〇聖書個所 マルコによる福音書 8章27~33節

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 

〇宣教「あなたはわたしを何者と言うのか」

今日の宣教は「あなたはわたしを何者と言うのか」という題でお話をさせて頂きます。この聖書個所を選んだ理由があります。それは先週2月11日に「建国記念の日」があったからです。実はこの日はキリスト教会では「信教の自由を守る日」として記念されています。その理由は、この日が戦前に明治政府が天皇を神格化するために伝説上の神武天皇の即位日を「紀元節」と持ち出し記念した日であり、それが国体という国の在り方と「国家神道」という宗教へと、人々の信仰と生活を規定することに繋がるものであったからです。ですからわたしたちはこの日を過去の教訓と踏まえて、「信教の自由を守る日」として守り、再び「信教の自由」を認めない空気が作られることがないようにこの日を覚えることを大切にしているのです。本来であれば先週このテーマを取り上げたかったのですが、コロナ自粛に関連して違うテーマを取り上げましたので今日の礼拝でこのことを考えたいと思います。しかしながら、今日はこのテーマを政教分離や信教の自由という観点で取り上げるのではなく、私たちの信仰について、「あなたはイエス・キリストを何と告白するのか」というポイントで読んでいきたいと思います。何故ならば「信教の自由」とはあなたが何を信じても自由だという一方で、「あなた自身が信じているものは何か」という内実そのものを問うものであるからです。

聖書個所を読んでいきましょう。イエスさま一行がフィリポ・カイサリア地方に出かけられたときのお話です。フィリポ・カイサリアとはローマ皇帝カエサルの名がつけられた町でしたので、簡単に言ってしまえば、ローマ風の異教の神殿がたくさんある町であったのでしょう。イエスさま一行は、その地方を歩いて回るうちに、恐らくその町々に住む人々の神殿礼拝の姿や信仰生活、あるいはそれに基づく日常生活などを見かけられたのだと思います。信仰というものは信じる者の生活や生き方に反映されるものです。イエスさまの目にはその町の人々の信仰がどのように映ったのかはわかりませんが、イエスさまは唐突に弟子たちに質問します。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」しかしその後すぐに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問いかけておられることから考えると、恐らくイエスさまは人々の意見を気にしていたのではなく、むしろ「あなたにとっての私は何者か。」「あなたにとっての信仰生活とは何か?」を問いかけているように聞こえるのです。

それでは皆さんはイエスさまにこのように問われたら何と答えますか?これが今日のポイントです。あなたはイエスさまを何と答えますか?もし仮に私がイエスさまに面と向かって「あなたはわたしのことを何者だと言うのか」と聞かれたら、心底ドキッとすると思います。何故ならば、答えるためには、私個人のイエスさまについての理解、イエスさまをどのように信じているか、或いは私がイエスさまに期待していることなどが全て明るみに出されるからであります。別にイエスさまにですから隠す必要はないのですが、なんとなく恥ずかしく思います。でも、やはりそれを考えることはとても大切なことです。

イエスさまはあなたがたと言い、弟子たちという複数に語り掛けていますが、恐らくは一人一人個別に聞きたかったのではないかと思います。でも、こういう時は決まって筆頭弟子のペトロが代表して答えます。「あなたはメシア(救い主)です。」恐らくこれはペトロだけの意見ではなくて弟子たちの総意であったと思います。ところがイエスさまはこの答えを聞いてそれが当たっているとか間違っているとかそういうことは言われません。ちなみにマタイ福音書だと、イエスさまはこう付け加えています。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを示したのは、人間ではなく私の天の父なのだ」と言い、「わたしはこの岩の上に私の教会を建てる。あなたに天の国の鍵を授けよう。」となって行くので、「メシア」という答えが正解だというふうに思います。ところがマルコではそうではなく、「自分のことを誰にも話さないように」と弟子たちを戒められるだけで終わるのです。なぜイエスさまは他の人に言わないように戒めたのでしょうか。イエスさまの神の国の福音宣教のためであれば、「イエスさまこそメシアである。町の人々が勘違いして噂しているような洗礼者ヨハネやエリヤ、他の預言者ではなく、イエスさまこそメシアなのだ。」と伝えればよかったのだろうと思うのです。

