〇聖書個所 ヨハネによる福音書 10章11~18節

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 

〇宣教「真の羊飼い ~羊のために命を捨てる~ 」

今日の聖書箇所は、私たちにとって非常に親しみのあるイエス・キリストの譬えの一つだと思います。イエス・キリストは言われます。「わたしは良い羊飼いである。」この言葉だけでも私たちにとっては「納得感のある答え」ですが、それでは一体、良い羊飼いとはどんな羊飼いなのでしょうか?

それに触れる前に、聖書に登場する他の「羊と羊飼い」のモチーフを見てみたいと思います。「羊と羊飼い」とは、元々遊牧民族であったイスラエル人が自分たちと自分たちに伴い導いてくださる神の存在を「羊と羊飼い」に譬えたものでありますが、神と人々との信頼関係をよく表しています。そのような関係について、私たちが最も親しみを感じるのが詩編23編ではないでしょうか。そこではこの信頼関係についてこのように歌われています。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」

ここにはイスラエルの人々が羊飼いである神に抱いている圧倒的な信頼関係が描かれています。この歌には全体的にイスラエルの人々が不安の中にいることが情景としてあるのです。例えば、死の影の谷とか、災いとか、私を苦しめるものの存在があるのです。しかしそんなことがあったとしても、私たちは恐れることがないと言うのです。何故ならばそんな不安な中にいる私たちに神は伴っていて下さり、災いから守りそのいのちを導き出してくださるからだというのです。「主我を愛す」という賛美歌があります。「主我を愛す。主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ。」まさにこのような関係性です。だから羊たちは「主は羊飼い。私には何も欠けることがない。」そして「主の家に私は帰り、生涯そこに留まるであろう。」と絶対的な信頼関係を歌うのです。なんという詩でしょうか。神は私たちは迷える子羊でしかなかったとしても、私たちのいのちを守り満たしてくださる方であるという告白なのです。

このようなイスラエルの人々の信仰告白のような詩に私たちも大いに心が打たれますし、私たち自身への慰めとして受けることがあると思います。その中で神の力として最も具体的な象徴が、「あなたの鞭、あなたの杖」という言葉です。これは羊飼いが羊を守るために狼と闘う道具として用いる鞭と、羊たちを守り、迷わないようにガイドするための杖です。これが自分たちを守ってくれる羊たちの信頼と感謝の根拠であり、神を羊飼いたらしめる関係性なのです。

イエス・キリストが言う「良い羊飼い」もまたそのような「羊飼いと羊」の関係性を受け継いでいると言えるでしょう。何故ならば、イエスさまはその「良い羊飼いの姿」を明らかにする前に、その対比として「自分の羊を持たない雇い人の姿」を引き合いに出してこう言っているからです。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。」イエスさまによれば羊飼いと雇人には明確な違いがあります。それは、「その羊を心にかけること」だと言えるでしょう。イエスさまはルカ福音書で「99匹の羊を野に残しても迷い出てしまった1匹を探しに行く」という譬え話をしてるように、その1匹への愛を持っているのが羊飼いであり、その一匹への愛を持っていないのが「雇人」であると言うのです。つまり羊飼いはその一匹一匹の羊と信頼関係を持っており、たとえ狼が来たときだってその羊を見捨てることはしないと言うのです。そして良い羊飼いはその羊のために命を捨てると言うのです。

ですので、私もこれまでイエスさまが「わたしは良い羊飼いである」と言われたとき、「なるほど、イエスさまは羊を置き去りにして逃げ出してしまう雇人とは違い、自分の羊を守るために自分の身を挺してその狼と戦う羊飼いである」と言っているように思ってきました。まさにそれは99匹を置いて1匹を探しに行く羊飼いの姿でもあります。小羊のために命をかけて狼と戦い、傷つきながらも狼を追い払う。その一匹の迷い出た羊を探しに行く羊飼い。羊からしてみれば自分を守るために戦ってくれたり探したりしてくれる羊飼いに感謝も生まれるでしょうし、信頼関係も生まれます。またその方がなんとなく絵になるようにも思います。でも今回改めてこの聖書個所を読んだとき、実は私のこれまでの読み方は思い込みであったのかもしれないと思いました。と言うのは、イエスさまは「わたしは羊のために命を捨てる」とは言いましたが、羊を守るために狼と戦うとは言われていないからです。イエスさまが言っておられることは「羊のために命を捨てる」ということだけです。それが「善き羊飼いの姿」である。これはいったいどういうことなのでしょうか。実は、私はこれが私たちが今こそ目を留めなければいけないイエス・キリストが不当な暴力に接した場合の抵抗の姿であると思うのです。

私が今回、この聖書個所を選んだのには理由があります。それは、ウクライナとロシアの戦争にとても心痛めていたからです。その一つの理由には、二つの国ともその精神性はキリスト教の東方正教会であるということがあります。つまりこの戦争にはイエス・キリストの教えが反映されていないことに心が痛むのです。これはつまり国の対立、紛争を解決するためには、私たちが主と信じたイエス・キリストの教えは無力だということなのでしょうか。イエス・キリストは狼がやってきたときにどうしろと言うのでしょうか。仲間を守るために狼と戦えと言うのが善き羊飼いであるということなのでしょうか。確かに感情的にはわかります。自分たちの身に降り注ぐ暴力に対してどのように立ち向かうか。悪に対してどのように報いるか。それは私たちが正義の戦いを行うことだ。仲間を守るために戦うのだ。

