〇聖書個所 創世記22章1~2、6~8節

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

 

〇宣教「主の山に備えあり ~葛藤と祈りの中での神との対話~」

皆さま、改めまして新年、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。皆さまの新しい一年の歩みの上に主の伴いと主の守りと恵みがありますようにお祈りしております。教会に来られている方々もオンラインで礼拝をしている皆さまにお会いしたところと思いますが、今日のところは教会を代表して私から新年のご挨拶を申し上げます。

今年一年はどのような一年になるのでしょうか。私たちには皆目見当がつきません。私たちは新年になると神の祝福と守りを祈り求めます。しかしそれを祈るのは、やはり同時に先行きの見通せない不安があるからだと思います。毎年必ず思っても見ない色々なことが起こっています。何十年かに一度の災害とか、史上最強の寒波とか例年と違う環境の変化にもう驚きもしなくなっています。恐らく今年もまた何か起こるのでしょう。また、この年始もオミクロン株の市中感染がじわじわと進んできている中で迎えています。3年目を迎えたコロナ禍ですが、昨年の元旦礼拝のときには、まだまだ流行は収まらないだろうと推測していましたが、まさか一年52週の内、22週、およそ5分の2の日数を緊急事態宣言、まん延防止等重点措置という中で過ごすことになるとは思いませんでした。

今年もどうなっていくのかまだまだわかりません。でも私たちがわかっていることは、どのような困難な状況にも神さまが共におられるということです。私たちはこのクリスマス(キリスト教の暦では1/6日までが降誕節)に、イエス・キリストの誕生により神の到来が始まったことを確認しました。クリスマスイブでクリスマスが終わってしまうのではなく、そこから始まっていくのです。ですから、キリスト教では、クリスマスから新しい一年が始まると言ってよいのです。そして今私たちは神と共に歩み始めたばかりです。

クリスマスの誕生ストーリーはやはりわたしたちに象徴的です。神の御子が生まれた場所はベツレヘムでしたが、その誕生は羊の群れの番をしていた羊飼いたちや遠い東の国に住む博士たちに知らされました。彼らに共通することは、彼らは救い主を探し求める旅に出かけたということでした。しかしその旅の果てに救い主にまみえるのです。言いかえれば、神は旅路を歩む私たちのただ中に生まれるわけです。わたしたちは安住にこそ平和を感じるわけですが、荒波の中でも神が共におられるというその約束こそが本当の平和であるということなのです。

昨日わたしたちは元旦を迎え、新しい一年の歩みを始めました。これからどうなっていくのかはわかりません。しかし神はそんな私たちのただ中に伴い、言葉を与えてくださっているのです。このことを確認し、希望をもって一年を歩みだして参りたいと思います

さて私は今、神が共におられるということにこそ、神の平和があるということをお伝えしました。しかし、神がおられるのならば、なんでこんなことが起きるのかということも、やはり私たちには起こります。そんなときに、神が共にいてくれるというリアルはどのように感じることができるのでしょうか。今日はそのことを創世記22章の俗にいう「イサク奉献」という出来事から見ていきたいと思います。

アブラハムと言う人物は、聖書の中でとても重要な存在です。神が彼に語り掛け、彼がその言葉に従ったことから、この旧約聖書の物語はスタートしています。創世記12章1節にはこうあります。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。」神はこの言葉の後にアブラハムに2つの約束をしています。それは、子孫繁栄と土地の授与でした。アブラハムは神の言葉に聞き従って生きましたが、なかなかこの約束を果たされることはありませんでした。アブラハムが神の言葉を聞いて歩みだしたのは75歳の時でしたが、神がこの約束を果たされたのはアブラハムが100歳を過ぎてからのことであったからです。神の約束が与えられていたのに、25年もの年月が流れたわけです。そしてアブラハムも妻サラもまたこの約束はどうせ無理だと思った時期もあったわけです。

これはもう当然だと思います。彼らの胸中は察するに余りあります。「神さま、いつですか。まだですか。もう子供を産むどころじゃなくなってしまう。早くしてください!でも、それがかなわないなら、期待を持たせるようなことは言わないでください。諦めさせてください。でも、もし適うなら早くしてください。」このような堂々巡りが恐らくは25年間、ずっと彼らの心にあったのだろうと思います。神は何故このアブラハムの祈りを聞かれなかったのでしょうか。神はアブラハムを見捨てていたのでしょうか。そうではないと思います。創世記を呼んでいただけるとすぐにわかることですが、神はその間もずっとアブラハムと共にいて、彼の歩みを守っていたからです。約束が果たされていないにもかかわらず、神は共におられたのです。

