〇聖書個所 箴言 3章5~7節

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。

 

〇宣教「主はあなたの道筋を『まっすぐ』にしてくださる 」

今日は実は、元々は違う聖書の箇所をお話ししようとしていたのですが、西野さんの信仰告白の準備を一緒にしている中で、やはりこの箇所からお話をしようと急遽変更しました。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」

この箇所が大好きだという方は恐らく他にもたくさんおられるのではないかと思います。私もこの聖書の言葉にとても大きな慰めと励ましと受け止めてきています。何故ならば、私たちはこれまでの歩みの中で何度も判断を誤り、罪(的外れな生)の中でもがき苦しんできたことがありますが、そのような私たちにとってこの言葉は非常に大きな慰めとなり、平和を与えるからです。神が私たちのガイドとなり導き手となってくださる。私は一人ではない。もはや自分だけの判断で歩む必要はない。神に委ねていいのだという安心を与えます。主に信頼することは私たちの歩みの強固な土台となることを感じます。

箴言は格言のように書かれていますので、なにやら完成された教えのように感じられますが、実はイスラエルの人々がその日々の営みの中で綴られてきた知恵の教えであり、それこそ紆余曲折を経ながら培ってきた体験的な教えであります。それは、イスラエルの人々の歴史を見てみればわかります。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」と言うならば、神の民イスラエルはまっすぐに歩んでくることができたのでしょうか。

果たしてイスラエルの人々はその歩みにおいて、常に主に信頼して歩んで行ったか。彼らはその信仰からぶれることなく歩んで行ったか。そして神からの祝福を受けて、歩みがまっすぐにされてきたかと問われるならば、それはNOだと言えます。なぜならばイスラエルの歩みは、「まっすぐ」にしてくださるという言葉どころか、それとは真逆とさえ言えるような波乱万丈な歩みであったからです。具体的に言うならば、国が滅ぼされ、人々はバラバラに散らされ、70年に及ぶ捕囚では言語さえ失われてしまうということがありました。捕囚から解放された人々が、そのような苦難に陥ったことを反省し、神の言葉に立ち返ろうとしたことがあったことが旧約聖書エズラ記・ネヘミヤ記に書かれていますが、今度はその教えを忠実に守っていこうとするいわゆる正しい人々が、その純粋な信仰のゆえにその教えを守って生きることができない人々を裁き、差別するというような状況も起きてきました。このように神の民イスラエルは、神に守られ「まっすぐ」にあゆんで行ったとは到底言えない歴史を歩んできたのです。

もしそれが、彼らが主を信頼していなかった証拠であり、神よりも自分の分別ばかり頼っていた証拠だと言われるならば、それはその通りなのだろうと思います。神の御心かどうかはわかりませんが、人々にとってはまさに神の裁きのように感じられたことでしょう。

でも事実それがイスラエルの歴史的な実体験であるのだとすれば、彼らは何故主があなたの道筋をまっすぐにしてくださるなんて言えるのでしょうか。そのように言える根拠はどこにあるのでしょうか?そうあってほしいというただの願望や希望的観測、実体を伴わないお題目だということなのでしょうか。いいえ、私はそうは思いません。この言葉には、イスラエルの人々がやはり苦難の中においても、いや困難においてこそ神が共にいてくださるという信頼、確信が込められているからです。

私たちは『まっすぐ』というと、どんな状態を想像するでしょうか。人生において遠回りの無い歩みでしょうか。上り下りという波風の立たない平和と安定の道でしょうか。あるいは自分たちが危機に陥ることのない安心した状態、それとも順風満帆というような神の祝福を想像するかもしれません。私もかつては神さまを信じれば、まっすぐな道が全てにおいて整えられていくものだと信じていましたし、そしてその信仰のご褒美として神さまの祝福が与えられる、成功が約束されるということを純粋に信じておりました。しかし、聖書が語る「まっすぐ」な道というものは、そういうものではないようです。先ほど、イスラエルの歩みを一部ご紹介差し上げましたが、そこからもわかるように、私たちが神を信じていても困難に陥ることはあるのです。神の裁きとしか思えないような事柄にも直面することがあるのです。しかし、そのような私たちにとって、主が私たちの道筋をまっすぐにしてくださると言うのは、私たちが困難の中にいる時にも神が共にいてくださることによって、様々な紆余曲折があったり、人生の上り坂、下り坂、まさかというような状況があったりしたとしても、神がわたしたちを守り導いてくださるのだということなのです。

