〇聖書個所 マタイによる福音書 14章25~33節

夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 

〇宣教「神の招きに一歩踏み出す」

本日の礼拝は2022年度の最初の礼拝です。桜も満開を迎え。いよいよ春の到来、新しい年度の始まりになったことを感じます。新年を迎える時にも思うことですが、新しい歩み出しをするときは、私たちは自分たちの心にある期待を主に祈り、希望を持って歩みを進めることを願います。私たちは今日この神戸教会の新年度の歩みのために、また皆さまの歩みのために、主の導きと守りがありますように祈りたいと思います。

ただこのように祈る時にやはり一つ思うことは、私たちは希望を持って祈って歩み出すわけですが、必ずしも私たちが願ったようにはならないのが世の常であるということです。それどころか思いがけない嵐や逆風に見舞われることもあります。嵐という自然災害ならまだしも、人災と言うべき争いや困難に巻き込まれることもあります。私たちは昨年度一年間を振り返っても、その期待通りにいったかどうかと問われると必ずしもそうでなかったように思います。でも、そんな中でも神によって守られてきたことを感じるのです。ですから、この新しい歩み出しの際に私たちが心に留めたいことは、イエス・キリストがわたしたちと共にいるということなのです。インマヌエルなる神がわたしたちと共におられるということ。ここにわたしたちの希望と平和があるということを今日、お話しをしたいと思います。

今日の聖書個所は、新共同訳聖書の小見出しにもなっているように「湖の上を歩くイエスさま」のお話です。湖の上を歩くというと、何やら不思議な超常現象や幻のように感じられますが、私たちが注目したいのはその部分ではありません。私たちが注目したいのは、むしろイエスさまが強風や逆風に遭い悩みに悩まされていた弟子たちのところに出かけて行って助けられたということ。そして弟子たちはイエスさまの伴いによって嵐を静められ、平安が与えられたということです。

今日の聖書個所は、5000人の給食の後の出来事です。イエスさまは弟子たちに「向こう岸に行きなさい」と船に乗せて行かせました。弟子たちはイエスさまの言葉の通り、向こう岸に行こうとしたところが今日の場面です。彼らは逆風に遭い、思うように船を進ませることができなくなってしまいました。弟子の中にはガリラヤ湖の漁師たちが数名いましたから、舟を操るのはお手の物でした。また波や天候を見分けることも当然のようにしていたことでしょう。強い風が吹きそうだ。波も立っている。しかし彼らの長年の経験でいけると判断し、イエスさまの言葉に従っていこうとしたわけです。

ところがその風と波は彼らの予想を超えて高く、彼らはその船を進ませることができなくなってしまいました。波に悩まされた彼らは、恐らく協力してその波を乗り越えていこうとしていたことでしょう。しかしにっちもさっちもいかなくなってしまっていた。彼らは恐らく波や風という現象にだけ悩まされていただけではなく、自分の力の限界、見通しの甘さ、無力感にも打ちのめされていたと思います。あるいは責任のなすりつけ合いなども始まっていたかもしれません。しかもそうこうしているうちに夜になってしまった。彼らは真っ暗な夜に、風と波に揺れる舟の上で、命の危険も感じ、恐怖におののいていたのではないかと想像します。だから彼らのもとにイエスさまがやってきた時、それを見て「幽霊だ」と言うのです。

この幽霊と言う言葉ファンタスマと言い、ファンタジー(幻想)やファントム(おばけ)の語源になった言葉ですから、現実のものとは思えない恐怖に駆られたということでしょう。無理もないと思います。だってまた明け方早くですから、辺りはまだ一面薄暗く、水の上ですからモヤもかかっていたかもしれません。しかも波は立っていて風音は激しい。しかも、彼らがいた「湖」とは、深い水の上、人の力の及ばないところ、何が出てくるかわからないところで「死の象徴」でありました。そんな湖の波に揺られる船の上の弟子たちは、まさに生きた心地なんてしなかったでしょう。しかしイエスさまはそんな恐れる弟子たちを助けるために近づき、弟子たちの叫び声を聞いて、すぐに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語るのです。

私はこの弟子たちが置かれていた状況を見る時に、これはまさにわたしたちの人生そのものなのではないかと思うのです。私たちは自分たちの目標に向かって歩んでいきます。しかし何が起こるかわからない社会の中で、私たちは時々荒波にもまれたり、逆風にあおられたりすることがあります。月の光もない暗闇に取り残されてしまったかのように感じることもあるでしょう。そんな時私たちは、自分がこれまでやってきた経験をもとにそれを乗り越えていこうとしますし、それに対応する協力者を得ることもできることもあります。しかしそれでも私たちの手に負えない事態と言うのは起こりえるのです。そんな時私たちは恐れますし、困り果て疲れ果てて深い悩みに落ち込むこともあります。しかし、イエスさまは弟子たちに近づいて行ってすぐに語り掛けたように、私たちのところにやって来て下さり、すぐに「安心しなさい。恐れるな。」と語ってくださる方であるのです。

