〇聖書個所 コリントの信徒への手紙 12章26~31節

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

 

〇宣教「教会はキリストの体。一人一人はその部分。」

先週は初めて主日礼拝の中で、ビデオによるメッセージを行いました。それは私が別の教会の礼拝奉仕に行っていたためですが、実はその礼拝が始まるまでの間、私は自分自身の緊張などももちろんありましたが、どちらかと言えば神戸教会の礼拝準備は大丈夫だったかなぁ、配信の設定はうまく行っただろうかということがずっと気になっておりました。幸い礼拝奉仕者やオンラインチームが互いに協力してくださって無事に配信してくださいました。私も帰りがけ早々にオンライン礼拝で確認したわけですが、そのようなことを思っていた時に、私はやはり場所は離れていても神さまに在って神戸教会の交わりの中で皆さまと一つに結び合されていることを感じました。

今日の宣教は「教会はキリストの体。一人一人はその部分」と題していますが、まさに私たちは今、キリストによって互いに結び合わされているということをお話ししたいと思います。互いに結び合わされているということは、私たちが今気軽に会うことが出来ない中であっても、いや直接出会うことができないからこそ改めて感じることであるように思います。私たちが教会に集まることができていた時は、一週間に一度直接会うことを通して互いに結ばれていました。会うことができなくなった今はこのオンライン礼拝を通してキリストに結ばれ、この一つの礼拝をそれぞれの場所で守ること通してお互いに結ばれていることを確認するのですが、それよりも大切なのはたとえ会うことができなくても、オンラインが無くても、私たちはお互いへの思いによって互いに結び合わされているということです。そしてそれが主イエス・キリストの教会なのだということを考えるのです。

今日の聖書個所でパウロが書いていることもそうだと思います。今日の聖書箇所も先週と同じコリントの信徒への手紙Ⅰですが、パウロはこの手紙を書くことを通して今は直接会うことができないコリントの信徒たちへ自分の思いを書き送っています。言い換えれば彼のコリント教会の信徒たちへの愛が湧き溢れて、手紙という形になって表されたということです。この聖書個所の背景については、先週の礼拝の中でも皆さまにお話をさせて頂きました。簡単に言えば、人種も文化も異なる人たちが集う教会に分裂・分派が起きていたわけです。ところがパウロはそのような人々に「一致しなさい。」と書き送ります。これは「心を一つに合わせる」ということですが、より具体的に言うならば、「キリストが為されたように、キリストに在って互いに心を寄り添わせなさい。通わせ合いなさい。」と言うことなのではないかと思うのです。

イエス・キリストもまた一つにまとまれない弟子たちの足を洗った後に「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と教えられました。愛し合うということは、相手のことを考えること。具体的には相手のために祈ることから始まります。そしてそれは近くにいても離れていてもどこでもできることであると思います。直接出会えないから結ばれていないわけではない。いやむしろ大切なのは見えない中にあってもお互いへの思いによって結ばれるということです。パウロはそのことをこの手紙において証明しているように思うのです。

パウロは今日の箇所で、「教会はキリストの体」というモチーフを使って説明しています。実はこの箇所は12章12節から続いていますが、パウロが伝えようとしていることは、全て26節と27節の言葉に集約されていると思います。それは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」と言う個所です。

「体」というモチーフを使う時点で、そもそもパウロは私たち一人一人が違いを持った存在であることを認めています。みんなが同じではないし、同じようになることが求められているわけでもないということです。しかしそんな私たちの間には時々その違いによる摩擦が起きたり仲違いをしてしまったりすることがあります。でもそんなパウロが最も重要だとして伝えようとしていることは、たとえそうであったとしても、いやもしかして摩擦が起きるのは、私たちはキリストに在って結び合わされた存在であるからなのかもしれません。結ばれていなければ関わり合いがないからです。でも私たちは違いによって切り離されているのではなく、むしろイエス・キリストの内に繋がっているのです。

