〇聖書個所 ハガイ 2章1~9節

七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。「ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者に告げなさい。お前たち、残った者のうち/誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと/主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると/万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たとき/わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度/天と地を、海と陸地を揺り動かす。諸国の民をことごとく揺り動かし/諸国のすべての民の財宝をもたらし/この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。銀はわたしのもの、金もわたしのものと/万軍の主は言われる。この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると/万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と/万軍の主は言われる。

 

〇宣教「福音 - 再び立ち上がっていく力 – 」

今日の宣教個所はハガイ書を選びました。みなさんはハガイ書を読んだことがあるでしょうか。旧約聖書の小預言書の一つ、しかも最後から三つ目に位置しています。恐らく聖書通読でもしない限りはあまり開くことがない箇所だと思います。もしかすると聖書を開くのにもどこかわからず苦労することもあると思います。なんで今日唐突にこんな箇所を牧師は選んだのかと疑問に思われる方もおられたことでしょう。それほどマイナーな箇所です。皆さんそれぞれに好きな聖書個所をお持ちだと思いますが、私はこれまでハガイ書が好きだという人を聞いたことはありません。でも、実はこの箇所は私にとっては献身を志す時に示された大切な箇所なのです。

私がハガイ書を好きな理由は、今お読みした聖書個所のなかにいるように、「勇気を出せ、働け、私が共にいる。私はあなたを見捨てない。私の約束は今も生きている。」と言うインパクトのある言葉が、当時大学を卒業する間際でしょうか、恐れと戸惑いの中で何もできない状況にいた私に非常に力強い言葉として響き、心に残り続けたからです。神という存在に対する私たちの呼びかけの言葉、いわゆる信仰告白は、神が自分自身に対してどのような形で影響を与えたかということによって変わるものだと思います。例えば、神は愛してくださる方という告白をする方もおられると思いますし、守り神、癒し主、慰め主という形で表されますが、私にとっては導き手です。それは私が歩むべき道に向かっていくことを躊躇していた時に、不安に思う必要はない、私が共にいるのだから歩み出してみなさいという導きがこの言葉によって与えられたように思うからです。そして、今日私たちが共にこの言葉を受け取りたいのは、神が私たち一人一人に備えておられる計画に向かって、歩み出していきたいからなのです。

実は、ハガイ書にはハガイが告げた神の言葉しか記されていません。どういう文脈の中で語られたのかということはハガイ書を読むだけではあまりよくわからないのですが、その文脈は旧約聖書エズラ記の中にあり、そのハガイの言葉が人々を大いに力づけたということが記されています。

聖書の歴史の話をすると、少し眠くなってしまう方もおられるかもしれませんが、大切なことなので少しだけ触れたいと思います。エズラ記は北イスラエル王国と南ユダ王国が滅び、約70年に及ぶバビロン捕囚から帰ってきた時期のお話です。ユダヤを占領したバビロニアはその後、ペルシャ帝国によって滅ぼされますが、その時に捕囚の民(バビロンに強制移住させられていた人々)に解放令が出され、自分たちの国に帰ることができるようになりました。これはユダヤの人々にとっては、喜びの時であり、自由を得た時であり、ついに神の約束が実現した時でありました。ですから人々は、神が、その解放を導いたペルシャ帝国のキュロスという王さまに働きかけたと信じ、エズラ記の冒頭にはそのように記しています。

解放された人々は、神殿を再建する希望を持ってエルサレムに帰ってきました。彼らが神殿再建を願った理由は、バビロン捕囚という悪夢の出来事が起きたのが、まさに自分たちが神の言葉から離れて行ってしまったからという反省に立ち悔い改め、改めて神を信じて生きる為に神殿を中心とした信仰生活を送ることを願ったのです。ところがなんとエルサレムに残っていた人々の妨害工作によって、その工事は中断に追いやられてしまいました。その妨害工作とは賢いものでして、ペルシャ帝国の行政に「ユダヤ人たちは独自の神を信じて王様のいうことを聞かない人々だから、神殿なんて作らせたら大変だ」と訴え出るというものでした。ものの見事にその訴えは成功し、神殿再建の工事はストップしてしまいました。その期間は何と15年にも及びました。(巻頭言には2年と書きましたが、間違いでした。)この15年は、意気揚々と帰ってきた人々を再び絶望のどん底に突き落とすのに十分な時間でした。解放の希望が潰えてしまった。そうなってくると彼らはエルサレムに戻ってきた理由すら見失い、腐るようになって行きます。本当はそうではないのです。神殿は象徴であり、神の守りは言葉の中にあるのですから。でも、希望を失った人々は次第に神から離れ、世間に染まっていく。そのような状況がありました。しかしそこに現れたのがハガイであったのです。

