〇聖書個所 マタイによる福音書 10章34~39節
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
〇宣教「 平和と敵対 」
8月に入ると私たちは6日の広島の原爆記念日、9日の長崎の原爆記念日、また明日15日に控えている終戦記念日を改めて覚え、平和の尊さを感じ、世界中に平和が実現するように、特に核兵器が廃絶され、人々の争いが終結し、和解と共に生きる社会へと導かれますように祈ります。
現在私たちはウクライナの戦争被害を伝え聞く中で、平和が実現すること、争いが終結することは本当に大切なことだと感じます。戦争は攻撃を受けている被害者はもちろんそうですが、自分の意に反して攻撃せざるを得ない加害者がいるということも同様に悲惨であると感じるからです。まさに戦争は甚大な被害と多大な犠牲者と連鎖して消えることのない憎しみ以外は何も生み出さないのです。先週再びイスラエルやパレスチナでミサイル攻撃が起こりました。こちらも復讐の連鎖によって起きているものです。もちろん攻撃する側には、その理由が納得できるかできないかは置いておいて、もちろんそれなりの理由があるでしょう。そして被害を受ける人が抵抗することもまた理屈に適っていることだと思います。しかし、それだと戦争は終わりません。これはまさに人間の罪深さと言うか、永遠の命題だと思います。
ミャンマーやその他の地域においても、生存が脅かされている人たちがいます。人々は平和を祈り求め、平和を守り、平和を作るために武器を持ち戦うという選び取りをしています。それは仕方のないことなのかもしれません。かつて第二次世界大戦中、ナチスドイツに捕らえられたディートリヒ・ボンヘッファーという神学者は、非暴力抵抗運動の理想を持っていましたが、限界を迎えた状況の中で悪を倒すためにはだれかが悪を行わなければならないと考えヒトラー暗殺計画に加わりました。もちろんその罪は赦されるものではなく、罪であり裁きの対象になることだと承知した上のことでした。ところが、残念ながらその計画は発覚し、彼は投獄され、処刑されてしまいました。
私は、悪と呼ばれるもの対抗するために必要なことは何かをずっと考えています。「力を持つ」という道を選び取った人々を否定することはできません。平和を保つために攻撃されないために力を持つことが重要ということはわかるからです。しかし果たして本当にそれでよいのかと思うのです。何故ならば、力を持つことはまた新たな緊張関係の火種になることでしかなく、結局のところ「安全保障のジレンマ」と呼ばれることの繰り返しになるからです。悪と対峙するための、正義の戦いだとしても、自由と命を守るための戦いだとしても、それは結局のところ殺し合いでしかないのです。
このような矛盾した現実に生きる私たちにとって、「平和を実現する人々は幸いである。その人々は神の子と呼ばれる。」と言われたイエス・キリストの言葉は皮肉のように心に突き刺さります。平和を実現するためにはどうしたらよいのでしょうか。
私たちが自分の救い主だと信じ告白しているイエス・キリストは平和と隣人愛の実践者でありますが、平和に関する最たる教えがマタイ5章43-44節だと私は思います。こう書かれています。「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と教えられている。しかし私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。平和に関する教えや非暴力についての教え、殺人の禁止についてはその他にも至る所にありますが、根本的にこの教えが示す「敵と隣人」という構造が私たちが決定的に乗り越えれていないことだと思うからです。すべての人が隣人になることはできないのでしょうか。何故「敵」がいるのでしょうか。敵とはいったい何者なのでしょうか?しかしその問いとは関わらず、「隣人を愛し、敵を憎め」この教えはイエスさまの当時だけではなく、今も私たちに同じように教えられています。隣人を愛するのは当然だ。その隣人が誰かもわからないままに、自分や隣人を攻撃する敵を憎め(とまでは言わなくても、戦え)と言われます。隣人を守るために敵をやっつける。もう少し枠を広くすると国を守るために戦えということでしょうか。これは今も正義の言葉としてよく聞こえてくる言葉です。
