〇聖書個所 フィリピの信徒への手紙 3章12~16、20節
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
〇宣教「われらの国籍は天に在り」
本日の礼拝は2021年度の最後の礼拝です。今年度も新型コロナウイルスの影響で色々な活動が制限された一年度になったわけですが、そのような中でも私たちはそれぞれの場所で礼拝を守り、大変なこともありましたが、イエス・キリストの伴いの中でその信仰によって希望と守りを与えられて歩んでくることができました。このことを改めて感謝したいと思います。今日は礼拝後には定期総会が開催され、2022年度の神戸教会の歩みについて話し合い、祈り合う時間が持たれます。どうぞ共に新しい年度の神戸教会の歩みの上に神の守りと導きを祈りましょう。
ところで先週の宣教の中で、私はこの神戸バプテスト教会の教会堂が3月23日に献堂70周年を迎えたことをお話しする中で、この教会の記念日と歴史を振り返り、1950年の伝道開始以来72年で延べ約860名がこの教会の交わりに加えられたとお話しましたが、それは正確な情報ではありませんでした。実は神戸教会の福音宣教はそれ以外にも神戸西教会(1982年)、宝塚教会(1990年)、神戸伊川教会(1999年)を生み出したからです。ですから860名以上の方々がこの神戸に蒔かれた福音の種に結ばれているわけです。私たちはこのことを共に喜びたいと思います。
イエス・キリストの福音宣教の働きのためにパウロは宣教旅行をしましたが、私たちはこの歩みの中で、神戸教会に残った者と他の教会で主の働きに仕えるために出かけて行った者と、歩みをそれぞれ別にしました。しかしそれは分裂分派ということではなく、それぞれが主イエス・キリストの福音宣教のために遣わされたという理解がありました。それぞれ結ばれている教会は異なりますが、しかしキリストに在って私たちは一つなのだということで、舞子墓園に「永眠者記念堂」を献堂し、この4つの教会で協働して管理をしています。本日の宣教題とした「われらの国籍は天に在り」という言葉は、永眠者記念堂の墓碑に書かれている言葉ですが、本日の20節の口語訳聖書の言葉です。
神が私たちをその時々に応じて教会に招かれたのと同じように、神は私たちをそれぞれの時に応じて召し出されることがあります。別れはもちろん寂しいことですが、でもそれはまた新たな出会いを与えます。これは同じ神の働きであり、私たちは一つであります。「われらの国籍は天に在り」この言葉が示すことは、私たちは神によって招かれ、神の愛の内に生かされているものであり、神の召しのために場所は異なれど同じ神に仕え、同じ神によって一つに結ばれているということです。
パウロが今日の聖書個所を通して言おうとしていることも同様のことなのではないかと思います。パウロは、宣教旅行を通して色々な教会を生み出していきました。それは一つの場所に留まり続けるのではなく、常に出掛けて行くことによってできたことであります。ある意味それは宣教者の宿命です。でも出かけて行って離れ離れになることでその関係性が失われるのではない。私たちの国籍、あるいは本国が天に在ると言うのは、私たちは常に同じ神の交わりの中に居続けるのであるということです。それを証明するように、パウロは今日もフィリピの信徒たちに別の場所に出かけてしまったとしても主イエス・キリストの福音を送り続けているのです。
以前にもお伝えしましたが、フィリピの信徒への手紙は、元々は1つの手紙ではなく、恐らく3つの手紙が1つに編集されたものだと考えられています。私はこの手紙が一つの手紙ではなかったとすれば、なおさらパウロがこのフィリピの方々に向けていた思いが並々ならぬものであったことに感動します。それは、今は直接会うことができない中にいるフィリピの町の信徒たちになお寄り添っていきたいというパウロの強い思いを感じるからです。
