〇聖書個所 マタイによる福音書 13章53~58節

イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

 

〇宣教「スキャンダルは固定化された人間関係の中に」

今日の聖書の箇所は、イエスさまがナザレという故郷に帰って来られた時のお話しです。イエスさまがなんでこの時にナザレに帰ってきたのかはわかりません。ただ、この箇所の前までに、イエスさまはカファルナウムという町のガリラヤ湖の近くで、人々に神の国を譬え話で教えておられましたので、休むために帰って来られたのかもしれません。 この日は安息日であったのでしょうか。イエスさまは、人々の集会場であった会堂に出かけて、教え始められました。教えるというのは、神の言葉を解き明かすことです。ちなみに会堂では一般的には律法の朗読がされ、それをそのまま信じるということがされていました。なので、人々はイエスさまの解き明かしを聞いて、その知恵と奇跡にびっくりし、躓いてしまいました。イエスさまはそれを人々の不信仰として嘆き、「預言者はその故郷、家族の間では敬われない」と言って悲しむという少し切ないお話になっています。

ちなみに今日の宣教題には、「スキャンダル」という言葉を使いました。これには、不祥事とか醜聞という意味があります。実はこの語源のギリシャ語ではスカンダリゾーと言い「躓かせる」という意味なのです。この世には様々なスキャンダルがあります。有名人のゴシップや政治家の不正など様々なスキャンダルが雑誌や新聞で大賑わいです。人間ですからつい魔が差してしまうこともあるのでしょうが、そのツケは莫大です。スキャンダルは基本的に「これくらいなら大丈夫だろう、ばれないだろう。」との思い込みから始まるものです。つまりスキャンダルを起こす人は、まず自分自身に躓いているのです。そしてそれを見ている人たちも「まさかあの人が…」として躓くのです。しかしそれはその人本人というよりも、「あの人なら大丈夫だ」という自分の中にある幻想が崩されるということなのでしょう。つまりスキャンダルとは固定化した思い込みの考え方の中で起きるものです。しかしマタイ10:26には「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」とあります。今日のナザレの人々は、まさにその躓きをもつ姿を明らかにしています。

イエスさまは彼らを躓かせようとしたわけではありません。何か悪いことをしたわけでもありません。しかし彼らは躓いてしまいました。彼らはイエスさまの何に躓いたのでしょうか。それは彼らがイエスさまを知っていた関係があったことから始まっています。大工ヨセフの子であって、母マリアの子であることを知っている。ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダの名前も挙げ、姉妹も知っている。名前はわかりませんが、イエスさまに姉妹がいたのですね。要は幼いときから知っているあの小さかったイエスちゃんが、メシアとして、誰もが驚く知恵や奇跡を行う人として帰ってきたことに人々は躓いたのです。これは人々がイエスさまのことを昔のあのイエスちゃんとしてしか見ることができなかったということでしょう。多分イエスさまに出会って、色々と思い出が湧き上がって来たのでしょうが、それがあるから、目で見たことをそのまま受け入れることができなかったのです。つまり彼らは自分たちで躓いたのです。

私も経験があります。例えば実家や田舎、或いは故郷に帰った時には、親せきや近所の方々から、「まぁまぁあの慎ちゃんが、あんなに小さかったのにもうこんなに大きくなって」いう風に言われるのは常です。その呪縛から逃げることは簡単ではないどころか思い出が美化されて強まることもあります。皆さんも経験あるのではないでしょうか。私は神学校を卒業する前に、わたしが子どもの時からお世話になっていた東京の調布教会に帰って礼拝の奉仕をさせて頂いた時に、教会のおばさん達が目に涙を溜めながら「慎ちゃん、立派になったわね」と言っておられたことを思い出します。これは嬉しいことではある一方で、やはりそのような思い出から抜け出ることは大変だと思いました。出身教会の牧師になる方が最初に経験する苦労です。またその涙はそのとき語られた説教に感動して流されたのか、それとも思い出に胸が詰まって感極まって、宣教は耳に入っていなかったのかなとも思いました。

いずれにせよ、故郷という言葉にも、愛着というものを感じさせますし、そこには特定の場所を超えた「造られた関係」が感じられます。ただ、その「造られた関係」が、新しい関係を作ることを難しくしてしまうことがあるのです。なぜならば、故郷という言葉はパトリスという言葉ですが、この言葉はもともと父親という意味のパーテールの町、父親の町であると、それはパトリアと言う血統とか系図という関係によって造られる町であるからです。この三つは同じ語源を持っている言葉であります。そしてその関係が「パトロン」という協力者、自分の事を支援してくれる人を作ることがあります。しかしながら、そのような関係そのものが 固定化されてしまっていると、今目に見えている新しい出来事、あるいはその人自身というものに目を止めることができなくなってしまうことがあるのです。新しい関係に更新することは容易ではありません。何故ならその時、私たちの目に見えているのは自分の中で作られた相手のイメージであって、相手そのものではないのです。ですから、彼らはイエスさまに躓いたと言うよりは、自分の中で作られたイエスちゃんのイメージとリアルなイエスさまとのギャップに躓き、受け入れられなかったと言うことですしかしそれは、人間関係を固定化すること、思い込みにはまることであり、相手を見ていないことになってしまいます。
それでは、このナザレの町の人々が躓いてしまったものは一体何だったのでしょうか。54節にはそれはイエスさまの知恵と奇跡を行う力であると書かれていますが、イエスさまがここでしたことは、聖書を教えることだけです。ですから、この教えの中に知恵があり奇跡が起きたのです。

実は、ここで知恵と書かれているのは冠詞付きの単数形の知恵です。The知恵です。知恵については先週の宣教でも少し触れましたが、聖書の中で最も高価だとされていた、小さな国の一つさえ買うことのできる真珠よりも大切なものであると言われています。その知恵、唯一の知恵とは、神の知恵、神の言葉に他なりません。