「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと/主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると/万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たとき/わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。」

ゼルバベルとは、ダビデ王家の血筋を引いたユダヤ人のリーダーであり、ヨシュアは大祭司です。そしてユダの民全体に「勇気を出せ」と語る言葉は、人々を立ち返らせる檄文のように響く言葉でした。何のために私たちは戻ってきたのか、それは神を信じ神に生きるためではないか。この時彼らはまさに言葉によって生き返ったのです。ハガイの預言に励まされた彼らは、中止命令が出ていた現状に変化はないにもかかわらず、神殿再建に向けて歩みを進めるのです。そうした時、まさに「閉ざされていた門」が開かれていくように、神殿再建への道筋が全て整えられて行ったのです。驚くことに行政官が、かつてキュロス王の時に神殿再建が認められた証拠を見つけ、工事を許可しただけではなく、工事が滞りなく進むように、費用など色々な支援を受けることができるようになったのです。

ハガイ書にはその顛末は記されていません。しかし、神の言葉を信じ、またその言葉に生かされていく時に、私たちはたとえ目の前に困難があってもそれを乗り越えていくことができるのです。私はそれが信仰というものが持つ強さであると思うのです。

新約聖書ヘブライ人への手紙に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と書かれていますが、信仰とは状況的に整った中を歩むものなのではなく、まさに暗闇のような中においても、神を信じることによって歩んでいくことが信仰の歩みと呼べるものなのです。そういう意味で言えば「信仰」の反対語は不信仰、信じないということではなく、信じて歩まないこと、つまり「諦める」ということなのではないかと思います。私たちは諦めてしまっていることはないでしょうか。私たちは神に一人一人与えられた働きがあります。そしてそれは私たち一人一人が神への立ち帰りの中で与えられた思いであることがあります。しかし、自分たちの思い通りに行かない現実にぶち当たると、ユダヤの民が諦めたように、私たちも諦めてしまうことがないでしょうか。

私はかつてそういうことがありました。わたしこう見えて劣等感の塊のような人間でして、いつも「自分なんてどうせ」って思ってしまう人間です。神さまのために仕えたいと思っても、そんな大層な人間じゃない、誇れるものなんて何もないと思い、勇気が出ずに諦めてしまいそうになっていました。実は牧師になった今でもメッセージを語っても後は落ち込むことばかりです。でも、大切なのはそこではないのです。ハガイの言葉は勇気を出せ。働けです。つまり特別なことをあなたはするのではなく、心を強く持つこと、そして自分の目の前にあることに誠実に取り組むことなのです。そうした時に私たちの道が開かれてくるということなのです。信仰とはそのように招いてくださる神を信じ、神の与えてくださる希望を受け止め歩むことなのだと思います。最初は信じて進むなんてことはできないと思います。でもその道のりの中で、私たちは神の存在を確認していくのです。

私たちが今日、共に箇所を読んでいる理由は、神戸教会が現在牧師招聘と共に建築委員会を立ち上げ、教会堂の再建ということを考えている段階にあるということがあります。教会堂を立てるということは非常に大きな事業です。自分たちの目には不可能のように見えることかもしれません。しかし、この教会が神の御心の内に立っているのであれば、あるいは私たちがその信仰の内に立っていくならば、必ずや神が全てのことを導いてくださるということをお伝えしたかったからです。

「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると/万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と/万軍の主は言われる。」