聖書箇所に入ります。この手紙の3章はその三つの手紙の内の一つのまとまりの部分です。3:2-4:1の部分です。ここを読んでみると、パウロがまず自分自身の来歴について書き綴り、自分が正統なユダヤ人であったことを記しています。彼がこのように自らのことを書いているのは、恐らくはこのフィリピの教会に「自分たちこそ正統なユダヤ人であり、自分たちが信じていることが正しい。パウロの言っていることは間違っている」ということを宣伝する人たちがやってきていたからでしょう。しかしパウロは自分の来歴や立場を明らかにした上で、それを誇るのではなく、それはイエス・キリストのゆえに損失であったと言っています。その理由は、パウロはこれまでファリサイ人として自分の義を証明しようと律法において正しく生きてこようとしていたのに完全に律法を守ることができなかったのに対し、むしろキリストへの信仰による義、あるいはキリストの信仰による義、つまりそれは「義ならざる人を信仰において義とする神」の愛の素晴らしさに彼が気付かされたからであります。
パウロが言っていることは簡単に言えば2つのことです。一つは律法によって自分の正しさを誇ることは無理であるということ。二つ目は、しかしながらイエス・キリストの愛によって私たちは救われたのだということです。人が自分の正しさを誇ることができない理由は、人がみな罪びとであるからです。律法をすべて守ろうとしても、守ることができない存在であるのです。
マタイ19章にこんなお話があります。ある時、永遠の命を得るにはどうしたらよいかと問う青年がイエスさまに会いに来ました。そしてイエスさまは「掟を守りなさい」と彼に言うのですが、彼は「そういうことはみな守ってきた」と言います。そこでイエスさまは言われました。「もし完全になりたいなら、持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい。そして私に従いなさい」すると、彼は悲しみながら立ち去っていったというお話です。彼は律法の言葉は守ってきたのかもしれません。しかし、律法の意図するところを考えていなかった。その言葉を守るだけならばある意味簡単なのかもしれません。でも、それでは律法を守ることにはならないということをイエスさまはこの箇所から教えています。何故ならば律法はその言葉を守るためのものなのではなく、その言葉に示された神の愛に生きていくことを教えるものであるからです。でも、やはりこれを徹底していくことは難しいのだと感じさせられます。
正しく生きていきたいと思うことは悪いことではありません。しかし、それは時々、正しく生きなければならないに変化し、その言葉を人に当てはめることで相手だけではなく自分自身をも追い詰めることがあります。そのようにして人は正義を語りながら罪を犯すのです。パウロもそうでした。神の正しさを守るためにステファノを殺すことに賛成し、キリストを信じる弟子たちを投獄していたからです。それが神の正しさだと信じていたのです。しかしそれは間違いです。神は、「汝殺すなかれ」と言われるからです。だからパウロは幻の中でキリストに出会った時に、まさに目からうろこというか、神の思いの真意を知ることになったのです。「サウルサウルなぜ、私を迫害するのか。」彼の正しさは神の正しさではなく、自分の中の正しさに過ぎず、神の思いとはかけ離れていたことを彼は知ったわけです。
人は、人を守るために人を殺すことを正しいと言うことがあります。戦争は正義を騙りながら行われる罪です。しかしそれは罪以外の何物でもありません。それはもはや誰々が悪いとかそういう問題でもありません。それが起きてしまった時点で人の罪なのであり、人の愚かさによるものでしかありません。それでもなお人は自分の正義を語り、誇りますが、人の正義は神の目から見れば罪でしかありません。創世記によれば、神は善悪の知識を知る木の実を食べてはいけないと言いました。それは善悪を判断するのは神であり人ではないことを教えるのです。だからこそ人は自分の正しさを神の前に誇ることはできないのです。
ですからパウロは言います。私たちはだれでも自分を正しいものだと誇ることはできない。罪びとである。しかし私たちは共にイエス・キリストに在って救われたのだと言うのです。「誇る者は主を誇れ。」(Ⅰコリ1:31)と彼は他の手紙でもたびたび書きますが、私たちが目を留めるべきなのは、自分の正しさではなく、私たち信仰無き者たちのために命を捧げてくださったイエス・キリストなのだということです。