ところが、イエスさまはそのようにまことしやかに語られている教え、あるいは世間の常識に対して「しかし、わたしは言っておく。」と前置きをして「敵を愛しなさい。そして自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言うのです。またそれと同じように「目には目を、歯には歯をと教えられている。しかし私は言っておく。悪人には手向かってはならない。だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)と言います。これは同害復讐の原則であり、相手に攻撃された場合に相手に過剰にやり返してはならないということを教えたものです。しかしイエスさまは同じことを仕返しすることもいけない。手向かってはならないと言うのです。そしてむしろ「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26:52)と言っておられます。これらのことを考えると、私はイエスさまは「力」そのものの否定、敵や悪という存在の否定を教えているのだと思うのです。剣を鞘に納めるという表現がありますので、力をふるうのは禁止されているけれど保持は認められていると解釈する人もいますが、原語を見ると「納める」は「戻す」や「わきにやる」と共に「捨てる」とも訳すことができます。大切なことはそれを人に向けないこと、それを手放すことなのです。
それでは「わたしの隣人とは誰ですか。」私たちもそのように考えることがあります。しかし、イエスさまは「善きサマリヤ人の譬え」で教えられたように、「誰が隣人か」ではなく「行ってあなたも同じようにしなさい。」と隣人になって行くように招かれているのです。敵と味方、関係のない人と隣人という垣根を作るのではなく、その時出会いが与えられた人と共に生きて行けるように、あなたが今自分にできることをしていきなさい。イエスさまがお話しされている「平和を実現する」ということは、そういう小さなところから始まっていくのではないかと思います。
実は聖書の中で「平和」を意味するヘブライ語のシャロームとは、戦争や紛争がない状態ではなく、一人一人のいのちが失われることなく、尊重され、満たされる状態のことです。そしてそのシャロームな状態というものは、「神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」とイエスさまが言われた通り、私たちの人間関係の中で実現することなのではないかと思います。
前置きが長くなりましたが、聖書個所に入ります。今日の箇所で、イエス・キリストは私が今申し上げたのとはまったく違うようなことを言っていると思います。34節にはこうあります。
「わたしが来たのは、地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。」
これは平和と愛の象徴のようなイエスさまのイメージとはまったくかけ離れており、およそそぐわない言葉だと思います。聞いた人はびっくりしたでしょうが、何故イエスさまはこんなことを言っているのでしょうか。やはりそこには隠された意図があるのでしょう。
「剣をもたらす」「敵対させる」私たちは誰と敵対するのかと言うと、イエスさまは「人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。こうして自分の家族のものが敵となる。」と言います。この箇所について岩波訳の聖書はこのように訳しています。「すなわち私は、人をその父から、また娘をその母から、また嫁をその姑から裂き分かつために来たのだ。つまり、人の敵はその家の者たちなのである。」すごい表現だと思います。しかもその後に、「わたしよりも父や母、息子や娘を愛する者は私に相応しくない」などと言われてしまうと、怖くなります。まるで最近世間を賑わわせているカルト教団のようです。イエスさまは家族のことを顧みず、あるいは家族を捨てて、自分の全てを私に献げて、私について来なさいと言っているのでしょうか。
これは一つの意味では恐ろしいことだと思います。これがもし「救われるためにしなければならないこと、あるいは神さまのためにしなければならないこと」であったとしたら、それは人々をマインドコントロールすることにもつながります。でも、そのようなことは、カルト教団だけに起こっている出来事ではなく、実は振り返ってみたら普通のキリスト教の、少々熱心な家庭の中でも起こりえることではないかと思います。正直に言えば私の生まれ育った家族も教会のことに熱心でした。そして家族の会話の中心はほとんど教会についてでした。わたしも教会に熱心でありその中心の一人でした。その時は気づきませんでしたが、その会話に入れない家族は蚊帳の外に置かれていたということがあったのではないかと思います。神さまを思う熱心が逆に人々を神さまから遠ざけてしまうことがあります。」私が今回カルト教団のことから自己反省的に、反面教師として考えていることはそのようなことです。
