〇聖書個所 マタイによる福音書 14章1~12節

そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。

 

〇宣教「ヘロデとへロディアと娘、本当の救いとは?」

今日の聖書箇所は、実は礼拝説教のテキストとしては、あまり取り扱われることが少ない箇所です。その理由は聖書個所を読んでお分かりと思います。何とも救いがありません。ここにどんな福音があるのでしょうか。福音を語る者が権力によって殺されるというあまりにも無慈悲で残酷な個所です。でもこのお話は、「首を求める娘の姿」を中心として多くの芸術家の想像を掻き立ててきました。例えば絵画にも描かれていますし、他にもフランスの作家オスカー・ワイルドは「サロメ」という物語を作りました。サロメとは、へロディアの娘として歴史上の文書に残っている名前です。でも、聖書にはこの娘の名前は書かれていませんので、ここでは娘として取り扱います。でももし、この娘がサロメだったとしたら、これは聖書のブラックユーモアに他なりません。何故ならばサロメには、平和を意味する「シャローム」と同じく平和という意味がありますが、ここで行われていることは平和とは程遠いことであるからです。

それでは、本当にここから、福音を受け取ることはできるのでしょうか。一読しただけでは、それは難しいと思います。それは彼らが行ったことは「悪」であるからです。しかし、そこにはやはり何かの理由があるはずです。彼らは何故ヨハネを殺したのでしょうか。彼ら自身にそうせざるを得ない何らかの理由があったのでしょうか。ヨハネを殺して問題は解決したのでしょうか。もしかして彼らもまた本当のサロメ=シャロームを求めていたのに、的外れという罪に生きてしまっていたのかもしれません。確かに先週までの天の国の譬え話で言えば、彼らはまさに毒麦であり、悪い魚であります。でも譬え話でお話ししたように、神の愛がそんな毒麦や悪い魚にまで向いているのだとしたら、このヘロデたちに神さまが語りたいと思っているメッセージがあるはずです。

それでは彼らが本当に求めていたものは何だったのか。そして聖書がここから語りたいと思っている福音は何か。そのためにはヘロデとへロディアと娘、それぞれの背景を見る必要があります。今日は少し説明が長くなると思いますが、ここから福音を受け取って参りましょう。

まずこの領主ヘロデという人物は、正式にはヘロデ・アンテパスという名前で、イエスさまの誕生物語で博士と共に登場したヘロデ大王の末っ子です。今日はこの領主ヘロデをヘロデ大王と区別するためにアンテパスと呼びます。このアンテパスの妻がヘロディアです。ところが実はこのヘロディアは元々アンテパスの他の兄弟の妻でありました。またアンテパスにも元々の妻がいました。彼らはそれぞれの相手と別れて一緒になりました。しかし問題は、律法では兄弟が生きているのにその妻を娶ることが認められていなかったということです。死んだあとなら兄弟の子を残すために結婚することが認められていました。しかしそうではなかったのです。だから、バプテスマのヨハネは、これが不正であると告発していたのです。しかしそれにも関わらず彼らは結婚しました。これには愛情の他にも何かそれぞれの思惑があったようにも思えます。それについては後ほどお話しします。

さてヨハネは、イエスさまにバプテスマを施した後、まもなく捕まっておりました。今日の箇所ではアンテパスは、ヨハネを殺害するチャンスを伺っていたようですが、彼は民衆の反発が怖くて、処刑することができなかったとあります。ここでアンテパスが民衆の顔色を気にする人物であり、自分で決断することができない人であったということが分かります。その決断ができなかったアンテパスのために一計案じたのが妻へロディアであり、その実行犯として娘が登場します。客を招いて行われていた酒宴の席で、王女が踊るという場面設定がユダヤの文化になじむものであったのかという疑問はあるようですが、娘の踊りを喜んだ父が、酒に酔って気持ちが大きくなり何でも好きなものを差し上げようと言ってしまうのは理解できる部分であります。

