〇聖書個所 ルカによる福音書 24章25~35節

そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

〇宣教「復活の出来事② キリストの伴い」

私たちは今キリスト教の暦で「復活節」という時期を歩んでいます。先週の礼拝でもお伝えしましたが、この復活節は、主イエス・キリストの復活の記念であるイースターから弟子たちに聖霊が降った記念のペンテコステまでの七週間の期間のことです。復活されたイエスさまはこの期間、弟子たちに伴われご自分が復活したこと、また神の国について教えられました。ですから、私たちもまたイエスさまの復活の出来事を改めて振り返り、そのメッセージを受け取りなおしていきましょう。

そのため、私たちはこの時期にを、復活されたイエスさまが弟子たちに現れた聖書個所を共に読んでいきたいと思います。先週はマタイによる福音書のいわゆる「大宣教命令」の箇所を読み、イエス・キリストはまさに「御言葉として復活され、弟子たちに使命を与えられた。しかしそれはすべての人にバプテスマを授けクリスチャンにするというような命令ではなくて、山上の説教のように、共に神の言葉に生かされていくものとなることであったのではないか」とお話ししました。今日はルカによる福音書の「エマオへの途上の顕現」と呼ばれる箇所から、イエスさまの復活の出来事を受け取っていきたいと思います。

ルカによる福音書によると、イエス・キリストが復活された日、墓に向かった婦人たちは墓の中に遺体が見当たらず途方に暮れていました。するとそこに輝く衣を着た二人の人が現れ、彼女たちにイエス・キリストが復活されたことを告げられました。マタイとは違い、「ガリラヤに行きなさい。」とは言われず、「ガリラヤにおられたころにお話しになったことを思い出しなさい。」と言っています。そして彼女たちはイエスさまが十字架から復活されるとお話しになっていた言葉を思い出すと、弟子たちのところに行き、一部始終を告げています。これはマタイ福音書と同じように「言葉によって復活した」ようにも感じられますし、「恐れ、誰にも話さなかった」マルコ福音書とも大きな違いとなっています。ところが使徒たちにそのことを話すと、彼らはその話はたわごとのようにしか思われませんでした。ペトロだけが立ち上がって墓に向かっています。このルカの内容を他の福音書と比べると、ガリラヤに向かわないことや、復活のイエスさまと出会わないこと、また弟子たちが復活を信じていないという姿が印象的です。しかしそれはそりゃそうだろうと言わざるを得ないと思います。

今日の箇所はそれに続く箇所ですが、ここでも弟子たちの不信仰の姿が記されていると言えます。しかしイエスさまはその弟子たちに伴って行かれるのです。今日選んだ聖書の箇所は25節からですが、この一連の話は13節から始まっていますので、聖書をお持ちの方はどうぞ聖書を開きつつ、宣教を聞いていただければと思います。ちなみにこの箇所に基づいて多くの画家が絵画を残していますが、わたしにとってとても印象的なのは、このスイスの画家ロベルト・ジュントが描いたこの「エマオへの道」です。

イエスさまが復活された日、エマオという村に歩みを進める二人の弟子がいました。復活の朝に墓に向かう婦人たちとは対照的に、夕暮れに歩く二人の男性はエルサレムを離れようとしていました。彼らがエマオの村に向かっていた理由は、一言で言えば失望と混乱であったと思います。彼らはイエスこそがイスラエルを解放してくださる方であると期待をしていたのに、祭司長や議員が彼を理解せず十字架に即け処刑したことに失望しています。その後三日間彼らはその場所に留まっていたのは、恐らく安息日があったので地元に帰ることができなかったということだと思います。さらにその日の朝、墓に向かった婦人たちが「イエスは生きておられる」と言い出したことに、彼らは恐らく驚きと共に仲間たちに不信を感じたのではないかと思います。なので、彼らはその集まりからそっと離れたように感じられます。彼らが道すがら「この一切の出来事は何だったのか」と話し合っていることを考えると、一度身を引いて黙想の時を持とうと思ったのかもしれません。ちなみに彼らが向かったエマオは実は「温泉」という意味の言葉ですから、体の疲れを癒し、頭を休ませ整理させようとしていたのかもしれません。エルサレムからエマオまでは60スタディオン、現在では約11kmほどの距離です。彼らはこの一切の出来事について話し合いながら、歩みを進めていきました。話し合っていたという言葉は「未完了過去形」で書かれているので、彼らはその答えを得るために、繰り返し繰り返し話し合っていた、しかしその答えを得ることはできなかったという印象を受けます。ところがそんな彼らの話し合いのただ中に現れ、歩みを共にしつつ、その思い悩みに寄り添われたのがイエス・キリストであったのです。

少し話が脱線しますが、実は私はこの宣教のためにこの箇所を読んでいて、非常に不思議な印象を持ちました。実は私はこれまで、このエマオへの途上と言うお話は、聖書の登場人物、例えばクレオパともう一人の弟子に寄り添われたイエスさまの話のように受け止めてきたのですが、改めて読んでみると、今イエスさまがわたしに寄り添い、語り掛けているように思えるのです。どういうことかと言うと、クレオパともう一人の弟子と言うのは、誰のことか定かではありませんが、実は私自身がその名前の明かされないもう一人の弟子のように思えてきたのです。何故かと言うと、わたしもまたイエスさまの十字架を受け止められず、失望し、また復活が起きたとかいうちょっと理解しがたいようなことを言いだすグループからは身を引いて、自分自身で静まってその事柄を考えてみたいと思う者であるからです。しかしながら、自分だけではどうしようもない。頭がごちゃごちゃになる。しかしそんな私にイエスさまが寄り添ってくださっている物語のように思えるようになってきたのです。そうすると、色々な意味でイエスさまが今私に語りかけられているように感じるのです。つまり、このエマオへの途上のお話しは、復活されたイエス・キリストが今を生きている私たちに寄り添っているということを教える者なのではないかと思うのです。