イエスさまが言っているのは、そのような意味で、もちろん家族に反対されても私について来なさいということではないと思います。しかしながらある意味で言うとやはり同じことを言っているのだと思います。でもそれは「救われるため」ではなく、「救われたからこそ」ということです。救いと言うと私たちは「永遠のいのち」を得ることや「天国に入ること」をゴールとしてそれを目指して生きていくことになりますが、実にイエスさまの伴いや言葉によって救われたからこそ、私たちは家やあるいは生きている社会、文化を立ち止まって見つめ、剣と表現されている「神の言葉」によってその見直しをすることをしていきなさいということなのではないかと思うのです。つまり、盲信的にイエスさまに付いて行くのではなく、客観的に私たちの土台を見つめていくということなのです。イエスさまが言う「私に従ってきなさい」とは、イエスさまの言葉や視点に立つということなのではないかと思うのです。
つまり、あなたがたが熱心なのはいいが、それによって傷ついている人はいないだろうか。あなたがたが中心となっている中で、疎外されている人はいないだろうか。そのような社会とは敵対(抗議を)し、万物の造り主なる神がその多様性を認められ、一つの地球に存在させていることからわかる通り、すべての人と隣人になって生きて生きなさいということなのではないかと思うのです。
誤解を招く表現かもしれませんが、人(息子)と父の関係、娘と母の関係、嫁と姑の関係、これはある意味でやはり確執を持つことがある関係性であり、家制度の中で緊張関係になりやすいものであります。家父長制的な当時の家社会の中では、特に個人の個性は、家の力関係に埋没するものであるからです。そして「こうあるべき」という家の中の独特な文化は人を縛り付けることがあると共に、家の中と家の外の世界を完全に分けます。それは「○○家の人間」ということであり、さらに言えば「○○民族」ということであり、「○○国民」という属性分けになります。そのような属性は本来人を守るべきものでした。しかしそのような「属性」が人を区別するということが起きていたのだと思うのです。
イエスさまご自身もそうです。マルコ3章でイエスさまは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と噂され、身内のものや母マリアが迎えに来るという出来事がありました。家族や親族のものからしてみれば、そんな変な噂をされているイエスさまを家に連れ戻しに来たのだと思いますが、イエスさまはこう言っています。「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か。」「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
つまり、これは私たちが関係性から「個人としての自立」することを教えているのです。イエスさまがもたらした御言葉の剣によって、家族と敵対させられた私たちはある意味で言えば「信仰的に、自覚的に自立した」ということなのだと思います。それは「自分たちが当然としていた教え、あるいは関係性」を断ち切るものであり、「マリアの息子」としてではなく、「個人として生きるため」に必要なのです。それは家族、民族、国民という属性に拠るのではなく、イエス・キリストの神の国で生かされている者同士が新たな隣人の関係になって行くことなのではないでしょうか。
39節「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者はかえってそれを得る」。自分のいのちを得たいと思う人は自分たちの平和を願います。家族や親しい人々との間に波風は立てたくないでしょう。しかし、本当の平和シャロームはすべての人のいのちが範囲に含まれています。神は全ての人のいのちの充実を願っておられます。だからイエスさまは社会の中で「平和ならざる状況」に置かれていた罪人たちを救うため、世の常識と敵対し、御言葉の剣を投げ込んだのです。
私たちはまた御言葉から今も問われます。私たちが立つべき場所はイエスさまの言葉であり、すべての人の罪を許し贖われたイエスさまの十字架、そして復活です。私たちには希望があります。何故ならばイエスさまは世に勝っているからです。すべての人の平和のために私たちも心を新たに歩んで行きましょう。