〇聖書個所 ヨハネによる福音書 13章12~17節

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 

〇宣教「平和と共生を願って ~主の洗足~」

先週2日(水)からキリスト教の暦では「レント」に入りました。レントとはイエスさまが十字架にかけられイースターに復活されるまでの受難の苦しみを覚える40日の期間のことです。私たちは今日、イエス・キリストがなされた「洗足」の個所から、イエスさまがここで弟子たちに伝えようとしていたことは何かということを黙想して参りますが、今日この箇所を選んだのには二つの理由があります。

一つ目の理由は、私たちは毎月主の晩餐式を守っていますが、果たして私たちはイエス・キリストがこれを守るように言われた理由をしっかり理解して受けているかということを考えたいのです。主の晩餐式は、私たちがイエス・キリストの出来事を思い起こすために守っているものでありますが、言い換えるとイエス・キリストが私たちのために、今体が割かれ、今血を流して恵みを与えてくださっていることをリアルに体験することであります。私たちはこの出来事をしっかり自分の出来事として受け止め、その主の恵みに生かされているでしょうか。パンと杯を受け取ることだけで終わってはいないでしょうか。パンと杯とはイエス・キリストの恵みであり、赦しであり命そのものであります。しかし私たちがこれを受け取ることは、イエス・キリストがこの洗足式でなされたように、私たち自身が互いに罪赦された者として仕え合って生きるためであるということを今日改めて考えたいのです。

もう一つの理由です。それは、ロシアによるウクライナへの軍事侵略があったことです。もうすでに皆さま毎日ニュースを聞いているとおり、現在もウクライナでは戦争状態が続いています。戦争のニュースというものは、それぞれの立場の違いもあるため様々な角度の情報が飛び交います。私にはその情報のどれが正しいかということはわかりませんし、その良し悪しについて何かを言おうとしているわけではありません。ただ私にとって非常に気になったのは、プーチン大統領がその侵攻の一つの理由にウクライナ東部におけるロシア正教徒の保護を上げたことでした。戦争は常に国を守るため、国民を守るためという「正当な理由」によって行われるものですが、つまりプーチンは彼の言い分としては、キリスト教徒の保護者として信者を守るために軍事力を使ったということです。

もちろん一口にクリスチャンとは言っても色々な人がいてそれぞれが大切にしている教えには違いがあります。ちなみにウクライナもロシアも同じキリスト教のオーソドックス(正統な)教会を信じている方々の多い国です。その教会の中に国籍による差別があったのでしょうか。それがもしあったとしたら、それは果たしてキリストの教会と言えるのでしょうか。またアメリカをはじめNATOにもキリスト教の影響を大きく持っている国々もあります。しかしそれらの国の対立で戦争が起きているのです。

実に私たちクリスチャンの自己認識とは大きく異なることですが、世の中的にはキリスト教はよく戦争をしている宗教だと認識されているようです。実は先週2/21の月曜日の明け方早く6時前だったと思いますが、教会に向かって大声で「おい。キリスト教ふざけんなよ。人殺し。覚えとけ!」みたいな暴言をまくしたてる人がいました。私たちは窓を閉め切った牧師館におりましたが、それでも聞こえるほどの大きな声に子どもは怖がっていました。その人が何を思い、そう言っておられたのかはわかりませんが、確かにその人だけでなく時々そういうことを言ってこられる方はおられます。「戦争・人殺し」それはイエス・キリストの教えられたこととは全く異なることではありますが、もしそれが一つのキリスト教のイメージになっているのであれば、それはやはり証しになることではありません。私たちはやはり悔い改める必要があります。

ですから私たちはイエスさまの姿とその教えに今日心を向けたいと思うのです。私たちの信仰の模範であるイエスさまはどう生きられたのでしょうか。またもし反対にキリスト教が戦争ばかりしていると思う人たちに本当のキリスト教を伝えるとしたら、私たちは何を伝えるのでしょうか。あるいはそん誤解を解くためにどのように生きていく必要があるのでしょうか。キリスト教ではよくこのような時に「平和を実現する者たちは幸いである」(マタイ5:9)とか「剣を取るものはみな剣によって滅びる」(マタイ26:52)というイエスさま言葉をよく耳にしますし、それが真実だと思いますが、私は今日イエス・キリストがこの主の晩餐の前に「洗足」を行われたことをそのヒントとして考えていきたいと思うのです。少々前置きが長くなりましたが、聖書の箇所に入っていきましょう。

