〇聖書個所 マタイによる福音書 17章14~20節

一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

 

〇宣教「信仰のない時代、祈りによって生きる」

今日の宣教は平行記事であるマルコ9章14-29節と合わせてお話をします。聖書をお持ちの方はマルコも開きながら宣教に心を向けてくださると幸いです。今日の箇所は先週の『キリストの変容』に続く箇所です。ラファエロの「キリストの変容」の絵画で言えば下の部分にあたります。この絵を見ても、イエスさまがモーセとエリヤと共にいる天上世界に比べて、地上世界は混乱と論争に明け暮れ、誰も救い主であるイエスさまを見ようとしていない現実があることを思わされます。まさに罪びとの世界です。

イエスさまが山の上で変容していた時、御許に招かれたペトロとヤコブ、ヨハネの他の残された弟子たちの元には、てんかんの症状に苦しむ息子を癒してほしいと願い出る父親の姿がありました。この絵で言えば、右側に息子と父親がいます。てんかんという病気は、現在では脳神経系の病気として認識されていますが、昔はその発生の原因もわからず、しかもその直前まで元気でいたのに突如としてパタッと倒れることから、悪霊の仕業であると考えられていました。しかも火の中水の中に倒れるわけですから深刻です。命の危険を感じます。この父親は息子を守るために癒しを求めて、それこそ色々なところに出かけて行っていたのだと思います。マタイ福音書には長い間出血が止まらずに苦しんでいた女性の話がありますが、この父親と息子の姿はそれと似ています。病気の治療を求め、助けてほしいと願っても癒されることなくかえって悪くなり、お金も使い果たし、恐らくは家族やその周りの人々との関係も悪くなり心が傷ついている中で、藁にも縋る思いでイエスさま一行の元にやって来たのではないでしょうか。父親の息子への愛情が感じられます。

ところが、その時イエスさまはそこにはいませんでしたので、代わりに弟子たちが癒そうとしたわけです。ところがこの弟子たちはその息子を癒すことができませんでした。実は私はこれが不思議だと思うのです。何故ならば、弟子たちはマタイ10章の時点でイエスさまから「汚れた霊に対する権能」を授かっていたはずです。そして弟子たちは方々の町や村に出かけていって人々を癒す働きをすでに行っていたはずなのです。ですから彼らは悪霊の追い出しも癒すこともできたはずなのです。

しかし彼らはここではそれができなかったのです。なんでできなかったのでしょうか。気になります。実はマルコ9章ではここに律法学者たちも来ていて議論していたようです。恐らくはなんで癒せなかったのかということについてでしょう。恐らくラファエロの絵では、このマルコのシーンがクローズアップされているのだと思います。でもその議論は、父親と息子の癒しのためではなく、むしろ自分たちが何故癒せなかったのかという論点、つまり彼らの立場などを守るためであったような印象があります。19節には弟子たちがひそかにイエスさまのところに「なんで癒せなかったのか」と聞きに来るシーンがありますが、この「ひそかに」という言葉に彼らがまさしく自分たちの立場を取り繕うとしているのがわかります。

さて、そんなときにイエスさまが山から帰ってきました。父親はイエスさまに跪いて言います。「主よ、息子を憐れんでください。お弟子さんたちのところに連れてきましたが、治すことができませんでした。」父親の言葉を聞いたイエスさまは言います。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」この言葉は厳しい言葉です。イエスさまは誰に対して言っているのでしょうか。父親の不信仰を言っているのでしょうか。確かに父親は跪いていますが、これは「懇願する」とか「敬意を払う」という意味がありますが、よく聖書にある「ひれ伏す」とか「礼拝する」という単語ではありません。「主よ」と言っているものの、信仰告白、つまりイエスさまならば何でもできますということではなく、まさしくマルコにあるように「おできになるのでしたら癒してください」という願望的なものなのであったのだと思います。それに対しイエスさまは「できればというのか、信じる者には何でもできる」と言います。彼は言います。「信じます。信仰のない私をお助け下さい。」確かに篤い信仰とか堅い信仰と言われたら、そうではないかもしれませんが、でも「イエスさまならおできになるかもしれない」というところに希望をかけるのは「信仰」とは言えないのでしょうか。私たちはどのような信仰を持っているでしょうか。

