〇聖書個所 マタイによる福音書 28章16~20節

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

〇宣教「復活の出来事① 御言葉の復活」

先ほどの祈りの中でも触れましたが、私たちは今キリスト教の暦で「復活節」という時期を歩んでいます。この復活節とは、主イエス・キリストの十字架からの復活の記念であるイースターから弟子たちに聖霊が降り注いだ記念のペンテコステまでの七週間(約50日)のことを言います。ちなみに聖書には復活のキリストは40日にわたって弟子たちと共におられたと書いてありますが、キリストが昇天(召天ではない)された後に、弟子たちが祈る期間があるため、50日ということになっています。ペンテコステの前の週の日曜日はキリストの昇天日として記念されています。さて、この復活節に私たちが覚えたいことは、復活されたイエスさまがご自分が蘇り生きていることを数多くの証拠をもって弟子たちに示され神の国について教えられたように、私たちもまたイエスさまの復活の意味とその出来事によって弟子たちが受けたことは一体何であったのかということを黙想することです。

そのため、私たちはペンテコステまでの間、イエスさまが復活された後に弟子たちに現れた聖書個所を共に読んでいきたいと思います。復活のイエス・キリストが弟子たちに現れたエピソードについては各福音書がそれぞれに記していますが、今日はマタイによる福音書の最後の出来事を共に読んでいきましょう。

マタイによる福音書によると、安息日が終わって明け方早くにイエスさまの墓に向かった婦人たちは、大きな地震に遭遇し、主の天使が天から下って来て墓石を動かし、その上に座るさまを目撃しています。墓を守っていた番兵たちは恐ろしさのあまりに震え上がりますが、彼らをよそに天使は婦人たちに語り掛けます。「弟子たちにこう告げなさい。あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」この言葉を聞いた婦人たちは恐れながらも喜び、走って弟子たちのところへ行くのですが、その途中に復活のイエスさまが婦人たちに現れ「おはよう」と声をかけます。婦人たちはイエスさまの足を抱きひれ伏しますが、イエスさまは天使と同じように「弟子たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と告げられます。その言葉を聞いてユダを除く11名の弟子たちは、ガリラヤに向かったようです。

ところが、今日の箇所に入ると、イエスさまは「ガリラヤでわたしに会うことになる。」と言われたにもかかわらず、弟子たちを慰めたり励ましたり触れ合ったりするシーンは記録されていません。イエスさまが婦人たちに直接出会って「おはよう」(ギリシャ語でカイローという言葉は、いわゆる挨拶の時に使われる言葉ですが、原意は「喜びなさい」)と言われたように、弟子たちも久しぶりにイエスさまに出会うわけですから、色々なエピソードが残っていてもよさそうなものです。しかし他の福音書に比べてここではそのような親しい交わりや喜びとなるような出来事はまったく省かれてしまっています。

代わりにクローズアップされているのが、イエスさまが弟子たちに近寄って来て残された言葉、いわゆる「大宣教命令」と呼ばれるものです。なので、ここでは弟子たちがイエスさまの復活に出会うというよりも、イエスさまの御言葉だけが響く、いわばイエスさまは御言葉として復活されたように感じるのです。思えば、イエスさまが婦人たちに現れた時も、天使の語り掛けを聞いた後でしたし、イエスさまも同じことを話していますので、もしかして彼女たちはその言葉の中にイエスさまの復活を感じたのかもしれません。イエスさまの復活の告げ知らせ、あるいはその御言葉によってそれを聞いた夫人や弟子たちが新しく歩み始めていった。これがマタイが語る復活の出来事。すなわり「御言葉の復活」なのではないかと思うのです。

ちなみに、この場面はイエスさまが指示しておかれた山であったとのことですが、その場所は定かではありません。しかもイエスさまがどこどこの山に上るようにと指示しておられる箇所は残されていません。でも、この山という言葉はやはり重要だと思います。何故ならば私たちは「マタイ福音書」で「山」という言葉を連想すると「山上の説教」を思い起こすからです。私はもしかしてこの山と言うのは、イエスさまが「山上の説教」を語られた山のことではないかと思うのです。もし彼らが登っていった山が、かつてイエス・キリストが教えを語られた山であったとするならば、そこで復活のイエス・キリストに出会っていくと言うのは、やはりかつてイエスさまが語られた教えを思い起こしなさいということであり、イエスさまは御言葉として復活したのだと感じるのです。