それではイエス・キリストによって繋がるとはどういうことなのでしょうか。「体」という譬えは非常に分かりやすいと思います。「体の部分」がそれぞれ違う働きをしていることや神経系統を通じて繋がっていることは現代に生きる私には敢えて説明するまでもありません。指に切り傷ができるだけで涙が出ることもありますし、熱が出たり頭が痛くなったりすることもあります。骨が折れればその他の部分は異常が無くても固定して動かさないようにしなくてはなりません。また右手が使えなくなったらその負担が左手にくることもあります。このようにパウロは体全体がそれぞれ違う部分に分かれていても繋がっているということを示した上で、それぞれの違いに優劣があるのではなく、最も小さく見えるところでもその存在が大切な部分なのだということを伝えます。そしてこれらは一体であり、繋がっているということを示しています。

そして私たちはこの有名な箇所から、よく教会形成上の「働きの違い」あるいは「賜物の違い」ということをよく考えます。キリストの体としての教会にはどのような部分があるのか。それでは私たちに与えられた賜物は何か、私はこんな働きがしたい、こんな教会になりたいなど色々なことを考えるわけです。特に28節以降を見れば、一目瞭然です。こうあります「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」教会によっては、ここに書かれているものが神の賜物であり、これらの賜物を与えられるように祈りなさいと教えることもあります。そして神に与えられる賜物を互いに用いていくところが教会であり、キリストの体である。互いの働きを通してキリストの体は建て上げられていくのだと語るわけです。確かにその通りではあります。

でも私は今日、この「キリストの体」という言葉からもう一つのことを考えています。それは、キリストの体と言うのは生身の体であるということです。生身の体と言うのは、脆く傷つきやすい体であるということです。それはがっちり完成されたような理想形のムキムキマッチョな体ではなく、痛み傷つき血を流し、苦しみを嘆き倒れそうになる体、しかし温かみを持った触れ合いの出来る体であります。言い換えるならば教会がキリストの体であるというのは、つまり私たちの交わりが人の痛みを自分の事柄のように受け止めて、共に泣き、共に笑う間柄に置かれているということです。人の心がバラバラであれば一人の人の苦しみは一人だけのものでしかありません。しかし私たちは心がつながっているから一人の人の苦しみを分かち、共に祈りに結ばれるのです。これがキリストの体なのです。

この箇所を通してパウロが言おうとしていることは、そういうことだと思います。だから29節以降にこう言うのです。「皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」これに続けて13章では「愛を求めなさい。最も大いなるものは愛である」と語るのです。つまり、この箇所から私たちが考える教会、私たちそれぞれがその一部として繋がっているキリストの体というのは、立派な働きをしている教会ではなく愛や祈りという温かみを持った関係性の教会であるのです。

それがキリストの教会であり、キリストにある私たちの交わりであるということです。私はやはりそれが大切だと思います。その交わりには色々な人がいます。例えば熱心な人。正義を語る人。不正と闘うことを願う人。逆に今まさに罪の苦しみの中にいる人。祈ってほしい人。祈る人。助けてほしい人。助ける人。御言葉を求めている人。日ごとの糧を求めている人。時にそれぞれの違いによって摩擦が起きる交わりでもあります。人はもろく傷つきやすい存在です。時に意見が異なるだけで対人不安になる方もおられます。しかし、大切なのはそれらの人は例外なくそれぞれの時に与えられた神との出会いによってこの交わりに招かれているということであり、私たちはその方々と共に生きていくということです。何故ならば教会は、その本来の意味をエクレシア(神によって呼び集められた者の群れ)と言うからです。

