〇聖書個所 コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章5~9節

アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

 

〇宣教「種を蒔き水を注ぎ、成長させてくださる神」

先ほど子どもメッセージでもお伝えしましたが、今日は事前に撮影したビデオを通して宣教を行います。ビデオメッセージでの礼拝と言えば、私たちにとっては2年前、新型コロナの感染拡大が日本で始まったときに、会堂での礼拝を休止し、私だけがこの会堂で事前にビデオを撮影して、皆さんに配信していた時期がありました。今や別々の場所にいたとしても、ビデオを通して宣教を残していけるというのが、すごい時代だなと思います。パウロの時代には手紙が最新鋭のツールでしたが、今はネット社会なので、やはり現代のパウロはオンラインもなんでも使ったのではないかと思いますが、やはり大切なことは、御言葉を共に分かち合うということであり、その神の言葉によって私たちは生かされるということだと思います。

実は先日、神戸教会のある教会員のお父さまが亡くなられて、ご自宅で前夜式をしたのですが、わたしはその時コロナの濃厚接触者ということで、自宅からZOOMを繋いでリモートで前夜式の司式を行いました。その時に感じたのは、牧師というものの第一義的な働きというものは、やはりその存在そのものにあるのではなく、神の言葉を届けることなのだということでした。わたしたちには同じ場所に共にいることができない時があります。顔を会わせることができない時もあります。もちろん、その場所に共にいるという触れ合いにまさるものはありませんし、その関係性やそこにいるという安心感は確かにかけがえのないものだとも感じます。しかしそのような中にあったとしても、わたしたちの中心にあるのはわたしたちを結び付けた神の御言葉であり、わたしたちが共に分かち合うことを通して慰めや励まし、平安や希望を頂くものもまた神の御言葉であるのです。牧師という存在のもっとも大切な働きとは何か。儀式的な教会であれば違うかもしれませんが、やはりバプテスト教会の礼拝の中心は宣教であるということを私はやはり思わずにはいられなかったのです。

さて今日は諸事情の中、リアルなわたしは同じ場所で礼拝を献げることはできていません。しかしこの宣教の言葉は、これまで私が触れ合ってきた神戸教会の礼拝出席者の皆さまに語り掛けるものであります。そんな皆さまに私が今日お届けしたい言葉は、「わたしたちに種を蒔き、水を注ぎ、成長させてくださったのは、神御自身である」ということです。

これは宣教題の言葉でもありますが、パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中に出てくる言葉を一部変えさせて頂きました。その理由は後ほどお話ししますが、まずはこの手紙の背景についてお話をします。

コリントの教会は、パウロが第二回宣教旅行のときに訪れたことで誕生した教会です。コリントの町は、ギリシャ世界の交通の要所で交易によって非常に栄えた町であり、ローマ帝国の植民都市の一つでした。植民都市ということは、ここには元々コリントに住んでいたギリシャ人だけではなく、ローマ帝国の方々の町から色々な人たちが入植してきて、様々な違いを持った人たちが住んでいた町であったということです。

パウロがこの町に滞在していた時、彼はアキラとプリスキラという夫婦の家に住み込んで、一年半ほど宣教活動をしていました。彼らは同じテント作りの職人であったそうです。アキラはポントス州出身、ポントス州とは、小アジア地方アナトリア半島の北側、黒海の沿岸地方の町でした。彼はユダヤ人であったようですが、色々な経緯があり、ポントスからローマに移り住み、しかしローマからユダヤ人の退去命令が出たので最近このコリントに移住してきたということが使徒言行録18章に記されています。

ユダヤ人と言うのはどこの町に住んでも自分たちの独自の生活スタイルを大切にすることで有名であり、それによってその伝統を守ってきたわけですが、しかし住んでいる町や地方が異なれば文化も血縁も違います。同じユダヤ人でも大きな違いがあることは当然のことであったと思います。このコリントにおいても、パウロは会堂でイエスさまこそがキリストであり、聖書が語っている救い主であることを伝えました。会堂とはユダヤ人が聖書の言葉を聞く場所でしたから、多くのユダヤ人が集まっていたと思います。そしてある人々はパウロが語る福音を信じてクリスチャンになる一方で、そんなことは聞きたくないと思う人たちがその働きの邪魔をするということが、この町でも起こりました。しかし教会という信徒の交わりは、常に困難の中でイエスさまへの信仰を分かち合って共に生きていこうという関係性の中から誕生するということが、ここからもわかります。

パウロたちはそこに一年半ほど留まりました。しかしながらパウロたちがその町から離れると色々な問題が起こるのです。リーダーの不在はやはり集団の危機という状況に繋がります。コリント教会で特に問題になったのは、色々な違いを持った人がいたその教会に、その後アポロやペトロという他の弟子たちがやって来て、パウロの教えを否定したり、異なる教えを教えたりしたことで、この教会には分派ができてしまっていたということでした。

でも、多分この分派問題というものは、当初些細なことだったのだと思うのです。例えばペトロがやって来たときには、彼はイエスさまの筆頭弟子でしたので、人々はその弟子の言うことが正しいのではないかと思ったのではないかと思いますし、ペトロがイエスさまとの出会いやその経験を語ると、やはりその話をもっと聞きたいと言って飛びつく人が現れたのでしょう。アポロに関しては詳しいことはわかりませんが、使徒言行録には聖書に詳しい雄弁家という触れ込みがありますので、彼の言うことは理論的で力強くてわかりやすい。やはりこの教えをもっと聞きたいと思う人が現れたのでしょう。