弟子たちはイエスさまに会い、ひれ伏しています。ひれ伏したくなる気持ちもわかります。彼らはイエスさまを裏切ってしまったあと、まだイエスさまに悔い改めをしていない状況であったからです。でも実はこのひれ伏すは土下座とかそういうおわびの気持ちではなく、「礼拝する」という意味の言葉です。実に面白いことに弟子たちがひれ伏してイエスさまを礼拝するのは、この場面が初めてです。病気の癒しなどのためにイエスさまにひれ伏す人々がいたことは記録されていますが、弟子たちはそれまでイエスさまにひれ伏すことはなかったのです。その理由は、恐らく彼らがイエスさまと共にいたからだと思います。でもここで、弟子たちがひれ伏したのは、彼らが神の言葉を必要とし、それを聞く者となっていたということ。そしてその言葉に生かされる者になったということだと思います。つまりこのひれ伏すという言葉を通して、イエスさまと弟子たちの関係性がこれまでと変わり、彼らはイエスさまを礼拝するものとなったということ、そんな彼らにイエスさまは言葉として自らを現わしているのかもしれません。

17節には疑う者がいたという書かれています。疑い深い人物としてはトマスがすぐに思い浮かびますが、実はこの言葉は三人称の複数形で書かれています。直訳すると、「彼らはひれ伏した。そして(しかし)彼らは疑った。」です。接続詞を順接に解釈するか逆接に解釈するかで少しだけ印象が変わりますが、この内の数名が疑う者だったということではなく、恐らくすべての弟子たちが礼拝しながらも疑っていたということなのではないかと思うのです。私たちもそうだと思います。私たちもはひれ伏して神の言葉を求める一方でその言葉を疑う者たちであります。でもイエスさまはそれをここで責めてはいません。この接続詞を逆説に取れば疑うことがネガティブに感じられますが、順接に取れば、疑うことは否定的なことではないと受け取れるからです。

何故ならば疑うということは、信じないことではなく、真実かどうか確かめることです。それはこの神戸教会の総意にもあるように、「無条件で鵜呑みにする」のではなく、その言葉が自分自身、個人に向けられた言葉として「反応し、自分に問いかけ、自分に示されている思いを探っていく」ことであります。ですから復活というような理解が難しい出来事に出会った弟子たちは、その出来事を自分の中に落とし込むために、その出来事、或いはその言葉を疑ったのだと思うのです。

疑うことは吟味することであり、深めていくことです。もちろん、そのままストンと信じることができればよいと思いますし、そうなりたいとも思います。でもそれは難しくもあります。実はこの「疑う」と言う言葉は、嵐の舟の上から降りてイエスさまの元に行こうとしておぼれそうになったペトロにかけられた言葉と同じです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」疑わないで信じる者になりなさいという招きオン言葉だとは思いますが、信仰の薄い私たちには難しいことです。何故ならば色々な状況の中でイエスさまを見続けていたいと思っても怖くなってしまうのが人間であるからです。でもその疑う者をすぐに助けられるのがイエスさまなのです。そして私たちに湖の上を歩んできなさいと言われるのです。いずれにせよ大切なことは、イエスさまはむしろそういう者たちをそのままで御許に招いたということなのです。

そしてイエスさまは弟子たちに近寄って来てこう言われます。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

復活のイエスさまがマタイ福音書で弟子たちに告げられたのはこの言葉だけです。ですからイエスさまは宣教の使命を伝えるために復活したともいえます。確かに意気消沈していた弟子たちにとってこの言葉は新しいミッションへの導きを与えました。そして弟子たち以降のキリスト教会もまた伝統的にこの言葉を「世界伝道の使命」として受け止めてきました。しかしそれは歴史の経緯の中で「キリスト教による世界制覇」ということに代わっていったように思います。世界には他の神々を信じる者たち、あるいは未信者(と言う言葉にも信じる者になるという前提が含まれていると思いますが)たちがいるけれども、そういう人たちにイエス・キリストを信じさせるために、或いはバプテスマを授けるために伝道していく。これが神の御心である。ですからキリスト教会は世界中に宣教師を送ってやってきたわけです。今でも様々なキリスト教会では世界伝道という言葉を考える時に、これがイエスさまから託されたキリスト教会の世界宣教の使命だと語られることがあります。

