〇聖書個所 マタイによる福音書 16章21~28節

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 

〇宣教「自分の十字架を背負ってイエスに従う」

イエス・キリストは弟子たちに3回、自分がエルサレムで長老や祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されること、しかしその三日目に復活するということを伝えています。その一回目が今日の箇所、二回目はマタイ17:22-23、三回目は20:17-19にあります。その三回の内容には違いがありますのでそれぞれの意味があると思いますが、この三回という数にも何らかの意味がありそうです。これらの聖書個所を受けて聖書学者たちの中では、果たしてイエスさまは自分が殺されることを知っていたのか、それとも福音書記者が後からイエスさまが十字架を予見していたことを付け加えたものであったのかという議論が起きています。私たちはこの箇所をどのように受け止めているでしょうか。今日はわたしがこの箇所から受けたメッセージを宣教としてお話ししたいと思います。

まずイエスさまはこう言っています。「わたしは必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、」この必ずという言葉には、単なる「100%とか義務、強制」ではなく、「避け得ない必然の出来事、神の定め」という意味があります。この発言の中では「必ず」は一回しか出てきていませんが、文脈で考えると「エルサレムに行く必要があり、長老、祭司長、律法学者から受ける多くの苦しみが避け得ない出来事であり、しかしながら神の定めとして三日目に復活する」ということでしょう。何故、イエスさまはこの時からそれを話し始めたのかについては、今日の直前の20節に「ご自分がメシアであること」を弟子たちに始めて明かされたからだと思います。

つまり、イエス・キリストのメシアとしての働きの一つが、受難の出来事であったということです。でも、ここにはまだ「十字架で」という言葉は出てきていませんので、それが「人々の罪の贖い、あるいは身代わりのため」ということにはすぐには繋がりません。ここでは長老、祭司長、律法学者から苦しみを受けるとはどういうことか考えたいと思います。前にお話ししたように、祭司長はユダヤ教の二大派閥の一つのサドカイ派です。そして律法学者はもう一つの二大派閥のファリサイ派です。それでは長老とは何かというと、年長者という先祖からの教えを受け継いできた人々であり、民の代表者です。ですから、イエスさまはここで社会の中心的な人々、その社会を造り上げていた人々から苦しみを受けるのだと打ち明けたのです。この「打ち明ける」は、「必ず起こる神の定めの出来事を明らかにすること」です。この言葉は、「神の啓示」、神が隠されたことを明らかにする「アポカリプス:黙示」とは違う言葉ですが、ここでは同じ意味として、それが隠されたメシアの働きであると読むことができます。

さてメシアが苦しみを受ける、しかも社会から打ち捨てられると聞くとどうでしょうか。やはりそれは私たちの思い描くメシア像とは違うのではないでしょうか?私のイメージではメシアと言えば救い主です。社会から打ち捨てられるのではなくむしろ社会のトップに立ち、社会を守り、困難の中にいるすべての人々を強め、慰め、立ち上がらせるための働きを期待します。今私たちの国でも、政権与党の総裁を新しく決めるというニュースが毎日流れています。多くの人の関心は、誰がリーダーになってこの国を立て直すか、人々の生活を守るかということだと思います。そんな時私たちはやはりメシアの登場を期待するわけです。しかしイエスさまは、メシアは社会に殺される、それがメシアの働きだというわけです。そんなこと聞いたら、弟子たちは不安にならないわけありません。

ペトロはここでイエスさまを厳しく諫めています。厳しく諫めたとは、「しかりつける、厳しく命じる、警告する」という言葉です。上の立場にいる人が下の人に使うような言葉です。ペトロがイエスさまをわきへお連れしてというと丁寧な表現に見えますが、実は彼はイエスさまを自分の方に引き寄せたわけです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」これは直訳すると「主よ、神の恵みがあなたにありますように」です。つまり「主よ、神の恵みによってそんなことは起こるはずはありません」という意味です。しかし、イエスさまはこの言葉に対して「サタン、引き下がれ」と言われるのです。

