〇聖書個所 マタイによる福音書 16章1~12節

ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。

弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

 

〇宣教「時代のしるしとパン種への注意」

本日の聖書個所は、新共同訳聖書の小見出しでは1-4節は「人々はしるしを欲しがる」、5-12節は「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種」と付けられて、一見別々の物語のように思いますが一つの続いている話として読んでいきたいと思います。実は前半の「人々はしるしを欲しがる」という個所は、12:38-42にもあります。イエス・キリストが神の子であり救い主であると言うのであれば、「じゃあその証拠を見せてほしい」という気持ちがたびたび出てくるのは、一度見ても信じられず、疑ってしまう人間らしさが溢れているなぁと思います。

今日の箇所ではファリサイ派の人々とサドカイ派の人々がそろってやってきています。実は同じユダヤ教の中でも、このサドカイ派とファリサイ派の人々は仲が悪いことで有名でした。サドカイ派は神殿での祭儀を大切にしていましたが、ファリサイ派は会堂で律法を読むことを大切にしていました。言い換えれば神殿の祭司たちと会堂の律法学者たち、貴族派と民衆派、祭儀重視と律法重視、復活を信じるか信じないかなどなどの違いがあり、本来は並んで座ることのない方々でした。ところが、彼らはイエスさまのところに揃ってやってきました。彼らは口をそろえて言います。「天からのしるしを見せてほしい。」しかし実はそれはイエスさまを試すためであったと書かれています。ということは、共に来ていたのはお互いの敵であるイエスさまをやっつけるためであったのでしょう。

それにしても、なんでこの「天からのしるしを求めること」がイエスさまを試すことになるのでしょうか。「しるしを見せてほしい」というのは一見普通のことだと思います。でもここには彼らの意図がありました。実は、この試すという単語は、荒れ野でサタンがイエスさまを誘惑したのと同じ言葉です。つまり、彼らはイエスを誘惑しようとしたわけです。「天からのしるし」とは、つまり「天があなたを神の子と選び救い主とした証拠を見せてくれ」ということです。皆さんは天からのしるしといえば、どんなことを想像するでしょうか。

例えばイエスさまが祈ったことがすぐさま実現するという奇跡でしょうか。確かに旧約聖書にはそんな奇跡があります。例えば勇士ギデオンは天の使いが本物であるかを確かめようとして、食べ物を食べてくださいと言ったら、炎が巻き起こって食べ物を焼き尽くすということがありました。ギデオンはそれを見てもなかなか信じられませんでしたが、もし本当にそんな超常現象とも言うべきことが起これば、確かに何らかの力が働いているに違いないと感じます。サドカイ派もファリサイ派も、それを見たら信じることができたのでしょうか。それとも結局のところ言いがかりをつけるつもりだったのでしょうか。それはわかりません。

別の読み方としては、サドカイ派やファリサイ派の人々は、本当にイエスさまを信じようとしていたことも考えられます。その場合、イスラエルの宗教の二大勢力がここに集まったわけですから、それはイエスさまが自分たちの期待に応える救い主であるかどうかということを確かめに来たということだったとも考えられます。でも彼らがその根拠に求めたものは、先ほど申し上げた神的な力でありました。つまり彼らが言っていることは、パンを降らせてみろ、俺らを助ける力を発揮してみろ、そうしたら信じてやるということです。しかし、それはまさにイエスさまが十字架につけられた時に「十字架から降りてこい。そうしたら信じてやる」と言ったのと同じことになってしまいます。イエスさまは彼らになにもしませんでした。何故ならば、そのような奇跡を起こすことは、荒れ野でサタンがイエスさまを誘惑したことと同じことになってしまうからです。それはつまり奇跡という行為・行いをもって人々を惹きつけるという甘い誘惑に他ならないからです。

これは私たちにも良く起こることだと思います。例えば、「神を信じればいいことが起こります。神が守ってくれます。ほら、神に祈ったらこんな奇跡が起こりました!それとは反対に悪いことが起きるのは神を信じないからです。だから悔い改めて神を信じましょう。」こんな風に言う教会や人は確かにいます。しかしイエス・キリストの福音はこんな安っぽい恵みなのではないのです。イエス・キリストはそのような力や富、守りという天のしるし、神の保証の誘惑を捨てて裸一貫でやって来られたからです。なんの力も持たない救い主がなにも持たない私たちのところにやってきて下さる。しかしここに起きるのが神の国であるのです。しかしながらサドカイ派・ファリサイ派の人々が期待していたことは、イエス・キリストの奇跡的な力、天からのしるしを利用して、自分たちの思い描く選民イスラエルの国を作ることであったのではないかと思うのです。

だからイエスさまはそんな誘惑には乗らなかったのです。そして空模様の譬えを出し、「時代のしるし」を見分けるように言うのです。私たちは、空模様はよくわかりませんが最近よく雨雲レーダーを見ます。それを見るといつ雨が降り、いつ止むかということが一目瞭然です。この移り変わりは、時の経過を意味する「クロノス」といういわば直線的な時であります。しかし実はこの「時代のしるし」の時代とは、「カイロス」という言葉です。カイロスは「神の時、神が与えられる時、出会いの機会」などつまりピンポイントで与えられる時を意味します。それがいつ来るかということは、はっきり言えば神にしかわかりません。私たちは空模様の移り変わりというクロノスしか予測、理解できないのです。それはサドカイ派もファリサイ派が理解していた信仰もそうだったと思います。時代が変わっても続いていくクロノス的な一直線の神の教えしか考えることができなかったのだと思います。