ところが娘はヨハネの首を求めました。これにはアンテパスもびっくりしたようです。確かに恐ろしいことです。ところが、彼はそう言われたときに「客の手前」という体面を気にして、彼女の言うとおりにしています。私たちであれば、自分の子どもが人様の首を求めるようなら、どうされるでしょうか。自分の体面なんて気にする場合ではありません。ここは娘としっかり向かい合うことが必要です。それなのに、彼は自分のことばかりを気にして取り繕っており、娘のことなんて目に入っていないかのようです。ここに彼の家族関係が何らかの形でひずんでいることが分かります。

娘は本当にヨハネの首が欲しかったのでしょうか。そうではありません。彼女は母親に唆されて首を求めています。「唆される」というと「彼女も何らかの見返りを受ける」ような印象がありますが、元々の意味では、「連れて行かれる、教えられる、指図される」ということです。だから母親の言うとおりに、母へロディアの要望を父親に伝えたのです。そんな娘の本当に欲しかったものは、ヨハネの首ではなく、母親の愛情であったのではないかと思います。実は歴史上のサロメはアンテパスとの子ではなく、ヘロディアの連れ子であったからです。つまり彼女は、母親に褒めてほしくて、母親の愛情が欲しくてそれを得るために、指図通りにしたのではないかと思うのです。この娘は多くの画家や作家には「冷酷な血も涙も通わないような娘」として描かれることも多いのですが、このように読むと一つの意味では健気な人物像、可哀そうな人物としても受け取ることができるのではないかと思います。

それでは妻のヘロディアは何でバプテスマのヨハネを殺したかったのでしょうか。先ほどは決断できないアンテパスに代わってその決断を促したと言いました。しかし、よくよく考えてみると、本当は彼女こそがヨハネを邪魔者だと思っていたことが分かるのです。

実はこのヘロディア自身も、アンテパスと同じくヘロデ大王の血を引いています。ヘロデ大王には何人もの妻がおりました。アンテパスは末っ子でしたが、へロディアは次男アリストブロスの子なので、孫娘に当たります。叔父と孫の結婚は近親婚には当たるかもしれませんが、律法違反ではありませんでした。そしてこのヘロディアにとって大切だったのは恐らく、その次男、そしてその母から流れる血筋をヘロデ王家の中に残すことだったのではないかと思うのです。

実はヘロデ大王は正統なユダヤ人ではなくイドマヤという民族の出身です。これはヘロデ大王にとって、非常に大問題でした。と言うのは、ユダヤの正統的な人々、特に宗教勢力から常に異邦人として見られていたからです。彼はそれを払しょくし、正統的な人々の支持を得るために、ユダヤの正統的な血筋であるハスモン家の娘を妻にしたのです。ハスモン家と言うのは、旧約聖書と新約聖書の間の空白の期間に一時期ユダヤ人の独立を導いた勢力でした。そこで生まれたのがへロディアの父アリストブロスでした。ところが、その正統的な血筋は、猜疑心の強いヘロデ大王には脅威となり憎悪の対象となり、ついにその息子を殺してしまうということになったのです。へロディアはそのような複雑な家族関係の犠牲者であり、その血を継ぐ者でありました。恐らく彼女の心には様々な痛みがあったことでしょう。しかしもしかして、これは私の想像でしかありませんが、彼女は父親が果たせなかった意志を継ぎ、ヘロデ家をハスモンの血で存続させるということが、彼女の野望になっていたのかもしれません。ですので、へロディアにとっては、アンテパスと結婚するということは、政治的にも家系的にも非常に大きな意味があり、それを批判してくる預言者のヨハネは非情に都合の悪い存在であったわけです。ですから、今日の箇所でヨハネを殺す機会を伺っていたのは、実はアンテパスではなくヘロディアだったのではないかと思うのです。実はマルコ6:19-20にはこのようにあります。

「ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」

今日の箇所でイエスさまの評判を聞いたアンテパスがヨハネの復活だと思ったのは、こういう背景があったからかもしれません。つまり彼はヨハネにも神の力が働いていることが分かっていた。そして自分自身が律法違反の罪を犯していることも知っていたわけです。しかし彼は変わることができなかった。何故ならば彼は妻と娘に弱く、民衆の思いに敏感で、自分の思いで動くことができなかったのです。そうなった理由の一つは、彼もまた父親のヘロデ大王と同じで、認められた血筋ではなかったからだと思います。アンテパスがヨハネの言葉に喜んで耳を傾けていた理由の一つには、ヨハネが言葉にも行いにもブレることのない人であったからではないかと思います。自分を自由にしてくれる存在、自分の生きたいように生きられることを彼は願っていたのではないかとも思います。

しかしながらアンテパスはその道を選ぶことができませんでした。すなわち、文字通り彼は悔い改めて立ち返ることができなかったのです。そうではなく殺してしまった。これはまさに「自分の行いで自分をさばいている」ことになります。大切なのは、気づいた時点で立ち返ることなのです。自分の思いに気付いたとき、それを握りつぶすのではなくその思いに新しく生きていくのです。そのためにバプテスマのヨハネがおり、福音があるのです。

ヘロディアも同じです。彼女は婚姻関係が律法違反だと言われることにうんざりしていたのでしょう。しかしそもそもハスモン家とは律法に忠実な家系でした。先ほどユダヤを独立に導いたと言いましたが、その時も安息日に戦争をすることは律法に適っていないとして、一時期は反対にやっつけられそうになったこともあったそうです。血だけ残しても意味はありません。その内容こそが大切です。でも彼女からするとこの殺された父親の無念の思いが逆に意固地にさせてしまっていたのかもしれません。しかしそれがかえって娘を愛情不足、家庭不和にさせてしまっていたのではないでしょうか。このように背景を見ると、ヘロデもヘロディアも娘も、神の言葉ではない他の思いに支配されてしまっています。そしてそれは彼らを逆に苦しくしているように思います。そのような時には立ち返ることが難しいということは分かります。バプテスマのヨハネの殺害は象徴的に見れば、まさに罪の行為であり、的外れに生きることの象徴であり、悔い改めのバプテスマ、立ち返りの否定です。それでは果たして彼らはそれで本当に救いを得たのでしょうか。私はそうではないと思うのです。確かに立ち返ることは難しいことです。新しい歩みを始めることも難しいことです。でもここから福音を聞こうとするならば、私たちはどのように読むべきでしょうか。 それは福音が先立っているということだと思うのです。

実は今日の聖書のあと、イエスさまが5000人の給食の個所に入ります。そこには男だけで5000人以上が集まったとあります。どんな人たちが集まったかと言うと、「飼い主のいない羊のように弱り果てたありさまの人々」でした。飼い主のいない羊というのは、自分を守ってくれる存在がない、つまり、そこには何も誇るものがない人たちが集まりました。そこに集う資格も何も必要ない、ここにはイエスさまを求める純粋無垢な人たちだけが集まったわけではないでしょう。食い詰めていたり、もしかして犯罪者のような人たちもいたりしたかもしれません。でも、参加資格が問われていないという事実は、「私の元に来る人は、どんな人でもいい。私の所に来るならばあなたの必要が満たされ、心の飢え渇きが満たされる。」ということを現わしているようにも思えます。

つまり、ヘロデやヘロディアや娘は色々なものにすがっていました。しかしそれは彼ら自身を追い詰めるものでした。苦しかったでしょう。しかしそんな彼らにも神の国は開かれているのです。神さまは今私たちに何を伝えようとしておられるでしょうか。それは、「あなたはいま、とっても頑張っているけれども、頑張りすぎて疲れてしまってないか。大丈夫だ。あなたはなにも心配する必要はない。誰でも疲れているもの。重荷を背負っているものは私の元に来なさい。休ませてあげよう。」ということなのではないでしょうか。起こしてしまった過去は変えることができません。ヨハネももう蘇りません。しかし、ここから立ち返っていくことはできるのです。神はそのためにイエス・キリストを私たちに与えて下さり、希望を示し、慰めを与え、一緒に立ち上がっていこうと招いておられるのです。