〇聖書個所 ローマの信徒への手紙 4章25節

イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

 

〇宣教「あなたのいのちが新しくなるために」

本日はイースターと言うイエス・キリストの復活を記念する礼拝ですが、今日の聖書個所はイエス・キリストが復活された場面ではなくて、パウロの手紙を読みたいと思います。それはイエス・キリストの弟子たちがこの復活という出来事をどのように受け止めていったのかということを共に考えてみたいと思うからです。

イエス・キリストの十字架の出来事とそれからの復活の日の出来事は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの各福音書に様々な形で記されています。最初に成立したと言われるマルコ福音書は、イエスさまの遺体を納めた墓に来た女性たちが墓の中に白い長い衣を着た若者を見て驚き、そしてイエスさまが復活されたと聞いて墓を出て逃げ去った。そして恐れを感じ誰にも何も言わなかったと結んでいます。この復活の出来事は、当初はイエスさまの姿も、人々の喜びもなく、ただその言葉を事実として受け入れることの難しい人の姿を明らかになっています。しかし、その後書かれたと言われるマタイやルカ、ヨハネの福音書では、その復活の出来事の後、女性たちから話を聞いた弟子たちが墓に駆けつけてその空っぽになった墓を見て不思議に思っている状況があったり、マリアの元にイエスさまが現れ、弟子たちにガリラヤに行くように告げたり、エルサレムに留まっている弟子たちの元に直接現れたりしています。その復活の出来事の記録はあまりにバラバラで読む私たちには混乱を与えます。どれが正しいと出来事であったのか分かりません。しかしそれは復活と言うにわかには信じられない出来事に触れた時の人の心の在り様を現わしているようにも思えます。私たちも復活という出来事を聞いたとき受け止め方はそれぞれだと感じます。

ただ、真実として残るのはその復活という出来事に触れた弟子たちが書き残した証言です。復活について最も重要と思われる証言は、コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:1-8です。パウロはこのように記しています。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」

ここでパウロは、イエス・キリストの復活が最も重要であるということを語り、これこそ福音であり私たちの生活の拠り所だと言います。確かにこの復活という出来事なくしてキリスト教はありません。

何故ならもしキリストが復活しなかったのなら、死の力あるいは直接的にイエスさまのいのちを奪った暴力や権力に対して、神は無力であることになってしまいます。イエスさまが殺されてしまったままなら、私たちはイエスさまの教えがいくら正しいように感じられたとしても、いくら感銘を受けてその言葉に従っていたとしても、それは信仰というものにはならないのだろうと思います。例え聖人や偉人の一人には数えられたとしても、救い主キリストにはなり得ません。それは人でしかないからです。ですからパウロは続く15:13-14でこう書いています。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」その通りだと思います。しかし神はそのキリストを死から復活させたのです。神がそのキリストを憐れまれた。だから復活と言う出来事が起きた。神はキリストと共におられる。そしてわたしたちとも共におられる。キリストの復活が眠りについた人々の初穂となった。それが彼らの信仰となっていったのです。

それでは、何故神はキリストを復活させたのでしょうか。その理由についてフィリピの信徒への手紙の中でパウロはこう記しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

この言葉はパウロの表現ですので、神さまの「本当の理由」かどうかはわからないということに注意しておきたいと思いますが、この言葉の中にはパウロ自身がその復活の出来事について感じていた意味が含まれていますし、この復活の出来事が弟子たちを始め今を生きている人々に与えた影響を伝えようとしています。それは、イエス・キリストの十字架は人間に向けられた愛の故であるということです。そしてその愛を死に至るまで表し続けたため、神はキリストを復活へと導かれたということです。これは確かに私たちにできることではありません。私たちは罪びとであり、自分を守るために他の人を死に引き渡すような者たちです。しかしイエス・キリストはそのように歩まれたのだ。だから神によって死より引き上げられたのだ。そしてそのイエス・キリストを信じることによって、或いはそのイエス・キリストの信仰によって私たちもまた永遠の命に招かれているのだというのです。これは神による一回的な特別な出来事ですが、しかし弟子たちの実体験となる出会いとなり、その言葉によって彼らは新しくされていったわけです。今まで申し上げたことはキリスト教会がかねてより語ってきたことであります。

今私はもう一つのことを考えています。イエス・キリストは確かに殺されました。しかし神はそれだけで終わらせることはなさいませんでした。つまりその復活の事実は、つまり死の力、あるいは暴力、権力などは人のいのちを奪おうとするけれども、人のいのちを完全に奪い去ることはできないということを証明しているのだと思います。力によって人のいのちを奪おうとすることは罪であります。

