〇聖書個所 使徒言行録 1章3-11節

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 

〇宣教「キリストの昇天、聖霊降臨と再臨の約束」

使徒言行録の最初の出来事は、キリストの昇天と聖霊降臨と再臨の約束です。再臨とは、イエス・キリストが再びやって来られる日のことです。自分で宣教題を決めておいてなんですが、この「昇天・聖霊降臨、再臨」と宣教題の文字だけを見ても、なにやらものすごいインパクトのあるタイトルのように感じます。皆さんの中には「なにやら今日、西脇牧師は特別なキリスト教の奥義を話すようだ」と思われた方もおられたのではないでしょうか。キリストの昇天、これは天に召されるではなく天に昇ると書きますが、実は原文をみるとやはり天に上げられるという受け身の形になっていますので、個人的には「天に召される」方が正確だと思いますが、このキリストが天に昇っていく出来事はキリスト教の暦の一つの記念日にもなっています。そしてこの時キリストは聖霊降臨の約束を示します。これが来週のペンテコステに記念されている出来事です。そして再臨の約束、これは白い服を着た二人の人が告げていることですが再臨は、キリストが再びこの地上に来られる日であり、私たちにとっては一種のゴールと言うか待ち望んでいる日であります。確かに大きな三つの出来事です。

しかしこの出来事は一連の出来事として書かれています。想像してみると確かに不思議な光景だと思います。どうやって天に上がったのか、聖霊とは何か。白い服を着た人たちは誰だったのか。気になることだらけです。でもその現象の不思議さに目を留めると本当に大切なことから離れて行ってしまいますので、今日は一体この一連の出来事を通して聖書は何を告げようとしているのかということに心を留めて読んでいきたいと思うのです。そして私はこの箇所が語ろうとしていることは簡単に言えば、イエス・キリストが昇天され目には見えなくなるけれど、神の約束の言葉はあなたがたに与えられたのだ。だからその御言葉に心を留めて再びキリストが来られる時まで歩んでいきなさい。見て信じる者から見ないで信じるようになっていく招き。これが弟子たちの働きの始まりに語られている大切なメッセージなのではないかと感じています。

聖書に入っていきましょう。復活されたイエス・キリストは40日に渡って弟子たちに神の国について話され、「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と命じています。この箇所は使徒言行録の導入となっていますが、同じ著者によって書かれたルカによる福音書からの継続の言葉であり、共通して聖霊を与える約束の言葉となっています。聖霊が与えられた目的は、イエスさまの言葉によるならば弟子たちがキリストの十字架と復活の証人として世界に派遣されていくためでした。

ところが弟子たちはこの時点ではそのことをあまりよく理解していなかったようです。弟子たちは言います。「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか。」イスラエルのために国を立て直す。それはやはりローマ帝国からの独立を考えていたということなのでしょうか。あるいは律法主義者やファリサイ派の人々に支配されていた人々の心をイエス・キリストに立ち返らせるためであったということなのでしょうか。弟子たちの発言から考えると、彼らが復活のイエスさまに抱いた希望はこのいずれかの願いであったのではないかと思います。ですから彼らはイスラエルの救いのために、聖霊のバプテスマが与えられるのだと思ったのでしょう。

イエスさまは言います。「父がご自分の権威を持ってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」この言葉には、弟子たちの質問に対する二つの答えが出ています。まず「今かどうか」ということです。この時や時期と言う言葉は、時の流れを現わすクロノスと出来事を現わすカイロスという言葉が使われていますが、イエスさまはそれは「いついつに来る」とか「どういうことが起こるか」とかそういうものではなく、神のみぞ知ることであると言っています。「時を見分ける」ということはとても大切なことではありますし、私たちはそれがいつかが気になるものですが、そういうことではないのです。それはつまり「折が良くても悪くても御言葉を伝えなさい。」(テモテⅡ4:2)という歩みの中で、神の時に神の国が実現していくことを覚えたいのです。

また、この言葉には「イスラエルの救い」について弟子たちの考えていたこととイエスさまが考えていたことに違いがあることを示しています。弟子たちはイスラエルの救いを願っていますが、イエスさまは、「ユダヤ、サマリア、そして地の果てに至るまでわたしの証人である」と言っています。つまりあなたがたがわたしの証人となるのは、イスラエルという国、或いは民族の救いのためではない。むしろのような理解を大きく超えて地の果てに至るまで告げ知らされていくものだということなのです。

私は今回、この聖書個所が気になり、イエスさまが「イスラエル」をどのように考えていたのかを調べてみました。新約聖書にはイスラエルと言う言葉が78回出てきます。その内福音書で使われるのは31回(マタイ12回、マルコ2回、ルカ12回、ヨハネ5回)です。マタイとルカに多いのは、その誕生物語の中で旧約聖書の引用が多く使われているからですが、中でも最初に書かれたと言われるマルコ福音書のイエスさまはイスラエルのことをほとんど言及していません。イスラエルにほとんど関心がないかのような徹底ぶりです。