私たちが正しいのではなく、イエス・キリストが正しい。彼がこのように言うのはイエス・キリストの歩みを見てみればわかります。イエス・キリストの生き方は人を罪に誘うのではなく、人を罪に陥れないように共に生きていくものであり、人を殺すのではなく人を愛する心であり、悔い改めを迫る言葉であると共に励ましと慰めに満ちた言葉であり、対話していく道であります。それは力に対抗できる強さではないかもしれません。そして確かに彼のいのちは十字架において殺されました。しかし神はそんなイエス・キリストを復活させられました。それは神が示した人が生きる道はやはりキリストの歩みにあるということを聖書は語っているのです。神はそんな人間の力に対して力で対抗しません。イエスさまも天の大軍を呼ぼうと思えば呼べると言います。しかしそうはなされませんでした。そうではなく信仰と希望と愛を示されました。ゆえに私たちは自分を誇るのではなく、弱さの内に十字架に架けられた愛なるイエス・キリストを誇り、その復活に希望を持ち続けて、罪深いこの世を諦めることなく神の言葉によって共に生きていくのです。イエス・キリストはそのように生きられたのだ。そしてそのイエスさまの信仰のゆえに私たちは救われているのだとパウロは言っているのだと思うのです。
今日の箇所はそれ以降の箇所であります。パウロは恐らくこの手紙を「信仰による救い」という枠組みの中で書いたと思います。しかしこの言葉から私たちが受け取る福音は、それを超えていると思います。何故ならばこれが「信仰」というものによって得られる救いであるとするならば、私たちはイエス・キリストの信仰によって既に救われていると理解します。それ以上のことはありません。でも、パウロはここでそれをなお得たというのではなく、求めているという風に書いています。
既に救われたと言うのであれば、それ以上に必要なことはなにもないではないかと思います。神が与えられる賞があるとパウロは言いますが、それは天に上げられる報酬のことです。私たちにとってはそれが最終目標となることでしょう。しかしパウロはこの信仰に到達して終わりではなく、まさに捕らえようとしているにすぎない。それはイエス・キリストに捕らえられたからであると言うのです。それはつまりはイエス・キリストの思いは私たちを超えて前に向かっているからなのです。先ほどの律法の関連で言えばイエスさまは私たちに「律法の言葉を守ること」を求めていくことではなく、まさに「神の言葉に生かされ、共に生きていくこと」を求めておられるのです。ですからパウロはそのイエスさまに捕らえられている。言い換えれば前に進むように招かれていると告げているのです。
前に向かっていく。これは、私たちが信じて救われて終わりではなく、神の御心を求めて続けて行くということです。そしてその福音宣教の目標は、すべての者がイエス・キリストによって救われることだと言うのです。でもそれは言葉の通り「イエス・キリストを信じる」ということではなく、その内実である、イエス・キリストを信じることによって得られる神の愛、神の平和に共に生かされていくということであります。ですから、パウロが福音宣教によって目標にしていたことは、すべての者がイエス・キリストが生きられたように、すべての者のいのちが尊重され、すべての者が神の平和の中で生きることができる社会がこの地に実現することを祈り求めることなのではないかと思うのです。そのために、私たちはそれぞれ到達したところに基づいて、これはゴールではなく私たちが置かれている一人一人の状況、その地平に基づいて生きていくとき達成されることではないかと語るのです。
私は教会の目的もここにあると思います。イエス・キリストの福音を何故伝えていくか。それは信者を獲得していくことが目標なのではなく、イエス・キリストの愛を互いに分かち合い、共に生きていく平和が実現するように共に祈り求め歩んでいくことなのです。私たちが神を礼拝するのは、神の愛を受けた私たちがこの世の中に遣わされて、それぞれの場で出会う人たちと共に生かされていくことです。そのために私たちはこの教会に互いに結び合わされているのです。
イエス・キリストはまさに福音書に記されているように生きられました。そしてその言葉は2000年を超えた今も、聖書の言葉を通して今も語り続けておられます。私たちはいまもなお聖霊の導きを受けています。福音派前に進んでいく。これは私たちにとっては私たちが前に進んでいくというよりも、イエス・キリストが前に進んで歩んで行かれているその姿に私たちは従っていくということであります。
神がイエス・キリストを通して私たちに示そうとしておられたことは何だったのか。このことに改めて心を留めて、新年度も主の御心を共に祈り求めて参りましょう。