〇聖書個所 ヨハネによる福音書20章24-29節

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

〇宣教「復活の出来事③ 不信仰者の赦し」

今日は本来ならば光の丘幼稚園の園児、保護者、教員と共に入園進級記念礼拝を守る予定でしたのでそのために宣教も準備していたのですが、先ほどお伝えしたように延期といたしましたので、聖書個所も急遽変更し、復活節のお話し、特に今日はヨハネによる福音書が語る復活のイエス・キリストと弟子たちの出来事を見ていきたいと思います。

ヨハネによる福音書には、二つの復活後の出会いが記されています。一つは今日の箇所を含めた20章の「家の中にこもっていた弟子たちに出会うエピソード」です。もう一つは21章の「ガリラヤ湖で弟子たちに出会うエピソード」です。ヨハネ福音書は20章30-31節に「本書の目的」というまとめがあるので、恐らく元々は20章で終わっていたと考えられます。21章は、あえて何らかのメッセージを伝えるために付け加えられたのでしょう。21章は来週の礼拝で取り上げたいと思います。今日は20章の出会いの中で、ヨハネ特有の「イエスとトマス」の物語を読みます。この箇所は、場面的には先週共に読んだルカ福音書「エマオ途上の道」の続きに位置しています。エマオ途上の道を歩む弟子たちは復活のイエスさまと出会い心が燃やされ、エルサレムの弟子たちのところに戻っていきました。するとその家のただ中にイエスさまが現れ「あなたがたに平和があるように」と告げられます。ヨハネでは弟子たちはユダヤ人たちを恐れ家には鍵をかけていたとありますが、復活のイエスさまはそんな閉じこもっていた彼らのただ中に現れ、彼らに新しいいのちを示されたのです。それは、神の愛や福音は罪や暴力に決して負けるものではないという復活の希望として彼らに示されました。

ところが、そんな大切な場面に弟子の一人であるトマスがいなかったようです。トマスは他の弟子たちがイエスさまの復活を証言しても信じることができませんでした。彼は、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」とまで言っています。トマスというと疑い深い人物として有名ですが、その印象を与えるきっかけとなったのがこの出来事ですが、そんな不信仰のトマスのところにイエスさまが現れ、彼が主告白に導かれるというのが今日の箇所です。この箇所が元々のヨハネ福音書の結びですので、不信仰者、疑い深い者に対するメッセージがあります。私たちは今日それを受け取っていきましょう。

今日の中心人物はトマスです。今申し上げたように、トマスは疑い深い人物として有名です。いくつかの聖画では、猜疑心の強い目をした人物として描かれています。疑う、不信仰、そんなネガティブな印象も強い人物ですが、正教会ではトマスが疑ったことをネガティブには捉えておらず、むしろ現実主義者ということで、研究熱心なトマス(フォマ)と呼ばれているようです。トマスはディディモ(双子)と呼ばれていたようですが、これはヘブライ語では「正直者」という意味の言葉が語源となっているそうです。双子が正直者というのはよくわかりませんが、私自身一卵性双生児として生まれてきましたので、ちょっとわたし自分の経験から考えてみました。

やはり双子は周りの方々から比べられることが圧倒的に多く、アイデンティティの危機が起こることがあります。私自身も弟と自分を比べてきましたし、その中で劣等感を感じてきました。他の人が一人で生まれたのに比べてなんで自分は双子なのか、一人の人より自分の価値が低いのではないかと思っていました。その事実を受け止められずに悩み苦しみ、相手とは違う理想の自分になろうと頑張ろうとして苦労した時期が長くありました。これはむしろ自分の心に正直にすることとはかけ離れていたことでした。しかし、私の場合は神の創造物語の存在によって、神が特別な恵みとして私を双子として生まれさせてくださったことを受け止めることができました。それが分かった時、自分は自分、相手は相手、それぞれ別の固有の存在として生きてよいということが分かりましたし、結局のところ自分に正直に生きる方が楽であることがわかりました。そういう意味で言うと、「双子」にとっては、人と比べて生きるとか、人も望まれる人として生きるとかそういうことではなく、自分に正直に生きるということがとても大切なことです。トマスが双子であったのかどうかはわかりませんが、もしかしてそういう意味で自分自身に正直に、様々な出来事に対して向き合っていくという人であったのかもしれないなぁと思います。そういう意味で考えると、確かにこの物語ではトマスは復活を信じていないように思えますが、それは疑り深い人であったからなのではなく、むしろ理性的で、正直な人であったので、自分で見て納得するまではそんなことは受け止められないと思ったのではないかと思うのです。

しかも、それが他の弟子たちはイエスさまに直接出会ったのに、自分は会っていないという場面を考えるとどうなのでしょうか。25節に他の弟子たちは「私たちは主を見た」と言っていますが、これは動詞を調べてみると未完了過去形なので、彼らは口々に「わたしは主を見たのだ」と繰り返し繰り返し語り合っていたと思われるのです。他の弟子たちが復活のイエスさまに会って大興奮している中、トマスは出会っていないので「なんで私にだけ現れて下さらなかったのだろうか」など、周りから取り残されているかのような寂しさもあったのではないかと思います。トマスの言葉は、ある意味そんな自分の心を隠すかのように、頑なになっているようにも感じられるのです。

しかし、そんなトマスの心に寄り添うためにやって来られるのがイエスさまなのです。その八日後、弟子たちは鍵のかけられた家の中にいました。私がトマスなら、どうやって入って来られたのか信じられないと思うわけですが、イエスさまはそこに現れたのです。そしてトマスの言葉を直接聞いたわけでもないのに、イエスさまはそのトマスの言葉、ある意味で不信仰を丸出しにしている言葉に応えてこう言われるのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

