〇聖書個所 ヨハネによる福音書 16章7~15節

しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 

〇宣教「 弁護者、真理の霊は言の中に 」

今日の箇所は、「イエス・キリストの告別説教(或いは訣別説教)」と呼ばれるイエスさまによる弟子たちへのメッセージの一部です。ヨハネによる福音書では13章でイエスさまが弟子たちの足を洗い始めた後でこのお話を始められています。この話は17章まで続きます。この中には、有名な「わたしは道であり、真理であり、命である」という言葉や、「わたしはぶどうの木」という譬え、また「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」という、弟子たちが今後歩んでいく中で大切にしていってほしい教えが遺言のような形で残されています。

この箇所を今日選んだ理由は、イエスさまが去っていくということと牧師が転任するということを重ね合わせているわけではありません。そんなことはおこがましいことだと思います。でも、ここには今私たちが心を留めるべき大切なことが書かれていると思います。それはイエスさまは去っていくけれど、神の言は私たちに残されているということです。福音が失われてしまうのではなく、あなたがたのただ中に形を変えて留まり続けるということ。見えなくなってもその関係性は変わることはなく、繋がり続けるのだというのです。そのためにイエスさまが弟子たちに伝えているのが聖霊の約束なのです。

イエスさまが離れていくと告げた時、弟子たちは「主よ、どこへ行くのか。私たちはわかりません。」(14:5)と不安を露わにしています。それもそのはずです。弟子たちにとっては、自分たちの先生に当たる人がいなくなってしまうのですから、不安で心細くなるのは当たり前です。しかもイエスさはこの一連のメッセージの中で、「わたしが去っていくだけでなく、あなたがたはこれから迫害を受けるだろう(15:20)、しかもあなたがたを迫害する者たちが『自分は神に奉仕している』と考える時が来る。(16:2)」と言うような恐ろしいことを語っています。そんな余計なことを聞いたら私たちは恐れて不安になるしかないと思います。しかし、イエスさまはそんな弟子たちに対して、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(14:16)そして「心を騒がせるな。怯えるな。」(14:27)と言われているのです。

みなさんがもし弟子たちの一人としてこの言葉を聞いていたらどう思われるでしょうか。わたしなら、「いやいやいやいやイエスさま、そうは言うけど無理ですよ。イエスさまいなくならないでください。どうしても行かなければいけないと言うのなら、その弁護者を早く与えて、私たちが不安にならない状況を整えてから行って下さいよ。」とでも言いたくなってしまいます。そうは言わないまでも、イエスさまに「もっと詳しく教えてください。いったいどういう意味ですか?」と食い下がりたい気持ちはあるのではないでしょうか。今後起こる出来事を告げられても、うまく理解の出来ない私たちは不安や戸惑うばかりです。

ところが驚いたことに、この話を聞いていた弟子たちはそれこそ始めは不安になっていたものの、その後イエスさまの話を黙って聞いていたのか。何か口を開くこともはばかられたのか、イエスさまに質問する言葉が残っていません。普通ならいつものようにペトロが出てきて、なんやなんか言うのですが、そんなこともありませんでした。つまり、弟子たちがこの言葉をどのように受け止めたのかはわからないのです。私たちは聖書を読むとき、イエスさまの教えに対しての弟子たちの反応や応答を通してより深い洞察を得ることがあります。しかし応答がないということは、どのようにそれが響いたのかがわからないのです。

しかし「応答がないという応答」については「よくわからなかった」と否定的に取られることが多いと思いますが、他の一つの見方としては、「耳のある者はよく聞きなさい。」とイエスさまがよく言われたように、「聞いたことを心に留めてよく考えてみる」ということでもあると思うのです。今はよくわからないかもしれないし、質問もできない。うまく心に落ちていない。けれど、私たちの日々の歩みの中でイエスさまの言を黙想の内によく考えていったとき、出会いと出来事の中で気づくことがあるのです。

イエスさまが弟子たちに対して、「実を言うと、わたしが去っていくのはあなたがたのためになる。」と語っているのはまさにそういうことなのではないかと思います。私たちは目に見える頼れる存在がいなくなると言う時に、私たちは不安になります。これからいったいどうすればよいのかわからない。道筋が分からないからです。困難に出会うこともあるでしょう。恐れますし戸惑います。しかし、本当はそうではないのです。何故ならば、神の言葉は、この時に私たちに差し出されているからです。神の言は私たちを離れることはないのです。私たちが根差す場所はイエス・キリストの言なのです。