どんな人でもイエスさまが招いておられる。あなたも同じである。私たちは共にイエス・キリストに在って招かれているのだ、存在を肯定されている、居場所があるということです。その交わりを繋ぐものが神の愛なのです。そして言い換えれば私たちが招かれたのは、互いが愛されるためであり互いを愛し合うためであるということです。一時期「君は愛されるために生まれた」という讃美歌が流行りましたが、やはりそれと同時に言えるのは「君は愛するために生まれた」ということでもあります。愛するということは、先ほども言いましたが、相手のために祈ることから始まります。会えないとき何を祈ればよいのかわからないということはあるかもしれません。しかし、その人のための祈り心が示されたのであれば、その人の内に働くイエス・キリストにその人のことを祈ればよいのです。何故ならば私たちは神にあって結ばれたものたちであるからです。

このように言うと私たちの中に祈り合うことがなかったのだろうかという自問自答に発展します。必ずしもそういうわけではなかったと思います。確かにコロナによって信徒の交わりの場は今も失われたままです。中には様々なご事情の中で会堂での礼拝をずっと控えている方々もおられます。私はそれも仕方のないことだと思っています。そして私もこれまで、どうしたらこの信徒の交わりを回復することができるのだろうかと思ってきました。

でも私が最近このパウロの手紙を通して感じることは、確かに交わりの場というのは大切だけれども、それが不可欠なわけではない。より大切なことは、たとえ交わりの場はできなかったとしても、出会っていくこと。問題は場の設定ではなく、私たちが相手に心を向けていくということなのです。だから私たちには交わりが失われたのではない。交わりの場が失われただけであって、繋がり続けてきたのではないかと思うのです。新たに教会の群れに加えられた方も同様です。私は昨年10-11月に転入会、バプテスマを受けた方々の証しをオンラインで聞いた人から、とても励まされた。その出会いに感謝したと聞きしてまいりました。私はその関わりの中に、やはり互いは既に神によって結ばれたものであることを感じたのです。たとえ見えなくても私たちは思いの中で繋がり続けているのです。私たちが、キリストの体に結ばれるとは、本来はそういう意味なのではないでしょうか。もちろん、私たちは直接会えないことに寂しさを覚えます。でも神は共にいるのです。そして互いに祈り合っていく中で、神の伴いと励ましを感じるのです。私は今、このような交わりがあるということを伝えていくために、この神戸教会は建てられたのだと思うのです。

巻頭言に記しましたが、今週私たちの神戸バプテスト教会はこの建物が建てられてから70周年の誕生日を迎えます。献堂式の日が長らく不明だったのですが、最近寄贈された写真によって1952年3月23日であったことが明らかになりました。この会堂は教会の信徒の交わりを70年もの間見守り支えてきました。老朽化が進んできていますが、この教会堂は私たちにとってかけがえのないものです。しかし大切なのはこの教会堂で結ばれた信徒の交わりです。

この教会が建てられた目的、この教会の発信する福音宣教とは、まさに神が愛であることを伝え、神の愛によって私たちが生かされていくためです。イエス・キリストはその神の愛そのものとして私たちに与えられた。そのイエス・キリストの愛はまさに救いを受けるに値しないはずの私たちに、その命を惜しみなく献げるほどの愛でした。私たちはその愛に希望が与えられ今を生かされています。そして私たちはその愛を信じた者として、愛によって平和を実現していくのである。違いのある者たちと共に生きていくために祈りを合わせていくのです。

この神の愛は世界に及ぶことを感じています。実にこの会堂の土地と建物は、まさに神の愛に動かされた、南部バプテスト連盟の女性たちが中心となって献げられた世界バプテスト祈祷献金がありました。私たちは自分たちの手によらない恵みによって、神戸バプテスト教会に連なっています。私たちはこのことに感謝するとともに、今この地で、或いは世界で隣人と共にイエス・キリストの愛に生かされて行きましょう。この繋がれていく愛は、今や争いが顕在化している世界に最も必要とされていることであります。すべての人と共に結ばれるためにキリストは来られました。キリストの体は実に世界に及ぶのです。私たちは互いに平和を祈り合いましょう。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」祈りましょう。