〇聖書個所 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章12~28節

兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

 

〇宣教「会えないあなたがたに宛てた愛の手紙」

今日の聖書個所はテサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:12-28を選ばせていただきましたが、この中には私たちが特に好んでいる聖句があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と言う一文です。とても美しく、そして心に響く言葉だと思います、皆さまの中にも、この箇所を愛唱聖句としている方がおられると思います。わたしもその一人です。しかしこの言葉を聞くときに私が思うことは、「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝すること」はやはりなかなかに難しいことであるということです。いつもきちんと実行できているとは思えません。皆さんはどうでしょうか。もちろん心が落ち着いて平安な時に多少はできるかもしれません。でも何か問題事が起きているときには心が騒いでとてもできやしない。いつも喜んでいたいけれど、そんなことは無理だ。祈ることさえできないときもある。どんなことにも感謝することなんてできるわけがない。もちろん私たち「喜び祈り感謝」できるようになるためにイエス・キリストが生まれたということは頭ではわかっているのですが、どうもそのようにはできないなぁというのがわたしたちの日常だと思います。

恐らくこの手紙が書き送られたテサロニケの人々も戸惑ったのではないかと思います。みなさんは想像したことはないでしょうか。パウロは励ましとしてこの言葉をテサロニケの人々に書き送ったのでしょうが、彼らはこの言葉をどのように受け止めたのでしょうか。「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝すること。」この言葉が特に有名になりすぎてしまっているあまり、この言葉がどのような文脈の中で手紙に綴られた言葉であるのかを私たちはあまり意識することがありません。ですので、今日はこの手紙の著者であるパウロがテサロニケという町の教会の人々にこの言葉を通して何を語りたかったのかということを、私たちの福音として受け取っていきたいと思います。

ざっと聖書個所の背景についてお話しします。このテサロニケの信徒への手紙Ⅰは、パウロがテサロニケという町の信徒たちに書き送った手紙です。聖書にはテサロニケの信徒への手紙のⅡもありますが、そちらは恐らくパウロの弟子の手によるものではないかと言われています。真正の手紙はⅠだけです。それでは何故、パウロがこの手紙を書き送ったのかと言うと、パウロがテサロニケの信徒たちに直接会うことができない状況があったからです。

この辺の事情は使徒言行録17章に詳しく書かれています。それによるとパウロとシラスは第二回宣教旅行の途中にテサロニケの町を訪れ、3週にわたる安息日に会堂でイエスさまがメシアであることを伝えていたようです。それを聞いた多くの方がイエスさまを信じたわけですが、それを妬んだユダヤ人がならず者を抱き込んで暴動を起こしました。彼らはパウロたちの集会場となっていたと思われるヤソンと言う人の家を襲い、ヤソンを始め信者たちを当局に引き立てました。パウロとシラスはというと他の場所にいたようで難を逃れましたが、彼らの身に危険が迫っていると感じたテサロニケの教会員が彼らを夜の内に他の町に脱出させたという経緯がありました。

逃されたパウロとシラスは、そこからベレア、アテネ、コリントという町々に旅を進めていくわけですが、彼らの心には、常にテサロニケで住み続ける信者たちの身の心配があったのだと思います。なんたって暴動を起こすような人々と共に暮らしているわけですから。実は4:13節以降にパウロが「既に眠りについた人々の復活の希望」を綴る箇所があるのですが、もしかして彼らの中にはその暴動やその他の迫害でいのちを落とした仲間がいたのかもしれません。ですから何とかして彼らを励ましたい。慰めたい。でも、自分たちが会いに行くとまたもや人々が危険にさらされるかもしれないと感じたパウロは、アテネあるいはコリントの町でペンを執りこの手紙を書き送るのです。紀元50年頃のことです。

この手紙の内容は、テサロニケの町に住む信徒たちへのパウロの思いに満ちており、それが感謝や励ましや希望として語られるわけですが、その手紙の結びに「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなときにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と言う言葉があるわけです。しかしこの言葉は今まで申し上げた通りどちらかと言うと、喜べないような状況、祈る言葉さえ出てこない中、感謝なんかできるわけがないと思われる人々に向けて綴られているわけです。

テサロニケの人々の状況を考えてみれば、本来であれば自分たちを導き、福音を語り、共に生きていこうと語っていたパウロとシラスが、暴動によって共に集うことができなくなってしまったという失意、無念。また自分たちも暴動に巻き込まれるかもしれないという恐怖、町の人々への不信。不安、これからどうしていけば良いかわからない。そう、彼らはまさに飼い主のいない羊飼いのような状況にいたのです。そんな彼らがどうして喜ぶことができるでしょうか。どうして祈ることができるでしょうか。どうして感謝することができるでしょうか。それどころかどうやって信仰生活を守っていくことができるのでしょうか。「手引きしてくれる人がなければ、どうしてわかりましょう。」という言葉が他の箇所に出てくるように、私たちは手元に聖書があったとしても自分たちだけではその解き明かしを聞くことができず、その言葉を律法のように受け取ることしかできないことがあるのです。

しかし、そんな彼らに対してパウロは語るのです。「大丈夫だ。何故ならばイエス・キリストがそんなあなたがたのために与えられたからだ。あなたがたはひとりではない。あなたがたは神の目に留まっているのだ。あなたたちがいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝できるように神はイエス・キリストを与えてくださったのだと言うのです。そしてその主が私たちと共におられるようにあなたがたとも共におられるのだ。つまり言い換えれば、私たちは今は会えない状況にいるけれど、心はイエス・キリストを通して私たちも共にあるのだ、だから喜ぼう、祈ろう、感謝しようということなのではないかと思うのです。