すごい言葉だと思います。でもこの新しい神殿とは、エズラ記やネヘミヤ記で造られたいわゆる第二神殿と呼ばれるものですが、バビロンからの帰還直後に作った神殿がそんな栄光に輝くような大神殿であったわけではありません。むしろ第一神殿、つまりイスラエル絶頂のソロモン王が7年もの歳月を用いて造られた豪華絢爛であったことは確かです。でも、そう言うものではない。見た目の美しさではなく、人々の信仰がこの神殿の中で育まれることが栄光に輝くことだと言うのです。

さて、皆さんはここまでのお話を聞いて、西脇牧師は、新しい神戸教会をそのような教会として造っていくようにと話していると思われたと思います。当初この箇所を選んだ時は実はそのようなことをお伝えしようと思っていました。しかし今日わたしはこれに加えて少し角度の違うことをお話ししなければならないと思っています。

実は最初に人々がバビロン捕囚から帰ってきた人々が神殿を再建すると言った時、他の人々が妨害したと言いましたが、初めから妨害しようとしたのではないのです。実はすべての人がバビロニアに連れ去られたわけではなく、連れ去られたのは一部の上級身分の者たちだけでした。ですからこの地には他の人々が残っていたのです。彼らは帰還民が帰ってきたとき、自分たちもその神殿つくりに協力したいと申し出ました。ところがそれを帰還民は断ったのです。ここから対立と妨害が始まっていったのです。問題は、帰還民が他の人々と一緒に歩むことを望まず、自分たちだけで作ろうとしたことです。そこにはもちろん、使命感があったのだと思います。そして律法が教える正しい方法で神を信じて生きていきたいという願いもあったことでしょう。しかしそれは差別を生み出しました。自分たちの正しさが人々を排除し、争いを産むことになりました。またその人々が神にあって正しく生きようと純化した結果生み出されたのが、ラビ的ユダヤ教、いわゆるファリサイ派ということになるのです。

イエスさまの時代、ファリサイ派の人々は律法を守り、神の教えを優先して生きていたため、罪びとと呼ばれる人たちとの交わりは持たないようになって行きました。そこで登場したのがイエス・キリストでした。イエス・キリストは正しさよりも愛を行いました。イエス・キリストはファリサイ派のことを、白く塗った墓であると批判しています。綺麗に見えるけどむしろ人々を死に縛るものだと言うのです。しかし神の愛はそうではない。むしろ神の正しさというものは、無条件の愛にあることをイエスさまは示されました。私たちはその神の無条件の愛を、感謝をし、イエス・キリストが生きられたようにその言葉を毎週の礼拝で受けて生かされています。私たちがイエス・キリストを信じて、信仰生活を歩むと言うのは、そういうことなのです。救われるために信じているのではなく、信じたから救われるのです。

皆さんもご存知のように今、一つの新興宗教のことが世間の関心事になっています。一人の方が新興宗教にハマり、教団はその信徒が破滅するほどの献金をさせたうえ、助けることもせず、家庭が崩壊していくのをそのままにしたということです。本当にひどい話だと思います。

恐らく、私たちの中にも「宗教不安」を持たれた方もおられると思いますし、周りの人たちから「キリスト教も同じじゃないの」と言われた方もおられるのではないかと思います。全然違うものであることを断言したいと思います。キリスト教の神髄はイエス・キリストの十字架です。イエス・キリストの犠牲によって私たちに和解が与えられた。それは私たちが共に生きていくためです。だから私たちは互いに平和に生かされていくのです。神の名のために私たちが犠牲になる必要はありませんし、そうならないようにイエス・キリストが唯一の犠牲として神に献げられたのです。同じようなことは必要ではないし、あってはならない。だからあなたがたは共に生きて生きなさいということなのです。

イエス・キリストは、ヨハネ福音書で自らを神殿に譬えられ、三日で立て直すと言われました。それは、イエス・キリストの神殿は、このイエスさまによってのみ私たちに平和が与えられることを教えられるからなのです。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす。」私たちが神のために何かする必要はありません。神が私たちのために命を献げられた。だから私たちはその愛に応えて生きるのです。ここが主の神殿、イエス・キリストの教会なのです。新しい神殿の栄光。これはイエス・キリストの福音に満ちた教会なのです。だから私たちは倒れても再び立ち上がっていく力が与えられるのです。