皆さまもご存知のように、イエス・キリストの洗足の出来事が記されているのは、四つの福音書の中で一番最後に成立したと言われるヨハネによる福音書だけです。この洗足の話は、イエス・キリストが十字架に付けられる前の晩に起きた出来事でありますが、他の三つの福音書では「最後の晩餐」に重きが置かれている中で、ヨハネ福音書では「最後の晩餐」の出来事が薄められるくらいにこの洗足の出来事が印象的に記録されています。

その意味と背景を考えてみるのですが、もしこの最後の晩餐を守ることがイエス・キリストの大切な教えの一つであり、パンと杯を受け取ることがキリスト者として生きることの証しであるとするならば、洗足とは私たちがそれを受け取る前に、互いに仕え合うという本質的な部分をしっかり吟味しているかということを問いかけるものであります。主の晩餐に預かっている私たちは、果たして本当に互いに仕え合っているでしょうか。もし仮に私たちに仕え合うという関係性がないとするなら、それは本当のイエスさまの主の晩餐に預かっているということにはならないのではないでしょうか。私たちが互いに仕え合うということこそが、ヨハネ福音書が語る本当の主の晩餐の意味だということだと私は今思うのです。何故ならば、主の晩餐はイエスさまだけが割かれるわけではなく、それを受け取る私たちが今度は割かれ、仕えていくことを確認するものであるからです。

「洗足」というのはlイエス・キリストが文字通り弟子たちの足を洗ったという出来事です。乾燥地帯のイスラエルでは家に入る時に足を洗うわけですが、それは時に身分の低い人が身分の高い人の足を洗うというものだったようです。ヨハネ福音書の12章では、イエスさま一行がラザロの家にやってきたとき、マリアがイエスさまの足にナルドの香油を塗り自分の髪の毛で拭ったというお話があります。通常は水で洗うのでこれはもちろん特別なことであったと思います。ところがこの最後の晩餐の時にはイエスさまが席を立ち、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い始められたわけです。これには弟子たちは心底たまげたことでしょう。

ですからシモン・ペトロは言うのです。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」ペトロは自分の先生であるイエスさまに足を洗わせるなんておこがましいと思ったのでしょう。続けて「私の足など決して洗わないでください。」と言います。これはペトロだけではなくて普通の当然の反応だったと思います。でも、「イエスさまの代わりに私がみんなの足を洗います。」とは言いださないのがペトロの人間らしい部分、(つまり人には仕えたくないという本性)が現われていると思いますが、しかしイエスさまは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる。」と言われるのです。

もしイエスさまがしたことがただ単に足を洗うことだけであれば、関係性のあるなしはあまり関係なかったと思います。でもイエスさまがこの出来事を通して伝えようとしたことはただ足を洗うことではありませんでした。それは先生である私が弟子であるあなたたちの足を洗うということを通して、相手の前に自分が謙ることそのものであったからです。だからイエスさまは「あなたがたの主であり師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われるのです。

私はこれは非常に重要な招きであると思っています。それは「互いに愛し合いなさい。」とか「隣人になりなさい。」という言葉よりも一段と深く響く教えであるからです。何故ならば、「私があなたを洗ったのだから」という関係性において「あなたも相手を洗いなさい」と招いているからです。確かに「愛しなさい」とか「隣人になりなさい」という言葉も同じ招きではあります。でもそれは命令でありこそすれ、動機付けとしてはしっくりきません。しかし「私が洗った」という関係性の言葉は、すでに「洗われてしまった自分」とあり、それと同じように「イエスさまが足を洗った相手」が確かにそこにいることを示しています。イエスさまは「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言っているのではなく、「主である私があなたがたにしたのだから、あなたがたもその姿に倣い、私が足を洗った相手同士互いに仕えなさい」というのです。これはわたしたちがその関係性の中にすでに置かれているのだから、それは拒否することができない。拒否してはいけない教えとしてわたしたちの中に存在し続けるのです。