恐らくこれらの教えは、どれが正しくてどれが間違っているかということではなかったのだと思います。またアポロもペトロも分派を作ってやろうなんて微塵も考えていなかったはずです。彼らからすれば、自分が語ったことと言うのは、聖書の教えやイエスさまの証しを通して、人々の信仰を励まし、強めるためにしたはずであるからです。

というのは彼らの神は一人であり、イエスさまこそメシアであるということは共通していた認識であったからです。ところが、それを聞いている人にとって自分にとってはどれが一番しっくりくる。わたしはこの人の話が好きだというようなそれぞれの違いが見え始めるきっかけになったのではないかと思うのです。わたしたちにもそのような好みの問題、あるいは感覚の違いというものはありますので、こういう状況が起こるのはわかりやすいと思います。別に相手のことを否定しているわけではないけれど、わたしはこの人の話が好きでこの人の話をもっと聞きたい。或いはこの人の教えを聞いて信仰生活を歩みたいという思いです。

でもそれらの違いがやがて深まり、自分が大切にしたいと思うことと違うことを大切にする人たちへの寛容さが失われ、次第に対立「分派問題」という大問題に発展してしまったのではないかと思うのです。パウロは旅の途中で、コリントの教会のそのような状況を聞いたとき、恐らくとても悲しかったのだと思います。恐らくアポロもペトロも自分たちがしたことによって分派問題が起こっていたと知ったとしたら悲しかったと思います。何故ならば、そんなことは誰も望んでいない事柄だったはずであるからです。しかし、人の交わりにはそういうことが起こります。だからパウロは、そのコリントの教会の信徒たちに手紙を書くのです。

コリントの信徒への手紙Ⅰでパウロが強調していることは、主において一致するということです。パウロは言います。「誇るものは主を誇れ。」私たちは誰かの教えを誇り、それを信じる自分自身を誇ります。しかしパウロは人が神の前で誇ることが無いように、わたしたちはイエス・キリストによって結ばれたのだというのです。ですからパウロは今日の箇所でこのように言うのです。

「ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」

パウロはこの箇所の中で「わたしは植え、アポロは水を注いだ。」と自分たちの役割上のことは言っています。しかし彼が最も言いたかったことというのは、「わたしたちに種を蒔き、水を注いで成長させてくださったのは、他の誰でもない神御自身である」ということなのです。植えた者が偉いとか水を注いだ方が偉いかとかそういうことでは全くない。むしろその背後にあってすべてのことを導いておられる神さまを見続けることこそ大切だと言っているのだと思うのです。ですから私は今日の宣教題を「種を蒔き、水を注ぎ、成長させてくださる神」としたのです。

残念ながら人は目に見える存在に拠りたくなるものですし、自分が好むものを好みます。それは仕方のないことだと思います。でもパウロは見える存在は「器」に過ぎず、その内におられる神に目を注ぐように言うのです。つまり、パウロもアポロもペトロも、自分たちの教えが大切だと言っているのではなく語られている内容が神を証しし、その神によって私たちが生かされていくという内容そのものが大切であるというのです。残念ながらわたしたちは誰が語るか、その人がどんな人かということに心が取られます。しかしより大切なのは、その人の言葉を通して働かれる神の存在であるのです。

だからパウロは続けてこう言います。「植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」

このパウロの言葉から考えられることは、神はパウロやアポロやペトロという特別な人にだけ、特別な力を与えられたのではなくて、あなたがたそれぞれにも大切な言葉や賜物と役割を与えられているのだということです。確かにパウロたちはたまたまそのような働きに召されていたので人前で語ることは多かったでしょう。役割の違いはあるのかもしれません。賜物の違いもあるのでしょう。タイプなど個性の違いもあります。しかし大切なのは、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」ということなのです。それはつまり、あなたがたが神の畑として実っていくことであり、かつ神の建物として建て上げられていくことなのです。パウロやアポロの畑や建物になって行くのではなく、わたしたちそれぞれの働きを通して、語られる言葉を通して、神の畑、神の建物として建て上げられていくことが大切なのです。ですから、大切なのは「特定の人」ではなく、神であり、わたしたちが大切なのではなくあなたがたが大切なのです。神は働き人を通して、わたしたち一人ひとりにも出会いを与えてくださっているということなのです。

わたしたちは特別な働きをしている人や、人にはできない働きをしている特別な人の言葉を求めたくなる傾向があります。確かにそのような人たちの経験から語られる言葉というものは力があります。しかし大切なのは「神御自身」なのです。そしてその神が今、わたしたちに語られている「神の御言葉」を聞いていくことなのです。それはその時に語られる宣教を、好き嫌いを問わず神の御言葉として受け止め、その言葉を自分の中で咀嚼していくということなのです。その時にわたしたちの中で神の言葉が響き応答となって行くのです。

先ほど、わたしは牧師の働きの最も大切なことは「宣教」だと改めて感じたと言いました。それは、わたしたちが、わたしたちの中に働く神の言葉に生かされていくことそのものであるからです。

そして神戸教会の大切にしているテーマに「違いの中に働くキリストを告白する群れ」という言葉があります。これはわたしたちが「一人」であるのではないということ。そして「一人」で信仰生活を守ることはできないということ。自分と異なる他者が共にいて、その一人一人の告白を分かち合う交わりの中に神の国があるということを大切にしているということです。

ですから、わたしたちは互いのために祈り合いたいと思うのです。まだまだ会えない時期は続いています。でも私たちは共に御言葉を分かち合っています。それは神が言葉を通して私たちのただ中に働いてくださっているということです。そしてそれはわたしたちが神の畑として神の建物として互いに結ばれていることの証拠なのです。皆さまの今週一週間のそれぞれの場での信仰生活の守りために、祈りを合わせて参りましょう。