〇聖書個所 マタイによる福音書 15章21~28節

イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 

〇宣教「出会いの中で起きる方向転換」

本日の聖書個所は「カナンの女の信仰」の個所ですが、32-39節の「四千人に食べ物を与える」と合わせてお話しします。聖書をお持ちの方はどうぞその箇所を開きながら宣教をお聞きください。

ただ今「カナンの女の信仰」の個所を共に読みました。ここで気になることはやはりイエスさまがこの女性に対して冷たい対応をしているように思えることです。女性が「悪霊が娘に取りつかれている。憐れんでください。」とひれ伏して懇願しているのにも関わらず、イエスさまは何もお答えになりません。わたしたちのイメージではイエスさまはとても心優しい方で、困っている人のそばに寄り添い癒し、慰めと励ましを与えてくれるお方だと思うのですが、まるで別人のようにここでは何もお答えになっていません。それどころか「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」さらには「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」とまで言うのです。つまり、彼女はカナン人、つまり異邦人であったので、私はあなたには関わりませんよ。と言っているかのようです。

確かにイエスさまは、マタイ10:5-6で12弟子たちを派遣する時、このように言っています。「異邦人の道に行ってはならない。サマリア人の町に入ってはならない。むしろイスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。」敢えて言うと、マタイによる福音書は旧約聖書のイスラエルの正統思想とイエス・キリストを繋ぐ立ち位置に、神の民イスラエルを優先する思想はあるのだと思います。しかしそうだとすれば、何故イエスさまはわざわざティルスとシドンの地方に行かれたのかということが疑問として上がります。ティルスとシドンというのはイスラエルの町ではありません。ティルスは今ではレバノンの南西部の町、かつてはフェニキアという国の首都として栄えた町であります。シドンも同じフェニキアの町であり、まぎれもない異邦人の町です。ちなみに、このフェニキアの宗教はバアル信仰です。このフェニキア出身のイゼベルという王妃がかつてのイスラエル王国にバアルという偶像を持ち込んだことで、旧約聖書では最も有名な悪女の一人として描かれています。

「異邦人の町に行ってはいけない」と弟子たちに教えたイエスさまが敢えてここに来ていた。そして、イエスさまの噂は遠くここまで広がっていた。だから、そこで生まれたカナンの女が娘の癒しのためにイエスさまのところにやって来たということは、ほとんど想定できる半ば当然の流れであったわけです。それにもかかわらず、イエスさまはこの女性を拒否しているのです。しかもその理由は彼女がイスラエル人ではないということです。これは彼女がどうこうしようとして解決できる問題ではありません。こんな理由をもって相手にしないということが、実に不思議なわけです。そういうのであれば、最初から期待を持たせるようなことはしないほうが良いと思います。最初からティルスやシドンの方に行かなければいいのにと思うわけです。彼女には一切の非はありません。それどころか彼女の求めは、親として当然のことであると思います。だって、娘のいのちがかかっているわけです。そこに民族は違ったって、癒しを行える人が来ていると聞いたら、居てもたってもいられないのが親というものです。だから彼女は何もお答えにならないイエスさまに食い下がるのです。それはものすごい食い下がり方だったのでしょう。近くで見ていた弟子たちが、もう困り果ててしまっている様子が聖書から伺えます。「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので。」ここで叫ぶという言葉は、「わめき散らす」ということです。「助けてください。救ってください。私の娘を救ってくれるのはあなたしかいないのです。」と叫び続けたほどに、この女性は切迫した思いをイエスさまに向けていたわけです。

しかし、イエスさまは彼女に何も答えません。何も答えないと言うのは、一言も言葉をもって話さないということです。つまり御言葉を与えられないのです。ちなみにイエスさまは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言っていますが、それもまた彼女にではなく弟子たちに向けて語られています。これはもう徹底的です。冷たいと言うより「できる力はあるけれどあなたにはしないよ。」という意味では、非常に残酷で強情です。しかも「子犬」という表現は、いわゆる差別語であったとも言われています。この箇所におけるイエスさまの姿は、これまでの聖書が示す姿とはまるで異なる姿に受け取れるわけです。

