〇聖書個所 創世記2章7節 、マタイによる福音書5章14~16節

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 

〇宣教「あなたがたのそれぞれのいのちが世の光!」

今日は光の丘幼稚園の入園進級記念礼拝です。約3年ぶりに対面で開催できたことを嬉しく思います。もっともまだまだコロナ以前のようには戻っておらず、今日も多くの園児保護者はオンラインで参加してくださっています。しかしながらそれでも共に幼稚園を覚えての礼拝がもたれることは本当に恵みであると感じます。と言うのは、この礼拝のコンセプトは、教会が幼稚園の園児たちのために祈るためであり、また幼稚園は教会の祈りによって設立されたわけですが、そこに込められた思いはなんであったのかということを、幼稚園の保護者の皆さまにも知っていただく機会となるからです。そのため、今日はまず光の丘幼稚園の設立の経緯をお話しすることから始めたいと思います。

光の丘幼稚園が設立されたのは、1955年のことです。今から67年前です。幼稚園設立当時、北野地区を始めとする東神戸一帯はまだまだ戦災の傷跡の残る地域であったそうです。昨日、当時はどんな風景だったのかを調べるために『神戸の150年』という写真アルバムを見ましたが、1945年3月におきた神戸大空襲で東神戸一帯と阪神間はまさに焼け野原となりました。スライドで一枚写真を写していただきたいと思いますが、この北野地域ではこのようになりました。手前にあるのがムスリムモスク、奥に見えるのはかつての神戸中央カトリック教会です。その他の場所はほぼ瓦礫という感じでしょうか。ちなみにこの神戸教会の教会堂は1952年に建築されましたから、まだこの写真の時期には存在していません。幼稚園が始まったのはこの写真の時から10年経ち少しずつ復興が進んでいた頃だと思います。その状況を考えてみると、恐らく人々は復興のために、また自分の生活を守るために精一杯の状況であったのではないかと思います。そのような中で、子どもたちに目を向けたくてもなかなかそれを許さない状況があったのではないかと思います。

しかし、そのような子どもたちのいのちを守りたいと思ったのが神戸教会の二代目牧師の郡博之先生でした。彼が幼稚園を開園したその一つの願いは、この山本通が「光の丘と呼ばれるようになるように」ということでした。当時から教会に来られている方々のお話を聞くと、阪急神戸三宮駅のホームから幼稚園の園庭が見えたと言います。今はビルが立ち並んでいますので、見ることはできませんが、この幼稚園の存在を通して、子どもたちが世の光であること、子どもたち一人一人の輝くいのちが、世界の希望であることを知らせるために、幼稚園を始めたのです。「光の丘」という名前の由来は、クレルボーのベルナールという修道士の故事に由来があります。

ベルナールは、「もはや誰も人が住むことはないだろうと言われ「うじ虫谷」と呼ばれていた荒れ果てた土地を開墾し、「クレルボー(光の谷)」という修道院を設立しました。私たちはそれに倣って「光の丘」、つまり「今は戦争の焼け跡の拡がる地域かもしれないけれど、ここには希望があるということ。この山本通が人々のいのちが光輝く丘になるように。特に子どもたちは大人に比べたら小さく弱く、何事も後回しにされやすいかもしれないけれど、その子ども一人一人のいのちがこの世の希望であり、光である。誰一人として無駄ないのちはない。価値のないいのちはない。すべての個々のいのちが大切であるということ。」絶望から希望へ、困難から復活へ。新しい命を生きる希望を示すのが、この神戸教会の使命であり、そのために始められたのが幼稚園であるのです。それがこの幼稚園の名前から読み取れる聖書からのメッセージなのです。

今日の宣教題は「あなたがたのそれぞれのいのちが世の光!」と付けさせていただきましたが、わたしはごく単純に言えば、聖書が最も伝えようとした内容、つまりイエス・キリストが人々に愛を示されたその理由は、「あなたがたのそれぞれのいのちが世の光である」ということを伝えるためだと思うのです。そう言いきれる根拠が今日の2つの聖書個所にあるのです。

まず創世記2:7にはこのようにあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

この聖書個所は、神が天地を創造された後に、人間を造った場面を書いています。最初に造られた人物はアダムと言います。彼の名前には「人」という意味があるのですが、それは土(アダマ)から造られたからだと説明されています。わたしはここで重要なことは、神が人を形作ったということだと感じています。いったい、どういう風につくったのでしょうか。幼稚園児が砂遊びをするように造ったのでしょうか。ああでもないこうでもないと言いながら作ったのでしょうか。それはわかりませんが、大切なことは、神が私たちを自らの手で造られたということです。それも一人一人それぞれの個性ある存在としてそれぞれに違いのある存在として造られたということです。ですから性別も肌の色も大きさも、顔の形も能力も感性もそれらは全て違うけれども、それらはそれぞれ神がその人に与えられた個性であると言えるでしょう。言い換えれば神がその人のために備えて与えてくださったのが私たちの個性であるのです。ですからそれは他の誰とも比べる必要はないし、恥ずかしがる必要もないものだということです。そして神が人間をそれぞれ異なる様に作ったのだとすれば、神は多様性を喜ばれる方であるということであるのです。