でも、イエスさまはそれを止めるよう戒めています。何故でしょうか。祭司長や律法学者たちに知られることを恐れたのでしょうか。そうではないと思います。何故ならばイエスさまはその後すぐに彼らから排斥されて殺されることを告げているからです。うわさが少し早く拡がったとしても結果は同じです。イエスさまは文脈上復活のことにも言及しておられるので、ポイントはそこではないと思うのです。

私はイエスさまが「自分がメシアである」という言葉だけが独り歩きすることを恐れたのではないかと思うのです。もしイエスさまがメシアであるという噂だけが人づてに広がっていったらどうなるでしょうか。恐らくイエスさまを見たことのない人も、イエスさまをメシアと呼び求めて来ることでしょう。しかしその時群衆がイエスさまに見ている「メシア」とは、一体どういうイメージになるのでしょうか。

ペトロは言いました。「あなたはメシアです。」言葉としては確かにその通りです。しかしペトロの見ている「メシア像」というものは、イエスさまが十字架に架けられ殺されるとはっきりと話したときに、イエスさまをわきに連れて諫めた姿にはっきりしています。ペトロのメシアという言葉に込められている思いは、イエスさまが王さまとなってユダヤを治め、ローマの支配から脱却し、本当の神の国を作る勝利のメシアの姿であったということです。しかしそのメシア像はイエスさまが歩まれた道とは違うことでありました。むしろイエスさまの歩まれたメシアの生き方とは、小さくされた者たちと共に生き、十字架に架けられ血を流される救い主、そして人々の罪の赦しを神に乞いながら殺される救い主であったのです。同じ「メシア」と言う言葉でも、その内容の意味するところは違うのです。

もしかしてイエスさまがここで弟子たちに自らがメシアであることを言ってはならないと言われた理由は、ここにあるのではないかと思うのです。つまり、イエスさまと会ったこともない人が「メシア」という言葉だけで私を求めるようなことはさせないようにしなさい。むしろ私は人々と直接出会っていくことを大切にしているのだ。出会っていく中で、私のことを自分の言葉で告白することこそ大切なのだ。そしてその信仰に生かされていきなさいということなのではないかと感じるのです。何故ならば信仰とは、その救い主のイメージを信じることではなく、まさに出会いの中で私たちの中に立ち上がってくる出来事であるからです。

残念ながらペトロはイエスさまのそばにいても、それに気づきませんでした。ペトロが持っていた「メシア像」はイエスさまを見て出てきた言葉ではなく、自分の中で理想化された「メシア像」であったからです。でも、それはもしかしてペトロだけの問題でなくて、これまで彼らが教えられてきた「聖書」の中から出てきたイメージであったのかもしれません。メシア到来を祈り求めていた文化の中で生まれ育ったペトロが「メシア」と言えばそういう力強い救い主だと思ったのも無理はありません。しかしイエスさまはそれに明確にNOと言っています。それどころかその後ペトロを叱って「サタンよ、引き下がれ!」と命じています。実はこの箇所は、岩波訳聖書では「サタンよ、私の背後に失せろ」という言葉で訳されています。ここでイエスさまがペトロを叱ったのは、イエスさまご自身を見るのではなく、イエスさまに自分の理想を見て、偶像礼拝をしてしまっていたからです。

