〇聖書個所 Ⅱコリントの信徒への手紙 3章1~6節

わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

 

〇宣教「推薦状はあなたがた! – 信頼と委託 – 」

今日は、久しぶりに神戸教会の講壇に立ちます。2週間続けて宣教しなかったということは、私は神戸教会に就任して以来初めてのことでしたので、久しぶりに講壇に立ってなんだか変なテンションでドキドキ半分、嬉しさ半分という不思議な感覚でいます。先々週の南雅夫先生の宣教、また先週の中田義直先生の宣教を聞いて、みなさんどうでしたでしょうか。その人となり、あるいは話し方、話の内容、それぞれに特徴があることを感じられたと思います。一言に牧師とは言っても色々な人格、証し、信仰観、神学があります。皆さんの中には、「今度はこんなタイプの牧師に来てほしい」というようなイメージを持つ機会になったかもしれません。でも、私が今日この宣教の中ではっきりお伝えしたいと思うことは、神戸教会がこれから行っていく牧師招聘というものは、「どこかの先生に来てもらう」というものではなく、「自分たちの教会の牧師として立ってもらう」、あるいは「立てていくこと」だということを今日はお話ししたいのです。

バプテスト教会において、牧師とは身分ではなく職分です。どっかにいる牧師という身分の方を招くのではなく、自分たちの牧師として自分たちが立てていくのです。自分たちがその人を信頼し、牧師となってもらい、その働きを委託していく。そして、私たちが牧師を支え、教会として共に歩んでいく。これが職分としての牧師であり、この関係性がバプテスト教会の土台です。ですから、バプテスト教会では、厳密に言えば、自分たちの牧師は自分の教会の牧師一人だけであり、他の牧師に来ていただくときは、「どこどこ教会の(委託を受けている)○○牧師」という表記になるのです。今は私が皆さんの信頼と委託によって牧師として立てられています。この関係性は、他の教会から来ていただく牧師との関係とはまったく別次元の信頼関係によるものであるのです。それは、バプテスト教会にとって牧師とは自分たちが立てていくものであるという関係性があるからです。ですから、牧師とは誰か、それは敢えて言い換えれば「委託している教会の代表」であると共に「委託している者たち自身(の代理)」であるともいえるのです。

ですからこうも言えます。牧師に対して批判が起きることがあります。どんな人間にも欠けがあります。私に対しても当然批判はあると思います。今日が新しい牧師招聘のアンケートの締切日ですので、午後の招聘委員会ではそのアンケートのとりまとめを行うそうです。そのアンケートには現牧師である私に対する皆さまの評価というものが反映されると思います。それは当然のことで、ある意味で言えば私にとっては今後のチャレンジの言葉ともなりますので私はとても楽しみにしています。しかしよくよく考えると、その批判される部分があるということについては、果たしてそれは牧師だけの問題になるのか。それともその牧師と共に歩んできた皆さん自身がそれにどのように関わって来たのかということも問われることになるのです。

もちろん私自身のことを考えると、初めての牧師としての経験を与えられた場でしたから足りないこともたくさんあったと思います。そしてそれに対しては、みなさんの寛容さに救われてきた部分がありますし、大変感謝しています。時には多くの叱責を頂いたこともあります。しかしそれは同じ痛みを皆さんが感じたからこそ言葉として表していただいたことだと思います。これも感謝なことでした。しかし一方で、もし何か気付いたことがあったにも関わらず、それを言わないで終わってしまった時、私はそのことに気付くこともないまま同じ間違いを繰り返すということになってしまいます。もちろんその背後には、わたしを傷つけたくないために見過ごしてくださったということもあるかもしれませんが、それが果たして本当に良いのか、ということです。最近あるCMで「そこに愛はあるんか」というフレーズをよく聞きます。消費者金融のCMだと思いますが、言えていると思います。人を甘やかし、その過ちを見過ごすことが「愛」かと言われたら、それはそうではないのでしょう。つらくても、むしろしっかり相対してくださることがやはり大切なのだと思います。

むしろそのようなやり取りこそが教会の出来事となり、牧師と信徒を繋ぐ出来事にもなるのです。ですから牧師とは誰か、それはさらに言えば、信徒の一人である牧師候補者を「牧師」として支える「チームとしての働き」とも言えるのかもしれません。

今日の聖書の箇所でパウロが言おうとしていることは、そういうことに近いことのように思います。パウロはコリントの信徒に宛てた手紙の中にこう記しています。

「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。」

パウロがこのようにコリントに手紙を書き送った背景には、パウロのことを「自己推薦的だ」と非難する人々がいたことが予想されます。コリントという町はギリシャ世界の中でも特に有名な交通と交易の要所でありましたので、色々な文化背景を持つ方々が入ってきていました。ここでパウロを非難してきた人々がどういう方々であったかと言うと、この手紙の文面に「石の板」とか「新しい契約」、「文字は殺し霊は生かす」などの言葉があることから察すると、律法を大切にするユダヤ主義者であったようです。使徒言行録15章にも「イエスの弟子」を自称しながらも「イエスさまの教え」ではなく、「自分たちが大切にしている伝統的なユダヤ的な教えを守ったうえでないと救われない」などと言ったような「自分たちの正義」を押し付ける「おせっかいな人々」がいたことを証明しています。恐らく、彼らが言っていたことというのは「パウロなんて神の教えを踏みにじるものを、ユダヤの仲間たちは本当は誰も支持されていないのさ。それに比べて私たちはエルサレムから派遣されてきた正統な使者なのだ。だから私たちが言っていることの方が正しいのだ。」ということだと予想されます。人は正統的とか権威に弱いものですから、コリントの教会の人々は戸惑っていたことだろうと考えられます。