さらに言うならば、神があなた自身をそのようにお造りになったのだから、堂々とあなたらしく生きて行って良いと言うことなのです。どんな風に生きなければいけないとか、どんな人が最も良いとかそんなことを言うことはできません。もし仮にそのように言われていたとしても、それは本質的な事柄ではなく、ただの一時の事柄というか流行・ニーズに過ぎないのです。人は誰一人として同じ存在ではないし、誰が偉くて誰が正しいと言えることでもありません。どのいのちも等しく特別な価値のある神の創造物であり、素晴らしいということなのです。ですから、神がこの世界を創造されたあと、お造りになったものを見て「見よ、それらは極めて良かった」と言うのです。

創造物語は、聖書における世界の始まりの出来事です。神はそこで調和のある多様性のある世界を作りました。しかし残念ながら人はこの素晴らしい世界を与えられておきながらも、その違いを理由として争いを起こすものとなりました。私はなんで世界中にこんなに色々な違う人がいるのだろうかと思ったことがあります。もし神がこの世界を創造されたのだとしたら、なんで神は人を争いを起こすように造られたのでしょうか。何故争いを起こさないように人を作られなかったのでしょうか。同じ価値観が共有できれば良いと思うのですが、でも神はそうはされませんでした。それはやはり人を同じ規格で作るロボットのように思っておられず、人々同士の対話によって調和を保っていくことを期待しているのではないかと思うのです。

人が争いを起こす理由の一つに「罪」というものがあるとよく言われます。「罪」とは「犯罪」のことではありません。一言で言ってしまえば、神に造られた自分を受け入れられず、他のもので自分を満たそうとすることです。それがお金だったり名誉だったり恋愛だったりします。しかし、ものでは満たされない自分自身の根源的な部分が実は神との関係、神という絶対者による自分の自己肯定だったりするのです。人と比べることでは得られない承認がここにはあるのです。イエス・キリストはそのような愛がわたしたちに与えられていることを示すために、あなたはあなたのままで生きて良いのだということを示すために、この世に与えられた神の独り子です。

もう一つの聖書個所でイエス・キリストは言います。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

「立派な行い」とかいうとハードルが高くなってしまうように思うのですが、大切なことは、「あなたがたは世の光である」と言い切っていることです。「あなたはこうすれば世の光になれるよ」とか、「あなたは世の光である他の人のようになりなさい」と言うのではないのです。「あなたがたが世の光」なのです。

実はこの時、イエス・キリストの言葉を聞いていた人々と言うのは、普通の感覚で言うと「世の光」と呼べるような人々ではありませんでした。むしろ人々は自分自身ではもうどうすることもできず、イスラエルの各地からイエスさまに助けを求めてやってきた人たちでした。恐らく身分もお金もないし、むしろ病気や色々なトラブルに見舞われて、どこにも行く当てのなかったような人たちであったと思います。

「世の光?わたしが?そんなわけあるわけないよ」と鼻で笑ってしまいそうになることがあります。私たちもそう言われてもそうは思えないよ、と思うことがあるでしょう。何故ならば、私たちは光になるようなこと何もしてないし、むしろそんな光は自分の中にはないと思うことがあるからです。

人間的に見れば、この世的に見れば、「世の光」と呼ばれる人は、メディアの中の有名人、とても大切な自分には出来なさそうな特別な善い行いをする人のことだと思います。しかし、イエス・キリストは、「そうではない。あなたが世の光なのだ」と言われるのです。山の上にある街は隠れることができない。神戸では、夜になると市章山に神戸のモチーフである碇がライトアップされます。その他にも船など、いくつかのライトアップがなされます。あれは実は、神戸港を作ったときに記念して飾られたということです。船で行き交う人々に対して「神戸はここだ」ということを示しているのでしょう。山の上の光は逃げも隠れもしません。ここに私がいるよということを示すものです。イエス・キリストの言葉によれば、その山の上の町とはあなたがたのことだということなのです。その命を枡の下、机の下において消してはいけない。あなたが世の光として歩んでいくところから、この世の闇は明るくなり、自分のいのちの輝きを汚すようなことを明らかにしていくことができるのだと言われるのです。

この世には多くの価値観があり、人が自分らしく生きていくことが難しいことがあります。例えば、「○○らしさ」や「○○のようになるべきだ」という空気があります。男らしく女らしく、日本人らしく、ああしなければならない。こうあるべきだ。或いはこうしなかったからああなったというような因果応報もそうでしょうか。そのようにして自分の個性の上に覆いを被されてしまうことがあります。

キリスト教もそうです。私は牧師ですが、時々キリスト教をよくご存じでない方と話をすると、牧師は「清く正しい」とか「ついて回るイメージ」からなかなか離れないように思います。多くのキリスト教はそうであっても、わたしたちのバプテスト教会は違うのです。神を信じるとは、よく「教えに縛られる」ように勘違いされますが、むしろ「様々な縛りから解放され、自分らしく生きていくこと」であるからです。これがイエス・キリストが歩まれた道であり、私たちに示している道ではないかと思います。

すべての人が世の光であり、すべての人のいのちが輝いていくことを共に喜んでいくことが神の御心であります。これが私たちが平和を実現していくということに繋がるのではないかと思います。その光は消えやすい小さな希望のように思えますが、しかしその光に目を向けていくことからすべてが始まるのです。神の祝福が皆さまにありますように祈ります。。