或いはイエスさまは弟子たちに向けて「信仰のない時代」と言われたのでしょうか。イエスさまは癒せなかった弟子たちに憤りを覚えていたのでしょうか。私にはそうは思えません。何故ならば、彼らがイエスさまに与えられた権能を用いて息子を癒そうとしたことは信仰のなせる業だと思うからです。ここでの不信仰な態度というものはむしろ癒そうとしない、イエスさまに与えられた権能を信じないことだと思います。私に彼らには信仰はあったと思うんです。でも、確かに癒せませんでした。じゃあやっぱり信仰の大きさが問題だったのでしょうか。イエスさまは彼らになんでできなかったのかと言われたとき「信仰が薄いからだ」と言っています。そう言われると不信仰な私たちとしてはぐうの音も出ないわけですが、でも信仰がないとは言われていないことに少し慰めを感じます。しかしそれでももっと大きくて強い信仰を持っていれば癒せたのでしょうか。

確かに揺るがない堅い信仰がある人が奇跡を起こせるイメージはあります。でも、イエスさまはその後続けてからし種の信仰さえ山をも動かすことができると言われています。からし種とはおよそ聖書の世界で最も小さいものの譬える言葉です。からし種の信仰があれば、ということですので、信仰の量や強度の問題でもなさそうに思います。彼らだってからし種くらいの信仰は持っていたのではないかと思うのです。それとも薄い信仰とはからし種一粒よりも小さい信仰のことなのでしょうか。

でもそれなら果たして信仰とは何なのかと思います。多分、イエスさまが信仰という言葉に込めている内実こそが大切なのだと思います。イエスさまは私たちに信仰とは何かを考えさせようとしているように思うのです。

信仰という言葉は、ギリシャ語ではピスティスで、信頼とも訳せます。日本語では信仰と信頼は違いがあります。信仰とは一般的に神仏に対して寄せられる無条件の信頼です。信頼とは人や物事や情報に対して使う言葉で、無条件ではないものの正確なものとして自分が頼りにできると思ったものに対して使う言葉です。しかしギリシャ語にはその違いはありませんので、「信」とだけ表す聖書もあります。イエスさまは続けて「よこしまな時代」と言われました。「よこしまな」と言う言葉は、ギリシャ語では「邪悪な、腐敗した、曲がった」という意味です。ですからイエスさまが言われた「信仰のない、よこしまな時代」というものは、父親や弟子たちの信仰のなさを憤っているわけではないのです。むしろ本来の曲がっていない時代というものは、私たちは神という存在を無条件に信じて神の恵みと守りの中を生きていけるはずなのに、私たちが生きているこの時代は、無条件、或いは条件付きでも信頼できる存在がない、まがっている時代であるということです。つまり、イエスさまはここで人々のために嘆いているのです。ですから私はイエスさまはこう言いたいのではないかと思うのです。「今、私はこの世にメシアとして存在しているのに、何故あなたがたはわたしを求めに来ないのか。何故、自分の力でこの息子を癒そうとしたのか。私を呼んでくれたらすぐに問題は解決したのに。」だからイエスさまは「その子をここに、私のところに連れてきなさい。」と言って、すぐに子どもを癒されたのです。つまり、「私を信じなさい。安心しなさい。わたしはあなたがたを一人にしておかない。私は世の終わりまであなたがたと共にいるためにここにきたのだ」というメッセージに受け取れるのです。

さてこのように考えると、イエスさまが弟子たちに願っていたこと、或いはイエスさまが思う信仰のある態度というのは、恐らく私たちが堅い信仰を持って強い信仰を持ってやっていくことではないのではないでしょうか。私たちはこの言葉からそれを求められているように思ってしまうのですが、むしろ私たちが信仰の土台であるイエスさまを求めてイエスさまの言葉に聞いてやっていくということをイエスさまは求めておられるように思うのです。