しかしイエス・キリストはその力を無とするかのようにそこから復活させられました。この事実はむしろいのちは神から与えられるものであり、その命を奪い合うのではなく、互いに分かち合うように生きられたイエス・キリストの生き方こそ、神がわたしたちにも願う生き方であるということ。そしてそこにこそ希望があり、その希望に立つときに私たちは神の平和を実現し続けて行くことができるのだ。そしてそれが福音宣教であり、神を賛美することなのだということだと感じます。

イエス・キリストは無力でした。しかし神が彼を復活させられたのは、同じように無力で暴力におびえ抗うことさえできないような私たち、世の中の最も小さいような存在にさせられている私たちに対して、神の目は向けられているということの証拠です。そして私たちにもイエスさまを通してその復活にあずかることができる。だから倒れても立ち上がれる。わたしたちには希望の光と、永遠のいのちが与えられているのです。ですから私たちはそのように歩まれたイエスさまの姿に心を留め、その教えを心に受け入れ、その招きに従って生きていこうとするのです。

恐らくこの出来事は弟子たちにとっても、確かに信仰や生活の拠り所になることであったと思います。先ほどお読みしたⅠコリント15:3節と5節に「聖書」とありますが、この聖書とは旧約聖書のことですが、神さまが一貫してその最も小さな者を愛する方であり、その証拠としてイエスさまを復活させられたことを彼らも受け取ったのではないでしょうか。だからこそ弟子たちは、その後聖霊を受けた後まるで人が変わったように、迫害を恐れることなく愛を行っていけたのだと思います。

ただ注意したいことがあります。、この「わたしたちの罪のために死んだこと」という言葉ですが、「罪のため」には二つの受け止め方があると思います。それは「ある目標を達成するため」であったのか「ある原因や理由のため」であったのかという受け止め方の違いがあるということです。つまり言い換えると、イエスさまは人々の罪の贖いのために、その罪を許すために神によって計画されていた死であったのか、それともイエスさまは罪のせいでそのために殺されたのかという違いが生まれます。前者は神は人々の罪を許しを、後者は一つの罪のどうしようもなさのために殺されたということです。そして「罪」という言葉はよく用いられるのがハマルティアという言葉です。これは「的外れ」という意味があり、私たちが元々神から与えられている恵みや神の教えに対して的外れに生きることが根源的な神との乖離、「罪」であるいうのです。

でも実は今日の聖書個所ローマ4:25では、その罪を「パラプトーマ」という言葉で表しています。これは「過ち」や「罪過」という意味の言葉です。ハマルティアに比べるとより現実的で具体的な過ちだと言えるかもしれません。ですから言葉をもう少し正確に訳すと、「私たちのもろもろの過ちを通して彼は引き渡された。」

つまり、私たちの罪が具現化してイエスさまが引き渡し、彼は殺されたとパウロは言うのです。それは私たちは明らかに有罪ですし、弁明のしようもありません。しかし、そんなわたしたちを義とする、これは正しいと認める、無罪とするということですが、そのために彼は復活させられたのです。私たちは神に対して自らを誇れるものではありません。私たちは罪びとであります。しかし神はわたしたちを無罪とするためにイエスさまを復活させられたのです。

これはすごいことだと思いませんか。神の愛とは私たちの犯した罪過を帳消しにしてくださるものなのです。ですから私たちはこの復活をお祝いするのです。それは私たちのいのちが新たにされることであるからです。でも私たちは許されて終わりですませてはいけません。何故ならばそこには流された血があるからです。喜んで終わりにはできないのです。そうではなくて、私たちは二度と同じような過ちを犯してはならないのです。もはやイエスの代わりの犠牲を捧げてはならない。そうではなくて、わたしたちもまたイエス・キリストが為されたように、互いに他者を愛し、共に生きていくのです。そのために神はこの世界を一つの世界として造られたのです。

神が与えられたそれぞれの国籍、人種、人種、性別、文化、宗教それぞれ違います。しかしそれはどれが正しいではなく、それを尊重し合って共に生きていくために与えられた個性であり賜物であります。それに目を向けてどのように生きていくか、神はそれを一つのミッションとして私たちに委ねているのだと感じます。これは大きなミッションです。争いと疑いの満ちた世界の様相を見ていると不可能に近いようにも思えます。しかし私たちはそれを諦めてはならないのです。何故ならばそれは私たちがイエス・キリストによって救われた者たちであるからです。ですから、イエス・キリストが今を生きているならばどのように生きられたか。私たちはこのことを共に祈り求め、考えたいと思います。

今日の宣教題は「あなたのいのちが新しくなるため」とさせていただきました。イエス・キリストの復活はあなたの全肯定のためであった。でもそれはあなただけではなくてすべての人のいのちの全肯定であるということです。人はみな罪びとです。しかし神はそんなわたしたちを諦めないためにイエス・キリストをお与えくださり、死から永遠のいのちへ導かれるのです。今日わたしたちはこのことを絶対に絶えることのない希望をもって改めて受け止めて生きましょう。