、人のために用い、共に生きていくことを決めた時に、イエスさまはザアカイに対して「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言されたのです。

みなさん、もし神さまが与える祝福というもの、或いは救いというものが「個人的な繁栄」であるというのであれば、彼はイエスさまがくるまでにそれを既に受けていたはずです。或いは、イエスさまがやって来てくれたことで得る「個人的な赦しや個人的な満たし」であったとすれば、彼が何をしなくてもイエスさまは彼に救いを宣言していたでしょう。しかしそうではないのです。彼にとっての「救い」とは、自分だけで生きていた世界から、自分で隣人と共に生きていくために自分に与えられたものを用いることを決めた時に、救いが来たのです。それは自分だけの世界からの解放です。

実は11節以降、同じ文脈の中でイエスさまが語る「ムナのたとえ」という箇所からも明らかです。それは自分に与えられた賜物を用いていくことを神が願っているということ、そこが神の国であるという話に繋がっていくことからです。

人は一人では生きていけない。一人で生きていくものでもない。一人で生きていくのに十分なお金や能力や名誉を持っていても、神の国はそれが大切なのではない。交わりの他ただ中にあるということが大切であるということを、イエスさまは教えておられるのです。

「人の子は失われたものを探して救うために来た。」これは、まざにザアカイがそのような中で求めていた交わりをイエスさまが自分のところに来てくださったことに応答する時に起きた出来事なのです。

神の救い、神の祝福というものは、一人だけの自己を満悦させるものではありえません。その一人の人の命に愛を注ぐために与えられたイエスさまの愛に応える時に、私たちの中に体験的に立ち上がってくる出来事であるのです。そしてそれが実はイエスさまの愛の深さ広さをさらし知っていく恵みの源となるのです「受くるより与える方が幸いなり」これは、与える時に神の恵みの深さが私たちに起きてくるからです。

イエスさまは私たちに「共に生きていくため」に出会いを与えられます。私たちにはその言葉が今向けられています。この言葉に私たちはどう応答していくでしょうか。共に祈って参りましょう。