もしそうだとすると、17節のイエスさまの言葉を言い換えれば、このような慰めとして響くのです。「あなたたちは、なぜ私がいるのに私の助けを求めようとしないのか。自分で頑張るということが美徳とされているけれども、それは曲がったよこしまな考え方だ。あなたはいまや神の守りの中にあるのだ。だから安心して私を求めなさい。今わたしがいる時に呼び求めなくては、わたしが去って行ってしまった時にはいったいどうなるのだろうか。私が山の上に行っても天の国に帰っても、わたしはあなたがたと共にいるのだ。だから安心して私を求めなさい。」

このようなメッセージとして聞くと、私は信仰的な態度というものは「彼らが自分たちに与えられた権能によって癒すこと」や強い信仰によって生きることではなく、「常にイエスさまの助けを求めること」すなわち、「祈り」なのではないかと思うのです。恐らくこの時弟子たちは、自分に与えられた権能だけでなんとかなると思い、イエスさまの助けを求める「祈り」をしていなかったということなのではないでしょうか。これが恐らくイエスさまが嘆いた彼らの不信仰的な態度でありイエスさまに対する不忠実な姿勢なのです。

でもそれが薄い信仰というもの、ペラペラな信仰だと思うのです。根差すところがない、或いはイエスさまに根差さず自分に根差している信仰です。だからイエスさまは私たちに「からし種の信仰」を持ちなさいと言うのです。先ほどからし種というものは最も小さなものを現わす言葉だと言いました。しかしこのように考えると、からし種の信仰とはしっかりイエスさまに根差す信仰だと思うのです。からし種の種のような信仰をイエスさまという土壌に蒔いたとき、その種は芽生え育ち、どんな大きな木よりも広がり、空の鳥が巣をつくるほどに成長すると言うのです。

「わたしが植え、アポロが水を注いだ。しかし成長させてくださるのは神である。」という言葉もありますが、私たちの信仰は神に根差すことによって、成長させられるものなのです。それは、他の譬えではイエスさまが「わたしはぶどうの木。あなたがたはその枝である」と言われたように、わたしたちがイエスさまに結ばれていくときに与えられる信仰なのです。信仰とは私たちが強くするものではありません。わたしたちだけでやっていくものでもありません。イエスさまとの出会いの中で結ばれていくものなのです。からし種とは確かに小さい種です。でもそれがあれば、山に向かってあそこに移れと言っても、それはその通りになるというのは、イエスさまが共におられるからです。山とはここでは自分たちが向かい合う大きな課題であろうと思います。一見無理だろうと思うことです。どんなに頑張っても難しいだろうと思えることです。しかしそれを自分だけでやろうとするのではなく、イエスさまの伴いの中で、御言葉を頂いて歩んでいく時に、その山は必ずや動いていくのです。それは、私たちの信仰が大きいからとか強いからということではなく、すべては神の恵みによる奇跡になるのです。

マルコ福音書では、イエスさまは最後に「この種のもの(悪霊)は祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と言っておられますが、つまり私たちの歩みを支えるものは神との関係、つまり祈りそのものなのだというのです。

祈りはただの言葉ではありません。魔法や呪文でもありません。私たちの心が向けられる神との対話の時であり、その関係によって本当に私たちの心を支え希望を強くし、困難の中でもあきらめない勇気を与える力になります。それはわたしたちが一人ではないということを改めて感じる時であります。私たちは祈っても無駄だと感じてしまうこともあります。しかし、この父親が「できれば」とイエスさまに願った声にイエスさまは耳を傾けその「不信仰の信仰」を認めたわけです。その信仰はその対話の中で、あるいは出来事の中で、この父親の信仰は薄い信仰からまさしくからし種の信仰へ変えられていったのだと思います。私たちもまた信仰のない時代を歩んでいます。しかし救い主は私たちに既に現れ、共に生きていこうと招いてくださっています。この神の御業を心に留め、見上げつつ、この時を感謝と賛美を持って歩んでまいりましょう。