私たちも同様ですが、同じ「メシア」という言葉を使っていたとしても、そのイメージはそれぞれだと思います。ペトロのメシア像は、恐らくエルサレムに行ったイエスさまが、恐らく人々の歓迎を受けてその教えや奇跡が多くの人に受け入れられて王座に座り、神の国が実現して行くメシア像を信じていたのでしょう。だからイエスさまが全く違うメシア像を語ったとき、それを受け入れられなかったのです。イエスさまのメシア像とは、まさにそのような社会に打ち捨てられていた人々のメシアとなり、伴うために共に打ち捨てられることであったのでしょう。

イエスさまはペトロにこのように言います。「サタン、引き下がれ。」引き下がれの部分について、岩波訳聖書は「私の背後に失せろ!」と訳します。つまり、イエスさまより私たちの思いが先に出てしまうことをイエスさまは忠告しているのです。確かにイエスさまを差し置いて神を語ることは熱心なように見えて、実は観念的であり偶像礼拝であります。でも私たちもそのようなメシア像を持っているのではないでしょうか。救い主、優しい神さま、私たちを救ってくれるメシア、そのようなイメージはあると思いますが、イエスさまご自身を差し置いて、私たちが勝手に作り上げてしまうメシア像になってしまうことに注意しなければなりません。私たちは引き下がりイエスさまを見なければなりません。

サタンとは悪魔ですが、その実は「わたしの邪魔をする者」つまり「人に罪を犯させる者」です。ヨハネ福音書ではサタンが入り込むという表現をしますが、ここではペトロがサタンと呼ばれています。先週の箇所で「あなたはペトロ、私はこの岩の上に教会を建てる」と言われた人とは思えません。何故ペトロは人に罪を犯させるものと呼ばれたのでしょうか。それはやはり彼が持っていたメシア像というものは勝利者であり、選ばれしイスラエルの栄光の神であったからだと思います。私たちも同じようなイメージを持っているかもしれません。いつか来る神の国はイエスさまが王座に座り天からやってきて、神を信じる者を救い出すことを期待しているのではないでしょうか。しかし、ここにも書かれていますが、そこで問われるのは、信仰熱心というよりも、人々の行い、つまり神が来たる時まで、どう生きるかが問われているのです。

例えば仮にイエスさまがペトロが願った通りのメシアになっていたとしたらどうなったでしょうか。イエスさまは王に即位し国を運営することになります。いくらイエスさまの教えが神の教えだからと言ったって、その神の国の形は、構造的には人の王国と変わりません。トップに立つものは権力を持ちますが、周りはこのペトロの姿にある様に弟子であっても愚かな人間なのです。それは例えば、カトリック教会がヨーロッパを席巻した時代に証明されています。そこでは神の教えの中にあるはずの教会は腐敗し、その教えから外れた人は市民権が剥奪され、神の名によって社会的に殺されました。それは神の名の元にある人の王国の支配でした。

実際にあったことです。中世には国が多額のお金を使って壮大な教会が建築されました。キリスト教会的には最も華やかな時代、まさに勝利の時代です。ところがどんなに大きな教会であってもすべての人が礼拝堂に入れるわけではありません。そうした時、教会は身分の高い人だけが入れる場所となり、貧しい市民は教会の入り口から中に入ることはできなかったそうです。主の晩餐はすべての人に渡すことができず、目の前で割かれるだけの儀礼的なものになってしまいました。確かに私も、イエスさまに王座についてほしいと思います。しかしそもそもその願いが、やはり制度設計の話になり、イエスさまが言われたように「あなたは神のことを思うのではなく人のことを考えている」という内容になってしまうのです。

それではイエスさまが言われた神のことを思うとはどういうことでしょうか。それは、支配する側に立つのではなく、社会から見捨てられていた人々に伴い、共に苦しむということだと感じます。イエスさまは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」と言いました。この文脈で言えば自分を捨てるとは、自分の理想を捨てるということです。また、自分の十字架とは、よく「自分の罪」、「自分の過去、過ち」と言われることがありますが、そうではないと思います。というのは、罪はまさに自分自身のものでしかないからです。では、イエスさまが背負った十字架というのは、自分の罪の為だったのでしょうか。そうではありません。むしろ十字架は背負わされるものなのです。誰も背負いたくないものであり、他者から背負わされるものであるのです。つまり、イエスさまがここで言っているのは自分の十字架とは、本来なら他者が担う十字架であり、他者の重荷であります。つまり「自分のために生きるのではなく、他者の重荷を背負いなさい。そうしたときに、あなたはまことの命を得るのだ。」このように言っているように思えるのです。