私たちにもあるのではないでしょうか。私たちも時々ペトロのようにイエスさまを見ているようで、実はイエスさまを見ておらず、これまで教えられてきたイエスさま像を見ているということがあるように思います。聖書を読んでいても聖書に書かれているイエスさまの姿に思いを向けるよりも、よく教会の中で語られるイエスさま像に心を取られてしまうことがあります。しかしそれは自分の中で、あるいは教会の中でイエスさまを理想化してしまうことであり、イエスさまを偶像にしてしまうことでもあります。「サタンよ、私の背後に失せろ。」これは、イエスさまを差し置いて私たちが前に出てしまうことがあることを注意している言葉です。むしろ私たちはイエスさまの歩みと言葉にしっかりと目を留めていくことが大切なことだと感じるのです。

さて、再びこのテーマに立ち戻りたいと思います。私たちはイエス・キリストを何と告白するでしょうか。私たちも時々、自分の信仰の内実を考える時が必要です。例えば、わたしたちはバプテスト教会ですから、自覚的な信仰を告白し皆さまの前で表明します。その際、「わたしはイエスさまをキリストと信じます」と答えることはできるでしょう。しかしその時の「キリスト」とはどういう意味になるでしょうか。私たちは長年教会に通っていると、イエスさまを「キリスト」であるとか「救い主」とか「真の羊飼い」とか或いは「愛してくださる方」とか、聞いて覚えた言葉で答えを得た気になることがあります。しかしそれは時に、自分自身の言葉でイエスさまを告白することで見えてくる内実を隠してしまうことがあります。

イエスさまは「あなたはわたしを何者だと言うか」と言います。一人一人の言葉で自分をどのように告白するかが問われていると言えるでしょう。さて、あなたはイエス・キリストを何と告白しますか?

何故ここまでこのことを強調したいかというと、やはり私たちの信仰は、この生きている社会の教えの中で時々変質して行ってしまうことがあるからです。私たちはイエス・キリストを主と告白して生きることを選び取ってクリスチャン、キリストを信じる者となりました。それはイエス・キリストを主人とし、その教えに従っていきるということでもあります。従うという言葉に違和感を持つ方もおられるかもしれません。しかしイエスさまの言葉に生かされるということは、その言葉に生きるときに感じることであります。ところがイエス・キリストを信じているとは言っても、この社会の中で生きているうちにその教えから少しずつ離れて行ってしまうということがあります。イエスさまを主と告白するということは、イエスさま以外のものを自分の主人にしないということであるはずなのに、なかなかそうはできないというものも人間です。

自分で言っておいてなんですが、実は今私自身、このことを非常に強く問われています。私はイエス・キリストを信じてクリスチャンとなり、主に仕えていきたいと願い西南学院神学部に入学し、卒業後の今はこの神戸教会で牧師となって8年目が終わろうとしています。そんな私にとって、イエスさまが私の人生の導き手であり守り主であることは確かです。しかし、その教えに自分自身が心の底から身を置いているかというと、やはりハイと言い切りがたいというのが正直なところだと感じています。

本音で言うと、イエスさまの教えを聞きながらも「それに従うのは難しいよね」とか「それは信じたいけれども信じきれない自分がいる」ということを感じることがあるのです。牧師失格かもしれません。でも、そんなときに聖書を改めて読んでみてイエスさまの姿に心を留めたとき、イエスさまは改めて自分自身の信仰とは何かを問いかける言葉や出会いを与えてくださるのです。そしてその時にイエスさまは再び私に「希望」というものを示してくださるのです。

この礼拝の宣教を聞いておられる一人一人にもいろいろな状況がおありだと思います。もしかしてわたしと同じような状況の方もおられるかもしれません。そんな方には是非、自分の言葉でイエスさまを告白することをチャレンジしてみていただきたいと思います。何故ならばその時に、自分自身が本当にイエスさまに願っている思いが出てきて、イエスさまがまさに生きて働いてくるように感じるからです。信仰とは覆い隠されたもの、或いは着飾ったものなのではなく、心の本音の部分で感じることができる恵みであります。その時、まさにイエスさまへの信仰によって生かされているということを改めて実感することができるのです。