しかし、面白いと思うことがあります。と言うのは、やっとのことでその約束が果たされて息子イサクが生まれました。アブラハムとサラは喜びに包まれたことは想像に難くありません。でも、実はイサクは創世記21章で生まれましたが、今日の22章ではもうすでにイサクは少年になっているのです。21章の内でどれくらいの時間がたったのかはわかりません。しかし、私が思ったことは、約束が果たされたとき、アブラハムはすぐに神を忘れてしまったのではないかということです。 実は21章にはイサクが生まれた後で、ハガルとイシマエルを追い出すというお話があります。それは後継者を決めたということです。そしてアビメレクとの契約というお話があります。これは他の民族と友好条約を結んだということです。ですから、アブラハムにとって、一部問題は残っているものの初めて訪れた安泰の時だと言えるのです。しかし、そうなったとき、人は神を求めなくなるのです。もう祝福が与えられたものだから、神に祈り求めなくなるのです。私たちにとっては、一番良いと思う時かもしれません。しかし、その時、わたしたちは神を必要としなくなり、祈ることもなくなってしまうのかもしれません。

そんなとき神は、アブラハムの人生でもっとも恵まれているときに「イサクを献げよ」と言うのです。アブラハムからすれば、まさに青天の霹靂です。神に従うことは彼の世界そのものであったと言えます。神が守ってくださったから、彼の歩みが守られてきたわけです。しかし彼はその世界から裏切られる格好になったのです。彼のこれまでの神の確信なんてものはガラガラと崩れ去ってしまうかのようなものです。神が与えてくださった子どもを焼き尽くす献げものとして神に献げる?何を言っているのか、よくわかりません。もしこれが神の試練であったとしたら、こんな残酷でひどい話はありません。自分の最も大切にしているものを神に献げなさい。ましてそれが人のいのちである。あり得ません。もしわたしたちがそう言われたらどうするでしょうか。

アブラハムはその問いかけに何の反応もせず、次の日の朝早くに準備をして息子イサクと共にモリヤの山に向かいます。三日間の道中、彼の心にはどんな思いが沸き起こっていたことでしょうか。何も言えなかったのではないでしょうか。彼はただ純朴に父についてくる息子にどんな思いで接していたのでしょうか。神を息子と逃げるということだって考えたと思います。それを神は願っているのではないかとも考えたかもしれません。子どもの代わりに自分が犠牲になることはできないかと考えたかもしれません。頭の中はぐちゃぐちゃ、あぶら汗が吹き出しそうなくらいだったと思います。でも、彼のその奥底の気持ちは、子イサクに問われたその応答の言葉にあります。「わたしの子よ、焼き尽くす献げものは、きっと神が備えてくださる。」応えるのも必死だったと思います。しかし、この「きっと」と言う言葉に私たちの祈りがあるのです。その間際まで、神の助けは現れず、彼はイサクを縛り薪に載せ手をかけようとしました。しかしそのギリギリの状態まで祈り続けた時、彼は天使の語り掛けを聞いたのです。

このお話は、その後雄羊が見つかり、イサクの代わりに献げられるという顛末になっており、「主の山に備えあり」という言葉で締めくくられていますが、しかしこの物語はイサクを捧げなくてよかったね。アブラハムの信仰はすごいねでは終わりません。神が何故こんなことをアブラハムにさせようと思ったのかはわかりません。またアブラハムが最後までその言葉通りに果たそうとしたから良かったということでもないと思います。では何が大切なのか。私は祈ることじゃないかと思います。私はアブラハムが神の呼びかけを聞いたそのときから、その顛末に至るまでアブラハムは神との深い対話の中にいたのではないかということです。そして、アブラハムはまさに最終場面に行きながらも諦めていなかったということです。神がおられるのであれば「きっと」というところに、神は応えてくださる方であると思うのです。

アブラハムは恐らく、この出来事を通して神に祈ることの大切さを身をもって知ったのではないかと思うのです。神は「わたしの声に聴き従った。」だから「あなたは祝福を得る」と彼を称賛しますが、それは無条件に従うことが大切だということでは決してありません。祈りなのです。神への祈り、神との対話、そのときに私たちは神の守り、神の恵み、神の導きを受けるのだと思います。

祈りは必ず聞かれる。その祈りは私たちが葛藤と苦しみの極限の状態であったとしても、それが着々と現在進行形で進んでいたとしても、神は必ず聞いてくださるということです。

「主の山に備えあり。」これはわたしたちがその山まで行かなければわからない言葉です。しかし主が与えてくださる出来事には、必ず、神の守りがあります。それがイエスさまによって今私たちに与えられていることです。この約束を心に留めて、歩み出してまいりましょう。