でも、立ち止まって考えてみることが必要です。時にはやはりこの言葉も疑ってみることが必要なのではないかと思うのです。こういうと語弊があるかもしれません。より具体的に言うと、この言葉にイエスさまが込められた意味と、教会が受け止めてきた意味とは私は何かが違うのではないかと思うのです。イエスさまは果たして本当にすべての国の民にバプテスマを授けてクリスチャンにしなさいと言っているのでしょうか。それがイエスさまの目的なのでしょうか。私にはそうとは思えないのです。

もちろんクリスチャンになるということはとても大切なことです。バプテスマも大切です。本人の受けたい、なりたいという意思はかけがえのないものですし、私たちにも喜びになります。しかし、バプテスマを受けることやクリスチャンになることがゴールではないのです。現に山上の説教にはそのような教えは書かれていません。むしろ山上の説教とは、律法や人々の伝承からの個人のいのちの解放であり、違いを持った人々と共に生きていくためのイエスさまの教えであるように思うのです。

またその言葉をイエスさまが語り掛けた相手は、様々な理由で「飼い主のいない羊のようなありさまの人々」でした。「私を信じてバプテスマを受ければ救ってあげよう」ではなく、それを信じるか否かは当人に委ねられているのです。もちろん、イエスさまの言葉を信じて歩むことは岩の上に土台を築いた家のようであると書かれていますが、そこには自由があります。神の御心とは何か、それは神にあって造られた私たち一人一人が自由に、隣人と共に自分の選び取りの中で生かされていくことなのではないか思うのです。イエスさまはそのような方々と共に生きていかれました。その時に、彼らの中でイエスさまの言葉が「福音」になっていったのではないかと思うのです。ですから、イエスさまが本当にすべての国民、すべての人種、民族の人たちを弟子にしなさい、バプテスマを授けなさいと言ったのであれば、私たちはその伝えるべき内容、或いはその時の私たちの姿勢は、山上の説教に立ち戻るべきであり、それぞれの違いを尊重し、喜び合い、共に生きていくように招いているのではないかと思うのです。

かつてアメリカにジョナサン・エドワーズ(1603-1683)という牧師がいました。アメリカ大陸への移住が始まったことに活躍した人物です。当時のピュリタン(清教徒)たちは国による教会(腐敗した教会)から自分たちの理想のキリスト教国を作るために新大陸に渡りました。そこではキリスト教が法となり、聖書を元にした国づくりが行われました。これはある意味で言えば「正しいキリスト教」を求めたということでしょう。ところがそこではクリスチャンしか市民権が認められず、他の宗教を信仰する方々は弾圧されました。もともとその土地に住んでいた人たちも力づくで追い出されました。しかしジョナサン・エドワーズは、正統な手続きを持って原住民から土地を買い取り、ロードアイランド州を作り、バプテスト教会を造りました。そこは、色々な宗教を信じる人たちが集う場所となりました。これがわたしたちバプテストの世界宣教の在り方なのだろうと思います。

「正しいキリスト教」は一方的な押し付けに代わりやすく、独善的で実を結びません。しかしそこに住む人々と対話し、共に生きていく道を探る時に、イエス・キリストが生きていった福音の実が結びます。そしてイエスさまはそのように生きていくように、弟子たちを招いて行かれたのではないかと今、感じます。福音宣教とは、人々のただ中に生きて働くイエス・キリストを分かち合うことであり、他者と共に生きるように招くイエスさまに自分自身として従っていくことです。そこにこそ救いがあり、キリストへの信仰が生まれるのではないかと思います。これが神の御言葉を吟味する中に与えられる「本当の宣教」なのではないかと思うのです。

これより主の晩餐式を守ります。イエス・キリストの流された血と割かれた体がすべてのものの平和となるためであったことを心に留め、共に守って参りましょう。そのような時に、イエスさまの「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という言葉が響くのですから。