会えないということは寂しいことでもあります。でも、実はそれが問題ではないのです。現代社会はコロナが始まるまでは世界中行こうと思えばどこにでも行けましたが、聖書の時代はそういう世界ではありませんでした。イスラエルの人々はその歴史的背景からも自分たちの住む場所を奪われて、別の場所に住むことを余儀なくされたりすることもあり、いわゆるディアスポラ(離散の民)として、ちりぢりばらばらに暮らしていました。しかし、そういう人たちを一つに結び付けていたものが実は神の言葉、あるいは神の存在、神の希望であるということを聖書は語るのです。

詩編133にはこう言う詩があります。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み。なんという喜び。」これは実はいつも一緒にいる兄弟たちの交わりを喜んでいるのではありません。実はこの歌には「都に上る歌」というタイトルがつけられているのですが、年に一度、エルサレムの神殿で主を礼拝する時に、離散の民がそれぞれの町から上って来て出会い、お互いの無事を確認し、交わりを楽しみ、お互いの歩みを祈り祝福して送り出すという交わりがあるということがなんという恵み、なんという喜びだと言っているのです。苦難は確かにあります。しかし喜びも祈りも、感謝も、すべてが順風満帆に行っているときにできることではない。むしろ、苦しい時だからこそ喜びが必要であり、祈る言葉があり、恵みに感謝することができるのです。

この手紙が「個人」に向けられた言葉なのではなく、兄弟たちという「交わり」に向けて書かれていることにも着目したいと思います。私たちは「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」ということが個人の事柄だと考えてしまうことはないでしょうか。なるほど、確かに信仰は個人的なものですから、その言葉を受け止めるのも個人の出来事です。しかし、この言葉が難しいと思う一つの理由には独りでそうなることを考えるからではないでしょうか。恐らく一人では困難だと思います。でも、会えないけれど通じ合っている兄弟姉妹たちがいることに気付くとき、私たちの心にはやはり温かいものが生まれてくるのではないかと思うのです。わたしは恐らくそのときに、閉じこもっていた心が解放され、新たな歩みに向かうことができるのではないかと思います。パウロの手紙は、そのような愛の手紙として、人々の心に届いたのではないだろうかと思うのです。

もう一つのことです。パウロは手紙の最後で、自分たちのために労苦し、導き戒めてくれる人を重んじ、愛を持って尊敬しなさいと言います。余談ですが、牧師がこのような箇所を取り上げると、まるで自分のことを尊敬するようにと言っているように感じる方もおられるかもしれません。でも私はここで語られている人々の間で労苦している人々と言うのは、その教会に集うすべての人々のことだと思っています。何故ならば、この手紙はテサロニケの「信徒への手紙」であるからです。監督や役員などある一部の人々に宛てた手紙ではないのです。そういう人々を立てて教育していく時間もなかったはずでしょう。この手紙は信徒たちに宛てて書かれているのです。

つまり、すべての人々が主に結ばれた人々であり、聖霊はそのような交わりのただ中に共に働くということです。誰かだけが奉仕をするとか労苦を負うのではありません。それは尊い奉仕に見えるかもしれませんが、やがて追いきれない重荷になり、互いに平和に過ごすことができなくなります。互いに平和に過ごすためにはキリストに在って重荷を担い合うことが大切です。私たち一人一人が主に結ばれた者として、共に生きる人々の間で働くときに、そこには一人一人それぞれの働きの違いがあって当たり前のことですが、平和となりお互いを敬うことに繋がるのではないでしょうか。

14節以降の言葉も同様です。怠けている者たちを戒めること、気落ちしているものを励ますこと、弱い者たちを助けること、すべての人に対して忍耐強く接すること。悪をもって悪に報いることなく善を行うこと。これは大変なことだと思います。誰か特別な人しかできないことのように思えます。しかし、これらもまた私たちが一人一人性格も賜物も違うものたちだからこそ、助け合って支え合ってやっていけることなのではないでしょうか。完璧な人はいません。パウロでさえ自分たちの為にも祈ってほしいと言っています。それは使徒パウロもまた人でありスーパーマンではないということを現わしています。でもそんなパウロが、今は遠くにいるパウロが、今彼らのために自分にできること、つまり手紙を書いて送った結果、この手紙、この思いが多くの人々の心を励ましたのだと思うのです。

確かに「会えないこと」は寂しいことですし離れていると、出来ることは限られます。しかし「心の距離」が近ければ、私たちはやはり結ばれているのです。つまり「私たちは会えなくても共にいる」のです。物理的距離が問題なのではありません。心の距離が問題なのです。パウロがこの手紙を書いた理由は、あなたがたは困難の中にあっても共に主に生かされていることに変わりはないということなのです。そして、その中で助け合って支え合って生きていきなさいということです。

パウロがもし今生きていれば、「神戸教会の信徒への手紙」、或いは「それぞれの教会の信徒への手紙」を書き送るのではないかと思います。私たちはこの教会でお互いに結ばれたものとしてどのように生きるのでしょうか。困難な時はまだしばらく続くようですが、「お互いがいつも喜び、常に祈り、どんなことにも感謝する」ようになるため、自分に与えられている思いを、皆さんと分かち合って参りましょう。主はそんな私たち共におられます。

今日は応答の祈りに引き続き、「神共にいまして」を賛美します。これは葬儀で歌われることが多い歌ですが、実はわたしたちの再会の時まで、神の恵みと守りが皆さんと共にあることを覚える積極的な祝福の意味合いと神への信頼がつづられた歌であります。またその後主の晩餐を守りますが、主の晩餐も主イエス・キリストが再びやって来られることを待ち望み、主の流された血と体を象徴したものを受け取ることで、私たちも自らを分かち合っていくという応答の約束です。今日は、それぞれの場所で守りますが、このような交わりのただ中に主がおられるということを改めて受け取って守って参りましょう。