しかし、だからこそパウロはそのような人々のことを念頭においた上で言うのです。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」これはつまり、「わたしがいまさら自分自身を推薦する必要があろうか、私たちの間には既に信頼関係はあるのではないか。そんな他のところからやってきた人の言葉にいちいち惑わされる必要はない。」という意味だと思うのです。確かに信頼と委託の関係は、誰か他の人の推薦(保証)を必要とするものではありません。むしろその人々同士の人間関係の中で成り立つものであります。もちろん最初の段階ではどこかのお墨付きが欲しいということはあるかもしれません。しかし、大切なのは、どこかの推薦よりもまさにその人が自分自身の中で推薦できるようになっていくことです。ですから、パウロはあなたがたがわたしたちの推薦状だと言うのです。

このパウロの「推薦状理解」というものは、バプテスト教会における牧師招聘の事柄ととても似ています。と言うのは、バプテスト教会にとって、大切なのは資格や推薦ではなく信頼だけであるからです。神学校卒業資格すら問われない。これはバプテストだけの特徴です。他のキリスト教会は全て教団認定資格があります。試験があります。しかし私たちにはそれがないのです。それは信頼と委託によってすべてが成り立っているからです。推薦や保証なんて関係ないのです。その信頼と委託の関係を日々続けていくことが、教会の歩みとなって行くのだからです。どっかから公認された牧師が教会で働くのではないのです。私たちの関係のただ中にあるのが教会なのです。ですから、牧師招聘とは牧師を招いて終わりだけではなく、信徒同士の交わりの中で牧師になって行くという連続的な関係のいとなみであるのです。

人を推薦するということで言えば、現在参議院議員選挙が始まっています。三ノ宮駅でも街頭演説など行われています。暑い中本当にご苦労なことだと思いますが、しかしむやみやたらに推薦(投票)を求めたり、お願いすることだけで本当の信頼を勝ち取ることはできないと思います。また自分のしたいことだけを言うのでもダメなのでしょう。本来ならば、支援者が何を期待し、その思いに応えるまさに代表者のような方が出ていくことなのではないかと思います。大切なのは関係性です。もちろん人間ですから失敗は付きものです。ですからなんらかの過ちを犯したときには、しっかりと悔い改められるか、自らが語った言葉によって得た信頼にどのように応えていくのか、歩んでいるかということが決定的に大切なのではないかと思うのです。大切なことは、推薦状より、他人の心に自らのことが記されることであるのです。そのために必要なのが祈りや対話によって心を通わせ合うことではないでしょうか。ですから、「この人良さそう」とかいうイメージや「この人自分と同じ思想信条を持っているから」とか「他の人にお願いされたから」とか仲間意識的なことで投票をするよりも、その人自身の選び取り、どこの政党から出ているかも含めて吟味していき続けることが大切なのでしょう。

何故ならば同時にパウロはこうも言っているからです。「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。」

つまり、私たちの推薦状があなたがたという事実は、私たちの働きを通して、推薦しているあなたがたのことが、人々に知られているのだということです。つまり、牧師を立てていく中に信徒の祈り、思い、また献げものがあるということなのです。牧師の背後には教会があり、教会員がいる。色々な人に支えられ、そして教えられ、牧師は立てられているのです。一人で牧師、或いは代表者になることはできないのです。

ですから、選ぶ側には責任が生じるのです。このように言うととても重い事柄のように感じられるかもしれません。しかしそこにおいて選ばれるということは、私自身のことを振り返ってみても非常に感謝なことでありました。それは「文字」で書かれた契約よるものなのではなく、まさに信頼と相互の委託によって成り立つものなのであるからなのです。多くの方々の信頼によって立てられ、そして祈られているという安心感、責任感。喜び。皆さんの信頼に応えていきたいと言う気持ちが湧いて出てくるのです。やはりこの関係こそが、生きて働く聖霊の導きというものなのではないかと思います。

そのような時に感じるのが、私たちがまさにイエス・キリストの体なる教会の交わりであるということです。私たちは互いにキリストによって招かれ、キリストの体のそれぞれの部分として結ばれているのです。そのキリストの体は「これこれこうしなければいけない」というような律法の文字ではなく、生きた聖霊の導きの内に全体として整えられて行くのです。そこには、より弱いと思われる部分がより必要なのであり、どの部分が大事で、どこが不必要かということではなく、すべてが大切なのだと言うことなのです。

私、この8年間の神戸教会での歩みの中で色々な人と色々な場所で出会って参りました。人にはそれぞれ色々な事情があり、教会に来れるときも来れない時も、奉仕できる時もできない時もありました。ご年配の方の中にはコロナ以降、なかなか教会に来ることができなくなられた方々もおられます。しかしそんな方々に出会いに行ってお話しする時に、その人が教会には来ることはできなくなったけれど、信仰によって生かされていることを本当に感じるのです。また教会のために祈っておられることを感じるのです。私たちはなかなか会う機会が限られるとその人のことを思い起こすことも少なくなることがありますが、しかし私たちは依然としてキリストにあって教会にあって、その方々と繋がっていることを感じるのです。このような交わりの中に、神の国があるということを本当に感じます。

今日わたしたちは共に主の晩餐式を守ります。イエス・キリストは失われた小羊のような人々のところに出会いに行かれ、対話をなされ、その祈りや叫びを聞き、その痛みを共に担われ、傷ついた箇所に触れられました。そのような直接的な出会いの中に、癒しが起き、平安が与えられました。わたしたちはまさにそのような出会いの中でイエス・キリストに結ばれ、互いに結ばれている者たちです。イエス・キリストが私たちのために流された血や裂かれた体を象徴した主の晩餐式を共に守り、イエス・キリストの福音を伝えるために、共に交わりを深めて参りましょう。