ヨハネ福音書は「言は肉となって私たちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)と記しています。これはまさにイエスさまが言となって私たちの交わりの内に留まっておられるということなのです。目には見えないけれど、私たちには言が与えられている。その言に生きる時、私たちは自身はぶどうの木の細い枝でしかないけれど、その枝は風に揺られはするし、吹き飛ばされそうになったりはするけれど、イエスさまのぶどうの木に結ばれた枝としてしなやかになって行くことがあるのではないでしょうか。イエスさまは私たちの歩みの上に様々なことが起こることをご存知です。しかしイエスさまは私たちのことを「みなしごにしておかない」(14:18)」ことを示すために、イエスさまは私たちに聖霊をお与えるという約束の言葉をお与えくださるのです。

聖霊と言うと、私たちは使徒言行録2章のペンテコステの出来事を想像すると思います。聖霊が与えられた時、「弟子たちは力を受けて、エルサレムばかりでなくユダヤサマリアの全土、地の果てに至るまでわたしの証人となる。」(使徒1:8)とあるように、どんな困難にも負けない強い信仰や篤い情熱、また勇気が与えられることを私たちは連想します。

でも今日のヨハネの箇所では、聖霊とは「弁護者」であり「真理の霊」であると書かれています。ギリシャ語では「聖霊(清いハギオス・聖なる霊)」とすれば、「真理の霊(真理アレーテイア・真実)の霊」で、少し意味合いに違いがあります。もう少し詳しく言うと、真理とは「客観的な真理、ありのままの真実」のことですから、誰かの個人的で主観的な内容ではなく、どんな人から見ても変わらない普遍的な真理であります。その真理に立つことが私たちの力になって行くのです。

何故、真理の霊が私たちを弁護してくれると言うのでしょうか。それはその真理が脅かされることがあるからです。真理とは何か。それはイエス・キリストの福音であり、イエス・キリストが語ってきた神の真理であります。それは神は愛であるということであり、「神はその独り子を賜ったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)という事実なのです。「み子を信じる者が一人も滅びないで永遠のいのちを得るためである。」という表現を考えてみると、それでは「み子を信じない人は滅びても良い」と考える人もいるかもしれませんが、そういうことではありません。何故ならば、そもそも考えてみると、聖書が記しているように、天地創造の時にこの世のすべての者を違いのある様に作られたのが神であり、その多様性を喜ばれ「良し」とされたのが神であるからです。神は全ての人を愛されているのです。そして神が一人の人も失いたくないと願っていることは、旧約聖書ヨナ書で神がニネヴェの町の人を救ったことに象徴されています。ですから、神は全ての人を愛しておられるということに焦点が定まるのです。神の愛、神の真理は全てのいのちは尊い命であり、そのいのちを、隣人と共にあるがまま生かされて行くことを神は願っているということです。

しかしそんな真理を脅かし、告発するものがいます。それはその真理をゆがめ、神の愛を隠し、違う教え、例えば、人のいのちには優劣があると言ったり、神の意に反して人のいのちの価値基準があると言うことがあるのです。しかしそれが恐らくはサタンという悪の働きになるのでしょう。それは人が神になり替わることであります。罪ということに関してもそうです。ヨナ書の関連で言うならば、彼は罪を犯したニネヴェの人々は滅びたほうが良いと考えていました。だから彼は神の御心から逃げましたし、神がニネヴェを救ったことに憤りを覚えたのです。

また新約聖書にも「姦淫の現場で捕らえられた女性」(ヨハネ8:1-11)のお話しがあります。女性はひろばに連れて来られ、姦淫の罪により石打の刑になるところでした。しかしイエスさまは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない人がまず石を投げなさい。」と言われました。その結果誰も彼女に石を投げることはできませんでした。イエスさまも「わたしもあなたを罪には定めない。」と言われています。私たちは自分自身を棚に上げて人を罪びととしますが、そうではいけません。むしろイエスさまがそのいのちを献げられたのは、私たちを含む罪びとの救いの為であったのです。この福音、この真理に立ち続けることが大切なのです。
聖霊の力とはその「真理(福音)を知ること」により、「世の誤り(罪)」に気付いた人々の心に与えられる「勇気(自由)」なのです。それが私たちの力となり、希望になって行くのです。

イエスさまはそのことを示す真理の霊を私たちにお与えになりました。そしていまや真理の霊は私たちの中に内在されているのです。私たちはその真理を伝え、共に生きていく者たちであります。そのように歩むことを「新生(新たな命に生きる)」と言うのです。

私たちは、共にイエスさまに愛を示された者たちとして生きています。そしてこれからもその真理によって生かされていきます。それはイエスさまが見えなくなっても私たちの心に根差したものであり続けます。私たちには神さまの言が与えられており、それによって互いに結ばれた者たちであるからです。

共にいる場所は異なり、交わりの持ち方は変わっても、私たちのただ中に主は共におられます。主の愛は示され続けています。この福音を伝え、この福音に共に生かされて参りましょう。