私たちは自分の命の充実を願う者です。誰も自分の命を失いたいとは思いません。自分の命は守りたいと思います。しかしコロナ禍の中で本当に感じますが、自分の命だけを本当に守って生きる時、それは誰とも会わないということになります。しかし、そのような中で生きている私たちは本当に生きているのでしょうか。生物学的には生きているのでしょう。しかし生かされているという実感にはならないのではないかと思います。人は独りで生きていくものではないからです。現に私たちは一人になることで心にも体にも不調を感じています。私たちはやはり他者との関わりの中でこそ、本当に生きるものになるのです。だから、イエスさまは私たちに「自分を捨てて、自分の十字架、つまり他者との関係の中で他者の重荷を背負って、私に従ってきなさい。」と言われているのです。

私は今日のこの箇所からそのようなメッセージを頂いたとき、昨日のニュースを見ました。昨日は同時多発テロの起きた9.11から20周年でした。そしてアメリカ大統領がツイッターで国民に対し団結を訴えたようですが、テレビの前で雄弁に語ることで団結は得られるものでしょうか。それは自分の側に相手を合わせることに他なりません。むしろイエスさまが言われたように、自らを捨て、汗水たらして異なる他者と共に生きていく時に団結は生まれるのではないかということを感じるのです。

またその時、一人の人のことを思わずにはいられませんでした。それは2019年12月にアフガニスタンで銃撃されて亡くなられたペシャワール会の中村哲医師のことです。彼は医師としてアフガニスタンの無医村で働いていましたが、本当に人々の病気を治すためには、病気を治療するだけでは不十分で、地域の環境を変えなければいけないと思うようになりました。そして彼は灌漑事業を始め、荒れ地に川を作り、緑を増やしていく工事を始めました。最初は専門領域外で周りの人々からも反対の声ばかりだったそうです。地域の人々も、ほとんどの医者は海外に派遣されてきても、期間が終わったらすぐに帰ってしまっていたため、最初は協力的ではなかったようです。ところが、彼はその地に残り続け、メスの代わりに重機を操り、川を整備していきました。彼はバプテスト教会のクリスチャンでしたが、宗教によって人を判断することなく、またあらゆる政府に肩入れするわけでもなく、ただその地に住む人々のために、言ってしまえば彼の利益になることは何もなかったにもかかわらず、その働きを続けていきました。これはまさに中村さんが他者の十字架を自分の十字架として背負い続け、イエス・キリストに従って行った結果だと思います。

その結果、今アフガニスタンを支配するタリバンからも、「彼は敵ではない」と言われていました。タリバンが政権を担うまで一時は無政府状態の混乱の中で、ペシャワール会も活動がストップしたそうですが、現在は状況が落ち着いたため現地スタッフによって活動が再開されているということです。

「水が善人・悪人を区別しないように、誰とでも協力し、世界がどうなろうと、他所に逃れようのない人々が人間らしく生きられるよう、ここで力を尽くします。内外で暗い争いが頻発する今でこそ、この灯りを絶やしてはならぬと思います。」中村哲さんのこの言葉を旨に、今も活動を続けているペシャワール会を覚えて祈りたいと思います。そして決して権力や暴力によって国が作られるものではないということ、その地に住む人々と共に生きていく時に、すべての人の命が安全に生きられる社会を造り上げていけることができることを私たちも心に留めたいと思います。

私たちは栄光や勝利を求めます。しかしそれは誘惑を生みます。イエス・キリストはそう言うものではなく、人々共に生きていく中に、復活という希望、それはたとえ私が殺されようとも決して消えない希望がそこに起こされていくということを教えているのではないでしょうか。「神の国とは見える形では来ない。ここにある、あそこにあると言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」私たちの自分の十字架とは何でしょうか。それは私たちに既に与えられている出会いの中にあるのではないでしょうか。イエスさまはそのような神の国へ私たちを招いてくださっているのです。