あえて言えば、マタイだけは弟子たちを遣わす際に「異邦人の道やサマリア人の町にではなくイスラエルの失われた羊のところに行きなさい。」(マタイ10:6)と言っていますが、恐らくこれはユダヤ人向けに書かれたマタイの文脈の言葉です。イエスさまはそのようなイスラエル中心よりはむしろ異邦人の100人隊長に対して「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことはない。」(マタイ8:10,ルカ7:9)と言われる方であるのです。

時々キリスト教会では「主なる神はイスラエルの神である。しかしイスラエルは神を信じず堕落してしまった。だから神は異邦人を救い、異邦人を通してイスラエルを救おうとしておられる。だからイスラエルという国、あるいは民族がイエス・キリストに立ち返ることが神の御心で最終目標なのだ。」というようなことが語られることがありますし、文字通りそのような活動をされている方々もおられます。その根拠の一つにパウロの手紙があるわけですが、しかしイエスさまご自身はイスラエルの人でありながら、それに捕われることなく神に属するものとして歩んだということに私たちは心を留めたいと思うのです。つまりイエスさまが意図しているイスラエルとはそれは民族や国についてではなく、そのイスラエルの本来の意味「神は戦う」に見られるように、本当に神の守りを必要とする人、神の伴いを必要とする人、神に属するより他ない人々のことであると受け止めたいのです。

イエスさまはそのことをお話しになられたあと、天に上げられて行きました。ここに私は疑問があるのです。何故イエスさまは聖霊が来るまで弟子たちと共におられなかったのでしょうか。聖霊が来て安心した後に帰っても良かったのではないかと思います。

私はそこには大切な理由があると考えています。それが最初に申し上げた「目で見て信じるのではなく、見ないで信じる者になりなさい」という招きだと思うのです。実にイエスさまが天に上げられた時、弟子たちはイエスさまの姿が見えなくなるまで天を見つめていました。この見つめるという言葉は、未完了形で継続の意味がありますから、目を注ぎ続けているということ。名残惜しくその姿が見えなくなるまで、いや見えなくなった後も彼らは天を見つめていたのではないかと思います。どれくらいの時間彼らは見ていたのでしょうか。彼らの傍らに白い服を着た二人の人が立っていました。この二人がいつから来たのかはわかりませんし誰かもわかりません。しかしイエスさまの復活の時に同じような存在が書かれていますので、恐らくこれは神の手による出来事だということでしょう。そして彼らは告げるのです。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

これは、イエスさまが再び来られるという約束の言葉です。そしてこの言葉によって彼らは歩みを前に進めていくのです。つまり、いつまでも空を見つめていてはいけない。空を見上げて待っていてもいけない。何故ならあなたがたは約束が与えられたのだ。だから神の約束に心を留めて歩み出しなさい。その時に私たちの心に与えられるものが聖霊であると言うことなのではないでしょうか。もしイエスさまが先に天にお帰りになられず、弟子たちと一緒にいたのなら、聖霊が注がれても彼らはそれによって生かされることはなかったのではないかと思うのです。しかしそうではない。約束された言葉を信じた時に与えられるのが聖霊なのです。
聖霊というと神の定められた時に降ってくるものと言うイメージがありますが、イエス・キリストの言葉を信じる時、神の言葉に従ったときに与えられるものなのです。そしてそれを示すのが、この白い衣を着た二人の人であるのです。

この二人はよく「天使」だと言われますが、天使とは英語ではエンジェルですが、元々の語源を辿るとエウアンゲリオン、良き知らせです。天使とは神の言葉を伝える存在なのです。その福音が私たちの心に届いたとき、私たちの歩みは新たにされていくのです。死からの復活、そして復活からの昇天。イエス・キリストを十字架で失った弟子たちは一人残らず落ち込みましたが、昇天によって失った弟子たちには約束の言葉が与えられました。その弟子たちを新たな歩みへ導くものが天使、良き知らせなのです。

私たちがこの箇所から受け取りたいことは、弟子たちの働きというものは、イエスさまが不在になる中で、しかしイエスさまの言葉による導きの中で、イエスさまが再びやって来られる約束の内に始まっていったということなのです。

そして大切なことは、イエスさまの再臨はまだやってきていないということです。ですからイエスさまの言葉による導きは弟子たちによって引き継がれ、今なお私たちに与えられているということです。2000年前から今日にまでこの約束は語られ続けているのです。わたしたちは決して神なき社会を生きているわけではありません。約束があるのです。それがいついつ来るかそれはわかりません。しかしその言葉を信じ、自分に示されている聖霊の業を行っていく時に、イエスさまが再びやって来られるということを覚えたいと思うのです。この言葉を信じて生きていく時に、私たちの心に聖霊が働くのです。聖霊は既に示されています。神の言葉を通して既に私たちに内在されているからです。

わたしたちは復活の主イエス・キリストの証人です。キリストは十字架によって殺されましたが、神によって復活させられました。つまり妬みや憎しみや暴力で人のいのちを奪い去ることはできないということ。神がイエス・キリストを復活させられたことによって示されたのは、力や暴力や殺意の否定であり、愛によってのみ神の国は実現するということです。イエス・キリストは言われました。「平和を実現する者は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」これが私たちに期待されていることであり、私たちの希望であります。共に歩んでまいりましょう。