そもそもなんでイエスさまは弟子たちの足を洗われたのでしょうか。わたしはそれはやはり弟子たちのためであったのではないかと思います。イエスさまはこの時点で既にご自身が父の元に帰ることをご存じでありました。このまま帰ってしまうと、弟子たちをみなしごのように残していってしまうことになるイエスさまは、恐らく二つのことを考えたのだと思います。一つ目は、この弟子たちとの関係性を改めて形にすることです。もう一つはみなしごのようになるとあっという間にてんでバラバラになってしまう弟子たちの関係性を作ることでした。なのでイエスさまは、彼らの足を洗い、そして彼らにも互いに愛し合うように招かれたのだと思うのです。

足を洗うとはどういうことなのでしょうか。それは、ただの水洗いに留まらないでしょう。相手の足を洗うことというのは、例えば汚れがあれば拭い、傷があれば薬を塗る。疲れがあればそれを癒すということです。つまり相手の足を洗うことを通して、相手に心を寄せることそのものであります。そしてその「足」というものが象徴的にその人の歩みを支えてきたものであると解釈するのだとすれば、その相手の歩みを顧みて、その労に報い、その人の心に安らぎを与えるということに他ならないのです。

しかし私たちの中には自分は洗ってもらったらよいけれど、あの人と同じは嫌だ見たいな感覚を持つことがあります。なので、ペトロは「じゃあ私には足だけじゃなくて手も頭も洗ってください」的なことを言い出すのです。わたしだけは特別でありたい。少なくともあいつよりはという比較が私たちの中には生まれやすいものです。確かにこの時、イエスさまに足を洗ってもらった人の中には、のちに裏切ることになるユダも含まれていました。でもイエスさまはそのユダを除外することなく、彼の足をも慈しまれたのです。それは、恐らくイエスさまのなかには立派な弟子だけ洗うというカテゴリーがあったのではなくて、ユダを含む色々な葛藤を抱えている不完全な弟子たちのことも含めて慈しまれたのです。そして、その歩みはそれぞれ違う歩みになって行くかもしれないけれど、私がその歩みを慈しんでいるのだ。あなたがたはそんなわたしを通して繋がっているのだ。だから互いの足を洗い合うことを通してあなたがたは繋がっていきなさいと招いておられるのです。

ここで重要なのは、弟子たちがイエスさまに足を洗っていただくために何かを必要としたということではないことです。一方的にイエスさまが足を洗って下さり、それによって私たちは安らぎを得たということなのです。それはわたしたちが一方的に頂いた恵みであり、赦しであります。私たちはこれを受けた者として、そのイエスさまの姿に従っていくということに他ならないのです。私はこれは私たちが主の晩餐式を守るときに、同時に大切にしなければいけない心構えだと感じるのです。

でも言い換えれば、イエス・キリストが最後の晩餐に先んじて仕え合うことを教えられたのは、わたしたちは、一方的なイエスさまの恵みを頂きつつも、私たちが仕え合うことができていない存在であるからだとも思います。それは自分の罪の赦しは受けながらも人の罪を赦すことができない人間そのものであります。でも、イエス・キリストはそんな人間の弱さも傲慢さもご存じでありつつ、わたしたちの足を洗ってくださったのです。それはイエスさまがわたしたちの模範となってくださることであり、わたしたちが平和に共に生きていく道を示してくださることであったのです。

「平和を実現する者は幸いなり。」この平和は、どのようにして造っていくことができるのでしょうか。それはヨハネ福音書によれば相手の「足」を洗うことを通して、つまりその人のこれまでの「歩み」に心を寄せつつ、その人が本当に求めているものを探しながら、そのいのちの満たしを祈る関係性の中に与えられる平和なのではないかと思います。私たちができる「世界平和」は自らの心を割き、他者を知り、他者のために祈ることから実現していくのです。

今日も私たちは共に主の晩餐を守ります。わたしたちはオンラインを通してそれぞれの場におられる方々と共にパンと杯を分かち合います。わたしたちはお互いのために祈り、共に平和を実現して参りましょう。