彼らはその歩みを進める中で、この「一切の出来事」について話し合っており、イエスさまはそれが何かを聞いています。この物語の不思議なことの一つに、弟子たちはイエスさまが近づいてきていたのに、彼らの目は遮られていてイエスさまだとはわからなかったということがあります。目と言うのは、「目」だけのことではなくそこから入る情報やその情報を判断することも含まれています。彼らの目がその人をイエスさまだと判断・認識できませんでした。それは遮られていたからだと言いますが、それはその私たちの判断が他のものに支配されていたということ、またその認識が固執させられていたということでもあります。その時、私たちはイエスさまその人がそこにいても気づかないのです。彼らは暗い顔をしていたようです。これは「やつれた」とか「見苦しい」という「疲れを覚えた顔」です。しかし、イエスさまはその言葉を通し、希望のない顔をしていた人たちの心を燃やし、喜びに溢れて元の歩みへと復活させられるために私たちに寄り添ってくださるのです。

実は彼らは「一切の出来事」を話し合っていたとありますが、私はこれまでこれを「エルサレムで起きた出来事」として受け止めてきました。事実クレオパもそのようにエルサレムで起きた出来事として話しています。彼は言います。「(わたしたちが話しているのは、)ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」(ルカ24:19-21)その後に復活のことが書かれていますが、読み上げるのは割愛します。

簡単に言えば、彼らは、イエスさまを信じてその行いや言葉を信じてやってきた。ところがイエスさまは処刑されてしまった。私たちの希望もついえてしまった。これからどのようにしたらよいのかわからなくなった。これは、恐らくすべての弟子たちが感じていたことだったと思います。

そんな弟子たちに対して、イエスさまは「物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と言って怒っているように感じられます。しかし、それはクレオパやもう一人の弟子だけではなく、他の弟子たちもまた今この場にいる私たちだって同じです。と言うよりは、それをそのまま信じれる人なんて誰一人いなかったわけなのです。

でも、イエスさまが聖書全体に渡ってご自分について書かれていることから説明しておられることを考えると、この「一切の出来事」というのはエルサレムで起きた出来事だけではなく、「メシアの到来」、つまり福音書、聖書そのものについてであったと受け取ることができます。その場合、イエスさまがここで示そうとしているのは、聖書全体を読み返してみなさい。その中にメシアの伴いがあるということだとも考えられます。

またそのような意味で考えると、たしかに弟子たちがイエスさまに期待していた「イスラエルの解放」というものがまったくの見当違いであったことを感じます。イエスさまはこう二人に問われます。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか?」この話とは「ロゴス」のことです。言葉です。ヨハネ福音書によれば、それは神の言葉であり、イエス・キリストのことです。

しかし弟子たちはそうは思いませんでした。イエスさまは行いや言葉に力があったが、殺されてしまった。だからそれは無意味だった。彼こそメシアと思っていたのに。だからこそ、これはいったい何だったのだろうと考えていたのです。ところがイエスさまはその弟子たちに対して、実はそのメシアはイスラエルの解放(これは、「贖い」とも「救い」とも訳せる言葉ですが)それを成し遂げられたのだということを言っているのです。私たちは弟子たちと同じように十字架と言う絶望の死の出来事を目の当たりにしたとき、その出来事に心が奪われ、目に映るものを認識できない時があります。しかしイエスさまはそれは贖いであり、救いであり、イスラエルの解放であったと言うのです。

しかしながらこのイエスさまが語る内容は、「モーセの律法と預言書と詩編」に点在しており、一つの連続する言葉としては残っていません。ですから、それを全て理解しなさいというのは、難しいことであったのだろうと思います。でも実に、この事実に気付くためには、イエスさまの伴いによって心の目を開かれることが必要だということなのでしょう。しかしそのとき、私たちの心は再び燃え上がる希望が与えられるのです。弟子たちはイエスさまがパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになられたときにようやく気付くようになりましたが、これは象徴的だと思います。何故ならばそれは、イエスさまの所作で気づいたということではなく、暗い顔をした人々の生の現実の中にイエスさまは命のパンをお与えくださる方であるということであり、それをまさになしたのがイエスさまであったということであると思うからです。

このエマオの途上の道の全体像を考えてみます。弟子たちはイエスさまの意味をあれこれと考えていましたが、十字架の出来事だけではそれがわかりませんでした。しかし復活のイエスさまの伴いの中で、聖書からその歩みを振り返り、その御言葉に心を留める時に、彼らの心は燃やされたのです。これが彼らの復活の出来事です。彼らは、イエスさまがパンを分かち合われたとき、そのことに気付きました。ですから、イエスさまの復活と言うのは、イエスさまの御言葉を黙想し、分かち合い、共に生きるその歩みのただ中で私たちの心の中に立ち上がってくるものなのではないかと思うのです。

また弟子たちが再びエルサレムに戻ったときに、イエスさまが現れ「あなたがたに平和があるように」と言われたことを考えると、一人で信仰を黙想する中にイエスさまはその人に寄り添われ、かつ私たちが仲間と共にいる時にその交わりの中に平和があるように、と告げてくださる方であることを感じます。

このエマオへの途上の歩み、これは私たちが自分の理解の中で生きようとする道です。しかしそこに寄り添ってくださる方がいる。その時に、私たちのいのちは新しくされていくのです。ルカ福音書は、そのような復活を私たちに今語り掛けようとしているのではないでしょうか。イエスさまはいま私たちにまさに寄り添っておられるのです。