これはむしろ愛なのだ。こういう時、聖書の言葉は非常に都合の良いように用いられます。例えば、ヨハネ15:13「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」これは、悪に対する正戦を行うためによく用いられる言葉です。しかし、果たしてそれが本当にイエスさまが願っていることなのでしょうか。わたしにはどうしてもそうは思えないのです。と言うのは、「羊を守るために狼と戦え」とは言われていないからです。もしそういわれたら、これは究極的には「仲間を守るために敵を倒すことが肯定される」ことになってしまいます。もしそうだとしたらイエスさまが言っていることは、当時の熱心党、民族を守るために独立を勝ち取ろうとしていたグループとなんら変わらないことになってしまいます。しかし、それは私たちの主イエス・キリストにおいては違うのです。何故ならばイエスさまは、マタイ福音書でこう言われているからです。

5:38-39「あなたがたは『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」

5:32-33「「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

パウロも言います。ローマ12:17-21「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

「善をもって悪に勝て。」私は今日の聖書個所で、イエス・キリストが示された善き羊飼いの究極の姿とは、まさにこの言葉の通りで、羊を守るために狼と戦うのではなく、むしろ自分の身を差し出すのが良い羊飼いであると言っているように思えるのです。というのは、やはりイエス・キリストは人々を守るために戦う救い主の姿は示されていないからです。人々はメシアにそのような理想像を求めていました。しかしイエスさまはそうではありませんでした。むしろ十字架に架けられる時も抵抗をせず、人々のために自分の命を差し出された救い主であったのです。

続く聖書の箇所からもこのことが分かります。16節「私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。」ここ、若干おかしいと思いませんか。と言うのはイエスさまは囲いの外の羊を導かなければいけないと言っているのに、なお命を捨てると言っているのです。普通に考えれば命を捨ててしまっては、他の羊を導くことはできなくなってしまうのではないでしょうか。でも、こう考えればわかるのです。イエス・キリストの十字架は、イエスを主と信じた人々の為だけのものではなく、自分たちが何をしているかもわからない人々のためにも流された血であり犠牲であったということです。ですから囲いに入っていないこの羊たちと言うのは、言い換えれば何をしているかもわからずに、自分たちの空腹を満たすために羊を獲物にしようとやってくるこの狼のことなのではないでしょうか。イエス・キリストにあっては、この狼さえ、敵や悪ではなく、迷える子羊の一匹であるのです。イエスさまはそのような迷える羊に愛を示されるために十字架に架けられたのです。

ところで何故この狼は羊を襲いに来たのでしょうか。それは自分たちが空腹であるからだと思います。満たされていないから、自分を満たしに来るのです。それではその狼たちを満たすのは誰なのでしょうか。イエス・キリストの誕生に関するイザヤの預言の一つにこう言う言葉があります。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」(イザヤ11:6)神の国とは、象徴的にはこのようなところではないかと思うのです。それは敵味方なく、不俱戴天の間柄にある者たちが共に招かれる場所であるのです。

これは夢物語の世界なのでしょうか。私はそうは思いません。私はこれこそがキリストが示された平和であり、希望であり、この世のあるべき姿であると思います。問題はきっと私たちの側にあるのです。それは例えば私たちが勝手にその囲いを設定してしまうということなのではないでしょうか。イエス・キリストが囲いの外にも羊がいると言うのであれば、その囲いとは囲いの意味を持ちません。イエス・キリストは囲いを超えて世界へと広げられて行くからです。

私たちが平和を作っていくということは、自分の囲いの中だけのことでは成立しません。私たちだけの平和を作るのではなく、すべての人の平和を作るという囲いが必要になるのです。平和が脅かされるのは、今既に平和ならざる者が自分の平和を求めるからなのです。それでは、平和を作るために必要なのは何か、それは仲間だけを守るために戦うことなのではなく、お互いが平和でいられる関係性を築き上げていくことなのではないかと思うのです。実にイエス・キリストは、そのようにして命を献げられました。それは私たちの為だけではなく、すべての羊たちが主なる神の恵みの内に招かれるためであります。そしてそれが真の羊飼いの姿であるのです。

ですから、イエス・キリストは18節「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」と言い、他ならぬ神こそが、その狼も羊をも愛されたということを証明しているのです。

この平和は、実に私たちにとって非常にハードルの高いものです。しかし、実にそのイエス・キリストの教えをそのままに生きていたのが、この新約聖書の弟子たちの姿でした。非暴力しかし人には服従せず、イエスの教えに生きる。それがイエスを主と告白することである。この歩みがローマ帝国300年の間時に弾圧を受ける中続けられ、そしてついにローマ帝国でキリスト教が公認されるに至ったのです。しかし国がそのような教えを現実化していく中で、イエスの教えは薄められ、悪と戦うための正戦が容認されるようになって行きました。しかしこれは、妥協の産物であり、本当のキリストの教えではないということに心を留めなければなりません。キリストの教えを生きた時にキリストの福音が広がるのです。キリストの教えを妥協させたときは死しか生み出されないのです。

イエス・キリストは、良きサマリヤ人の教えの中で、隣人愛を行っていくことを示されました。それは敵と思われるような間柄の人との間に生まれる出来事であり、そこには既に国とか民族とか性別とかそういう属性は関係ないということ。その人のことを自分自身と捉えていくことが最も大切であることを伝えています。これは理想論のように思えるかもしれません。しかし私たちは、そのように生きられたイエス・キリストを主と告白する者たちです。もちろん一口にクリスチャンと言ったって色々な人がいます。しかし、イエス・キリストは何と言っているのか、私たちクリスチャンはそこから離れてはいけません。真の羊飼いである主の御心に立ち、その愛に私たち自身が、他の人々と共に生かされていることを神は願っているということを心に留めて歩みだしていきましょう。