ところが、このイエスさまのスタンスを崩したのが、この女性の受け答えでした。彼女は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」というイエスさまの言葉を逆手にとって言うのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」これはすごい言葉です。「普通なら私は犬なんかじゃありません!」と言いたいところです。しかし彼女は自分が子犬のように憐れみに寄りすがる他ない存在だということを受け入れた上で、イエスさまに憐れみを乞うているのです。イエスさまはびっくりしたと思います。そしてそれ以上、何も言えなくなってしまったように思えます。何故ならば、そこにはそれでもイエスさまなら何とかしてくれるに違いないという信仰がしっかりとあったからです。イエスさまは一本取られたとでも言うかのように、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と言葉を与えています。娘はそのときそこにはいませんでしたが、しかしこの言葉が与えられた時、この女性が確認するまでもなく、娘は癒されたのです。

さて、これは一体どういうお話しなのでしょうか。何を伝えようとしているのでしょうか。信仰が問われているということなのでしょうか。それではなぜイエスさまは冷たい対応をされたのでしょうか。やはりここには私たちが読み解くべきメッセージがあるのでしょう。実はこの箇所を巡って二つの読み方があると言われます。

一つ目は、やはり伝統的な解釈としてイエス・キリストは神の子であって、実は元々彼女を助ける思いがあるにも関わらず、あえて異邦人であるこの女性の信仰を試すために冷たい対応をしているという読み方です。その場合、異邦人の町に来たことも、やはりこの彼女と出会うため、彼女の救いの為であったと言えます。しかしこの場合、気になることが、彼女の信仰を試すために娘のいのちが危険にさらされているということです。果たしてイエスさまはこの女性の信仰を試すために、この娘のいのちを利用したのでしょうか。それでは彼女が信仰を示せなかったら、癒さなかったということなのでしょうか。さらにもう一つの問題点は、信仰によって救われる結果になるとはいえ、そこにはイスラエル優先、異邦人は子犬という差別意識・差別構造が残るという結論になってしまいます。

二つ目の読み方は、聖書をそのまま読むように、イエスさまもまた人間としてユダヤの文化に生まれ育ったのだから、異邦人と関わることを好んでいなかったということです。その場合、大切なのは、イエス・キリストもまたこの諦めない女性との出会いによって変えられていったということです。そしてこの出会いによってイエスさまの世界が「イスラエル」以外にも広げられて行ったということです。

この場合の問題は、神の子であるイエス・キリストにも偏見があったということになります。しかし聖書を読めば、イエスさまもまた最初から完璧な存在として天から下って来たのではなく、赤ちゃんとして生まれ育ってきた救い主であったように、他者との出会いの中で色々なことを教えられながら、自分が間違ったことをした時には方向転換をしながら生きてきたという物語になります。神の子であるイエス・キリストに間違いがないと言いたい気持ちはわかりますが、むしろ聖書はイエスさまも日々の営みの中で、人々の交わりの中で、神との対話の中で成長していったように、私たちもまた出会いによって変えられること、遜っていくことの大切さ、その中で新しい者とされていくことが示されていると受け取ることもできるのです。

私は、この女性が「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずを頂きます。」と言った時、イエスさまの心にやはりあの「五つのパンと二匹の魚」が男だけで5000人を満たした出来事を思い出したのではないかと思うのです。あそこに集まったのは、恐らくユダヤ人だけでした。しかし今や異邦人もまた神の恵みに預かる時がやってきている。イエスさまの働きが出会いによって広げられた瞬間を確認したのかもしれません。

そうであるとすれば、「イスラエルの家の失われた羊」の意味が少し変化してきます。実は「失われた」という言葉は、アポリューミという言葉で、「本来いるはずの場所からどこかに行ってしまった」という意味でもあり「滅ぼされてしまった」ということでもあります。ここでは最初血族としてのイスラエルという意味合いがあったと思いますが、イエス・キリストを信じる者、新しいイスラエルという言葉に意味合いが変わっていくものであるように思えるのです。この転換点が実は非常に重要です。