この言葉を聞いたトマスは、驚いたことにイエスさまの傷跡を見てそこに手を差し入れる実証をせずに、信じることになったのです。つまり恐らくトマスは本当にその傷を確かめたかったとか復活を信じなかったとかそういうことではなく、自分だけ見過ごしにされたように感じたその心の傷にイエスさまが触れてくださったことが大切だったのです。もしかして彼は自分に現れてくださらなかったことに対して、イエスさまの自分に対する思いが信じられなくなる、これまでの信頼関係がガラガラと崩れて行ってしまうような状況だったのかもしれません。そうだとしたら、イエスさまが信じない者ではなく信じる者になりなさいと言うのは、復活の事実そのものではなく、むしろ私があなたを愛している。あなたを私が見捨てるわけがないということをしっかり信じなさい。ということなのかもしれません。

そう思った時に、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と呼んだ、その内実が分かるように思います。それは「あなたがわたしを見捨てるわけがない。だから、あなたはわたしの主でありわたしの神なのだ」という告白です。イエスさまは、そのようにトマスを見捨てることなく、彼に出会いに行かれました。その時に彼の心に生まれたのが復活、新しい生き方であるのです。弟子たちという集団の救いから個人の救いの出来事へ。それも不信仰の者に対してもイエスさまは出会ってくださるこの約束を感じます。

イエスさまはその後、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と言われ、この物語は終わります。そして31節に、このヨハネ福音書が書かれた理由が記されており、それによると、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの何より命を受けるためである。」と結ばれています。

私はやはりこのヨハネ福音書がこのトマスの物語のこの言葉で終わっているのは意味があると考えています。一つの意味では、理性的で復活など信じることができないような私たちに、イエスさまは出会ってくださる方であるということです。弟子たちが家の中にいたというのは象徴的で、やはり私たちは恐れを持ちますし、心が閉じるのです。しかしイエスさまはその弟子たちのところに、不信仰や恐れや嘆きがある弟子たちに寄り添って下さり、命を与えてくださるのです。この出来事が語ることは、私はイエスさまはその一人の人に応じて、その人が信じられるように出会ってくださる方であることだと思います。ですから不信仰で頑なのように見えるトマスに出会ってくださったのです。そして周りの人たちは出会って喜んでいるのに、自分だけ見捨てられ忘れられてしまったかのような孤独で心がささくれたような状況にある者に対しても、出会ってくださるのです。そしてそれは同じように今を生きる私たちにも示されているというメッセージです。私たちもまた復活と言う出来事を考えた時、理性で物事を考えようとし疑います。またそれに触れた他の人の喜びを感情で受け止めようとしても自分だけわからず悲しさを深めるということもあります。しかし、そのようなわたしたちの閉じた心の中にイエスさまはいつのまにか入って来られ、寄り添ってくださるというメッセージなのです。

でも、一つ気にかかる言葉もあります。それは「見ないのに信じる人は幸いである」という言葉です。私たちはこの言葉を聞くと、見て信じるのはダメだと言われているように感じて落ち込んでしまうことがあります。私たちは目で見て信じる者、つまり自分の頭で理解して納得したいと信じられない者であるからです。しかし改めてよく考えてみると、弟子たちを含めて、誰も見ないで信じたものはいません。弟子たちもイエスさまが出会ってくださったときに初めてその出来事に触れたわけです。そもそもイエスさまが与えられたのは、目には見えない神を信じられない私たちのために、神のひとりごであるイエス・キリストが与えられたのです。それは私たちに直接触れ、共に喜び共に泣き、共に生きる為でありました。ですから私は先ほども申し上げたように、イエスさまは不信仰を嘆いているのではなく、むしろ見ないと信じられない私たちに出会ってくださる方であるということに改めて目を留めたいと思うのです。

ではなぜイエスさまは「見ないで信じる者になりなさい」と言っているのでしょうか。それは恐らく、このヨハネ福音書を読んでいる読者たちに語り掛けているのではないかと思います。私たちはイエスさまを肉眼で見ることはできません。その復活も目の当たりにすることはできません。だから、見て信じるのではなく見ないで信じる者になりなさいと言うのです。私たちはどうやって見ないで信じる者になれるのでしょうか。それは、実に神の言葉を聞くことから始まるのです。聖書が現代のように手元に届くようになったのは16世紀のことです。それまで聖書は語られるものでした。そしてヨハネ福音書がその最初から語っていることですが、イエス・キリストは神の言(ロゴス)としてこの世に生まれたと言います。つまり、神の言葉は見るものではなく、聞くことによって始まるのです。神の言葉は、聞くことによって出会いとなり、私たちが信じることによって私たちの出来事になって行くのです。言い換えると見て信じることは自分が判断の主体になるけれど、見ないで信じるということは、自分が判断の主体になるのではなく、その事実をあるがまま受け止めなさいということなのかもしれません。トマスの場合を考えてみると、イエス様ご自身がトマスに出会ってくださることによって始まります。そのイエスさまの伴いによって新しい歩みへ導かれていくということが大切なのではないでしょうか。

私は今日の宣教題に「不信仰者の赦し」と付けましたが、このように考えてみると、このイエスさまの言葉は「赦し」という性質のものではなく、不信仰な者たちに寄り添って下さり、かつ新しい歩みへ導いてくださるイエスさまの言葉のように思います。

「見ないのに信じる人は幸いである。」これはまさに今を生きる私たちが幸いであるということです。何故ならば、私たちは神の言葉の内に生かされているからであるのです。