先ほどの西野さんの証しの中で、50年前にこの神戸教会の教会学校に来られていたというお話がありました。その時はお母さまの反対によって教会に続けてくることができなくなってしまいました。自分の願いの通りにできなかったということは西野さんの中で大きな痛みともなったことだと思います。しかし、紆余曲折を経ながらも、また再び教会に行って見よう、自分の信じる神がキリストであったという思いが与えられ、教会に来ることができるようになりました。もしかして、50年前から続けてきていたら、もっと違う人生になっていたかもしれません。しかし、神さまがその時々の出来事の中で西野さんを守って下さったからこそ、このような出会いが再び与えられたのだと思います。

今年のイースター礼拝の後、私たちの教会は久しぶりに食事を共にする交わりを守りました。園庭でタープを立てて久しぶりにゆったりとした交わりをすることができて、本当にそのような何気ない時間が楽しかったことを思い出しますが、その時に西野さんも参加してくださったので、「西野さん、どうですか。楽しんでいますか。」と声をかけました。そうしたら、西野さんは、幼稚園のデッキに腰をかけながら、「もっと早く来ればよかったです。」とおっしゃってくださいました。その言葉の背後には色々な思いが込められていたのだと思いますが、でも、神さまが西野さんのために時間を備えていて下さり、今がもっともよい時として出会いを与えてくださったのだろうと私は思っています。

困難にいる時には、私たちは神の守りなんてないように思います。神を信頼していたとしても、神に裏切られたとしか感じられない時もあるのです。しかし私たちは振り返ってみると、やはりその時にも神は共にいてくださったと思うことがあるのです。その時にこそ感じるのが神の守りであり、感謝です。

キリスト教の中で有名な詩に「フットプリンツ(足跡)」という詩があります。マーガレット・F・パワーズという方が作られた詩です。ご存知の方も多いと思いますが、励みになる言葉ですのでお読みします。

「ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」

この詩に表されているように、神の伴いというものが感じられない時もあります。しかし、実はそのようなときにこそ、神は共にいて私たちを支えてくださるのです。箴言が伝えようとしている「まっすぐな道」、それは波乱万丈、紆余曲折、困難の連続の中にあっても、神の伴いによってすべては平和へと変えられるという信仰告白なのです。

しかし一点だけ深く考えてみるならば、「自分の分別には頼らず」ということを実践するのは難しいと感じます。というのは、主を信頼するということも含めて結局は自分の分別であるからです。もし自分の分別をなくして主への信頼だけに生きると言うなら、それは盲信的な信仰であり、まさにマインドコントロールであると言えるでしょう。神はわたしたちにロボットのようになりなさいと言っているわけではありません。信仰を持って生きると言うのは、私たちの分別の中に、私たちの歩みの中に、常に伴っておられる、「主を覚える」ことであります。つまり、あなたがたは一人ではない。一人で何かを分別しなければいけないように思う中にも、実は主が共におられるということなのです。主がわたしたちの様々な歩みの中に伴ってくださる。これを信じて、あなたの道を歩むこと。そのようにした時、私たちは様々な困難の中でも、神によって私たちの道がまっすぐにされるということなのです。私は神を信じるということは正しい一つの道を歩むことだと信じていたことがあります。しかしそうではないのです。神が私たちに伴っていてくださる。その信頼関係、その土台の上であなたの道を歩んでいくということを神は喜んでおられるのです。

時に間違えるかもしれないことはあります。しかし神の目において無駄なことは何一つありません。主は全てのことを導き、すべてのことを繋いでくださるからです。私たちにはこれからも色々なことが起きるでしょう。しかし、神は私たちを見捨てることはありません。むしろ困難のただ中にいる時にこそ、主が私たちを背負い歩いてくださることを心に留めて、これからの時に進みだしていきたいと思います。