それを示すかのように、この出来事の後に「4000人の給食」の物語があります。5000人の給食は余りが12のかごでしたが、男だけで4000人の食事は七つのパンが分かち合われ、残りは七つのかごにいっぱいになりました。この数は、象徴的な意味合いです。つまり4000人の4とは世界の全方位を現わすものであり、7とは神が全世界を作り安息した日数です。つまり選民イスラエルの満たしの物語から、イエス・キリストを主と信じる異邦人の満たしの物語への方向転換なのです。私は、このようにイスラエルから全世界へ福音宣教が広げられる出来事が、一人の異邦人の女性との出会いから起きたということに、大変感慨深く思うのです。

この女性がどんな女性であったということは、よくわかりません。悪霊に取りつかれた娘と二人で暮らしていたのでしょうか。夫は登場しません。もしかして一人やもめであったのかもしれません、子どもを抱えた女性、社会的にも経済的にもとても厳しい状況であったことは想像に難くありません。しかもカナンの女です。カナン人と紹介されているのは、彼女はティルス地方の生まれでありながらもその土地の人とは思われていない、差別されていた女性であったということです。しかし、そのような何もない人との一つの出会いから、驚くべき方向転換が起きたことに心を留めたいのです。

方向転換という言葉は、聖書的に言うと、悔い改めという言葉と同じ意味です。それは伝統的な罪の償いや精神的な悔い改めというよりも、つまり一つの出会いによって自分自身が改めさせられること、そしてその出会いを通してもはや同じ自分ではいられなくなることであります。このような出会いこそ、私たちに決定的に重要なことだと思わされます。自分自身では、あるいは自分と同じような人々の交わり、同じような環境の中では、絶対に出会うことができない出会いであるからです。

先々週ある有名人が、ホームレスに対する偏見をYouTubeで流し、それが炎上するというニュースがありました。その人は自分の意見をあたかも正論のように話し、生活保護をもらう自分とは関係ない人々より、自分にとって価値のある猫の方が大切だと言いました。それは自己中心的な主張であり、彼自身が出会うべき人と出会っていないということを示しています。だから簡単にそんなことを言ってしまうわけです。案の定彼は大炎上して謝罪に追い込まれました。今も彼を非難するコメントは溢れています。でも、私はそんな彼を考える時に、自分は果たしてどうかと問わざるを得ませんでした。彼を責めること、批判することは簡単ですが、じゃあ自分もまた井の中の蛙のようになっていないか、自分は新しい出会いに開かれているかと考えたのです。

今回彼の一つの謝罪の中で、彼がホームレス支援をしているNPO法人抱僕の奥田知志先生のところで学びをすると表明したことを受け、奥田先生も意見表明をされました。私が個人的に最も大切だと思った言葉は、「学びとは、自分を一旦切開し自分の闇を見つめることから始まります。単なる知識の上塗りではなく自己批判を伴う営みだと考えています。本当の「学び」は知識を得ると言う事では全くなく自分のしてしまったこと、あり方を一旦否定することから始まると考えます。」という一言でした。

これがまさに悔い改めに他なりません。そしてこれがなければ出来事は起こらないのです。新しくなっていくことができないのです。私たちはできる限り自分たちの形は変えていくことを望みません。痛みも伴うことであるからです。しかしイエスさまもまたそのような出会いを経験されている。だからこそ、そこから新たな世界が開かれて行ったのではないかということに心を留めたいと思うのです。

イエス・キリストのそれからの働きは、まさに出会いの中で問われたことから始まったことでした。そしてそれが新しい歩みへの出発でありました。私たちがこの箇所から受け取るべきメッセージは、わたしたちもまた変えられていく必要があるということ、そこから始まっていくことがあるということです。このことに心を留め、私たちも私たちの出会いに導かれて参りましょう。