つまり神殿礼拝が大切だ。いや律法を守ることが大切だ。それを守ることが神を信じるということだ。この枠組みから私たちは離れることができないのです。しかし、イエスさまがここで言っている「時代のしるし」というカイロスは、そういうものではない。それはヨナのしるしであり、既に示されていることだと語るのです。

ヨナのしるしとは、旧約聖書ヨナ書にあります。よく言われることは、「ニネヴェの町に行きなさい」という神の御心から逃げ出したヨナが海にほおり出され、三日三晩魚のお腹の中にいたことが、イエス・キリストの十字架の死の預言であるということです。しかしその出来事そのものより、それによって何が変わっていったかということがより重要です。それはつまり、それまでヨナが思っていたような、イスラエルの救い=敵国の滅びだと信じていたものが、実は神の願っていたことでは全くなく、むしろ神の願いは、ニネヴェの町の人々にも神が愛して造られた存在であり、彼らに悪から離れて、立ち返って生きていってほしいという願い、いわばイスラエルだけではなく敵も含めてすべての人の救いであったということなのです。つまりイエスさまがヨナのしるしを通して、彼らに言おうとしていることは、サドカイ派が正しいとかファリサイ派が正しいとかそういうものではなく、神の救いは神のカイロスの時の中で、イスラエルのみならず、いまや全世界に広げられて行っているということなのです。

対する彼らはイスラエルのことしか考えていませんでした。それが彼らの持っていたパン種というものです。確かにある意味保守的で正しいのです。しかしその正しさは常に自分を正しくし、他の違いを持った人々を裁く基準となってしまうのです。その思いは容易に消すことはできません。それどころかパン種のようにムクムクと育ち、周りのものに多大な影響を与えるほどに増え広がっていってしまうものです。それはニネヴェが救われるなら自分が死んでしまった方がましだとさえ考えていたようなヨナ自身が身を持って体験していることです。それは、まさにサドカイ派的・ファリサイ派的な選民思想自分たち正しい者たちだけが救われるという神理解というパン種でありました。

しかしイエスさまは、それに注意しなさいと言うのです。イエスさまは9-10節で5000人の給食と4000人の給食のことを取り上げています。これは以前にもお伝えしたことですが、ユダヤ人の救いと異邦人の救いの物語です。分かち合った後の残りである12はイスラエルの満たし、7は完全数、つまり神の平安はこの世のすべての人に満たされるということです。私はイエスさま自身がまさに方向転換したように思う出来事が、カナンの女との出会いであったのではないかと以前にお話ししました。出会いが大切なのです。私たちは自分の世界だけにいると、自分だけの思いが固定化してしまいます。それは次第にマインドをコントロールしていく、つまり自由な考え方を阻むものになっていくのです。イエスさまももしかしてユダヤ社会の中で「イスラエル優先、異邦人はあと」となりかけていたのかもしれません。でも彼は出会ったのです。自分と異なる者と出会ったのです。その出会いの中で、「先のものが後になり、後のものが先になる」という風にイエスさまが変えられていったように、自分が変えられていくということが、まさに大切なことなのだということを私は考えさせられています。そしてこのような視点に開かれていくことが、現在、人となかなかゆっくり交わることができない私たちにとって大切なメッセージではないかと考えています。

コロナが始まってからSNSというものが交流のツールとして大きく用いられることになりました。オンラインを通して他の人と交わることができるのは、とても大切なことです。しかし、SNSはその特徴から、色々な情報を与えてくれるのではなく、私たちが好む偏りのある情報を提供してくれるものであります。それは私たちの社会性をかなり狭め、自分の思いと同じような考えを持っている人との交わりは深められる一方、自分とは異なる他者の声を聴くことはかなり困難な状況にしていきました。パウロはテモテの手紙Ⅱ4:3-4で「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」とありますが、まさに私たちはそのような時を迎えているともいえると思います。

しかし、だからこそ、その前にパウロが語っている「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(4:2)という言葉が大切であり、響くのです。その御言葉とは異なる他者との出会いの中で起きるイエス・キリストの出来事です。その神のカイロスの時の中で、互いに生かされて行きなさいということです。出会うことが難しい中、だからこそ私たちは意識的に神の言葉に生かされていく必要があるのです。この交わりのただ中にこそ神の国があることを覚えます。

この8月、私たちは平和を覚える時でした。現在開催されているパラリンピックには「共生社会の実現」という理念があります。これは様々な「障がい」だけではなく、性別・人種・宗教・出身など様々な違いを持った方々が共に生きられる社会を造り上げることです。しかしその実現のために一番大きな問題というのは、やはり私たちの内面に固定概念や差別意識(優越意識)があるということです。違いが認められません。だから違う人を排除したくなるのです。これはミャンマーで起きている民主的な選挙を受け入れられなかった軍事クーデターや、人権を認めないアフガニスタンのタリバン政権だけでなく、色々なところに出てきています。オリンピックの時には、そのような思い込みがこの日本の至る所にあるということがはっきりと出てきました。これは変えていかなければいけないことです。違いを持った人々が共に生きていくために、自ら崩され、立ち返っていくことが必要なのです。

イエス・キリストはまさにご自身の歩みの中でそのような出会いに丁寧に向かい合って行かれました。特別な力を持たなかったからこそ、その出会いが大切だったのだと思います。しかしその出会いの中に、「天からのしるし」があるのです。私たちは、イエス・キリストが歩まれたように、その出会いの中に導かれて歩み出してまいりたいのです。そこから「平和」が始まっていくことを信じて参りましょう。

「平和を実現する人々は幸いである。その人々は神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)