イエスさまがどう水の上を歩いてきたのかはわかりませんが、その意味について私はこう考えています。それは水が象徴する「死」や「不安」、「恐れ」にイエスさまは飲み込まれなかったということです。それは「祈り」によって起きることです。イエスさまは山に一人のこり、祈りの時を過ごしておられました。それとは対照的に、弟子たちは船の中で次々に目の前に起きる現象にばかり目を取られ、恐らく祈るということができていなかったのだと思うのです。しかしそれは揺れる船というまさに安定しない土台の上で行われたことです。しかし、イエスさまはその水の上を歩いてこられました。それは暴風と荒波にも負けず、つまり死を恐れることなく、自分に敵対する風に負けることがないようにしっかりとした土台の上に立っていたということです。そしてその祈りは、イエスさまが弟子たちに伴うためのものでありました。今にも崩れてしまいそうな中にいる私たちに伴うために、その恐れを向こうから乗り越えてきてくださるのです。だからこそ「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」この声に慰めと平安を感じるのです。祈りという土台の重要さを感じます。

さて、そんなイエスさまを見て、ペトロは言います。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」私にはペトロがなんでそんなことを言ったかがよくわかりません。というのは、イエスさまが来てくれたらそれで問題は解決すると思うからです。しかもペトロの発言を考えるに、イエスさまを信頼して言っているのかよくわかりません。「あなたでしたら」と言う言葉には、疑いや試みが感じられるように思います。でもイエスさまは「来なさい」と言われ、彼はその言葉に従って水の上に足を降ろしました。みなさんはイエスさまに命令されたとしても真夜中に風も波もある湖の上に立とうと思えるでしょうか。私はこのペトロのことを最近まではお調子者のように思っていましたが、しかしイエスさまの言葉を信じて一歩歩みだしてみることにはすごいと思います。

これはイエスさまへの信頼がなければできないことだと感じます。彼はその言葉を信じ何と水の上に足を降ろし、しかもイエスさまの方に進んで歩きました。ところが、ふと強い風が気になり、怖くなって沈みかけました。「主よ、助けてください。」この言葉にイエスさまはすぐに手を伸ばしてペトロを助けられました。イエスさまがすぐに助けてくれるということにホッとしますが、続けてイエスさまは言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」こう言われてしまうと、私たちはぐうの音も出ません。でも、ペトロだけを馬鹿にすることはできません。何故ならば、ペトロのように水の上に立つさえできない私たちがここにいるからです。しかし、それではなんでイエスさまは「きなさい」と言われたのでしょうか。

それは、イエスさまが来てくれたことに安心を得るだけではなく、イエスさまの言葉を信じて歩みだすことの大切さを教えているのではないかと思うのです。もしかしてこのペトロが言った「「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」というチャレンジこそが大切なのかもしれません。私たちはイエスさまがそこにいる、自分たちのために来てくださった、だからもう大丈夫と思うわけですが、イエスさまは私たちに船を降りて水の上を歩いて私のところに来ることを待っているのだと思うのです。それはつまり、私たちがいつもイエスさまの言葉の土台にしっかりと立つことができるように招いておられるということです。だからイエスさまはペトロを「来なさい」と招かれたのではないでしょうか。

私たちは、ペトロが言うように、この「命令して」ということが大切なのだと思うのです。命令とはその相手との関係の中で相手の言葉に自分を従わせることです。そこには自分を超えた相手の思いが働きます。つまり自分の決断では決して踏み越えられない一線を、イエスさまの言葉を自分の心の内に信頼することによって、従うことによって、そこを乗り越えていくことができるということです。これはまさに祈りの内に歩むということであったと思います。

そういう意味で言うと、ペトロが強い風が気になって恐くなり、沈みかけるということは象徴的です。それは私たちの心に何か別の思いが入って来て、気が取られると、たちまちイエスさまの姿を見失い、その言葉を信じることを忘れてしまうからです。でも、そんな私たちが沈みそうになった時に、イエスさまはわたしたちに手を伸ばしてくださり、すぐに助けてくれるということに慰めを感じます。つまり、この関係が私たちに与えられているのです。

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」イエスさまは言われます。しかしこのように考えるとイエスさまがペトロに怒って言っているのではないと感じます。何故ならばイエスさまは強い信仰よりもその言葉を信じ一歩踏み出すことを喜ばれる方であるからです。私にはイエスさまはむしろ、「ペトロ、おまえはしょうがないなぁ。もう大丈夫だぞ。でも、何回でも水の上に立ちなさい。また沈みそうになったらわたしがいつでもおまえを助けるから。だから安心して私に従ってきなさい。」とにっこりしながら言っているように思えるのです。

イエスさまが船に乗り込んだとき、風は静まりました。「凪」という言葉がありますが、すべての風が止まったということなのでしょうか。確かにイエスさまは波風さえ止めることができる方であると聖書には書かれています。ですが、もしかしてここではその波風は彼らにとって静かになったということなのかもしれません。つまり、波風はまだまだあったとしてもイエスさまが私たちと共におられるときに、私たちにとってその波風は静かのようになるのです。

箴言3:5-6にはこのようにあります。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」

イエスさまから目をそらすことが無ければ私たちの歩みは何があっても大丈夫です。もう少し具体的に言うならば、私たちにとっては、イエスさまの言葉を心から離さずに進むことです。それは私たちにとってイエスさまはわたしたちに伴っていてくださる方であること。声をかけて励ましてくれる方であること。そして一歩歩みだして私のところに来なさいと言ってくれる方であることです。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

私たちの今年度の歩みもイエスさまが共におられます。そのためにイエスさまは、今も私たちに日々御言葉を与えてくださいます。今日はこの後に主の晩餐式を守ります。共にイエス・キリストのいのちを分かち合い、共に主を証しして歩んでいきましょう。