神の知恵、神の言葉というものは私たち人間にとってどのような意味があるのでしょうか。それは一言で言えば、自由と解放をもたらす言葉であります。神の知恵の反対は人の知恵であり、それは子どもメッセージでも申し上げた通り、人々を束縛するものであり、抑圧しコントロールするものです。

実にナザレの町とはそのような関係性の町であったのかもしれません。このナザレという町は、旧約聖書には登場しません。つまり新しく作られた町であります。ここに住む人たちはどこから来たのでしょうか。恐らくイスラエルの方々や近隣の国々の町からやってきて開かれた町だと思います。この地域は北イスラエルに位置しますので、かつてアッシリアに占領されていた時には、入植も行われていました。色んなところからの出身者が多く集まってできた町だからこそ、色々な困難やルールがあったのかもしれません。しかしそれ以上に大変なのは、このナザレがガリラヤという地域の中にあり、それはエルサレムという中央からは、異邦人のガリラヤとして差別されていたということでした。

私は、イエスさまはここで語っていた神の言葉は、そのような差別された町の人々の尊厳、人権、自由、いのちの輝きを解放するものであったのではないかと思うのです。安息日に律法からそのまま語る言葉とは、いわゆる正統派の人々に響く言葉であったかもしれませんが、そうではない人々にとっては、それは棘のついた針で刺されるような言葉であります。そしてそれは努力では決して超えられない、生まれつき決められているかのようなカースト制度のようなものです。そしてそのような身分差別のようなものは宗教という固定化された関係の中で、さらに強められるものであります。

しかしイエスさまはそんな中にいる人々に対して、あなたたちの命は大切なんだ。あなたのいのちには意味があり、価値があるのだ。あなたのいのちには可能性があるのだ。何故ならばそのあなたのいのちは、神が特別に創造してくださったからだ。神は一人一人を「良し」として創造してくださった。世の中は優秀な人は神の恵みで、劣っている人は神の裁きだというかもしれないけれど、決してそうではない。一人一人、形も能力も違うけれども、それは共に生きていけるために助け合うためのものなのだ。神はあなたを必要とし愛しているのだ。だから、それを伝えるために私があなたたちのところに来たのだというような言葉だったのではないかと思うのです。神の知恵は私たちを取り巻く環境、思い込み、束縛、私たちの頭の中にある囚われというものから私たちに解放を与える言葉であります。

そして、実にそのような神の知恵がもたらしたものが、この後に書かれている奇跡と呼ばれるものです。先ほど知恵は単数形と言いましたが、この奇跡は複数形で書かれています。つまり、一つの神の言葉によって諸々の奇跡が起こったということです。それはもしかして病人の癒しとか悪霊追い出しとか煩いからの解放とか、聖書に書かれているような癒しの出来事だったのかもしれません。しかしその本来的な奇跡というものは、神の言葉との出会いによって私たち一人ひとりの生き方が変えられていくことであるのです。

つまりその言葉が私たち一人一人の心に届き、生き方を改めていくこと、立ち返っていくこと、悔い改めていくことです。これがまさに奇跡なのです。そのような福音というものは、今本当に生き方を迷っている人々に対して響きます。しかし反対に、これまでどおりが良いと考える人々にとっては受け入れられない、不都合な言葉として聞き流されてしまうのです。

ナザレの人々は、この言葉が自分たちのところに来たことにびっくりしたわけです。それはナザレという田舎町で、それまでに作られていた関係、それが壊れてしまうことを意味しています。それは、まさに古い革袋に新しいぶどう酒を入れたら、その革袋が引き割かれてしまうことがあるように、新しいぶどう酒としてやってきたイエスさまを受け入れることができなかったのです。ナザレの人々は、ここで言っているのは、「お前は大工の子じゃないかと母親マリアじゃないかと兄弟達姉妹たちを私たちが知っている」という「関係性の中にいる私、固定化された私像」でしかありません。彼らはこの作られた価値観の中で新しいものに関係性を変えていくことはできなかったわけです。

だからイエスさまは嘆かれたのです。そしてそれが不信仰の態度であったというわけです。もしこのようにイエスさまの奇跡や知恵を見て信じられないことが不信仰だったとすれば、それでは信仰的な態度というのはどういうことなのでしょう。それは、目に見たことをそのまま信じることです。語られたことをそのまま信じることです。そして、そこで起きたその人たちの生き方が変えられていったことをそのまま喜ぶことであります。人が変わるとは、その人自身の中で既に言葉が響いていることです。それが奇跡なのです。イエス・キリストを信じるとは、そのような新しい関係に開かれていくということであります。そしてそれがしがらみから解放されて神の国に生かされるということであります。イエスさまが私たちの所に行って来てくださったというのは、つまりそのように私の生き方を変革して、前を向いて一緒に歩んでいこうというそういう招きであるのです。

私たちは生きている間に様々なしがらみや関係性の中で囚われてしまったりすることがあります。イエスさまを信じていきたいけれど、生き方を変えていきたいけれど、難しいなと思ってしまうこともあると思います。過去の習慣、関係から抜け出るということは簡単なことではありません。どうしたらよいのでしょうか。したくてもできない。これもまた不信仰ということになってしまうのでしょうか。

私はそうではないと思います。ナザレの町も不信仰だったと書かれています。あまり奇跡をなさらなかったともあります。「預言者が故郷では尊ばれない」と言うのであれば来なくても良かったのにと思います。しかし大切なのは、でも奇跡がまったく起きなかったということではないのです。少しはイエスさまとの出会いで生き方が変わった人がいたのです。ここに目を留めたいです。私たちも色々な関係の中で難しい現実もあるでしょう。しかし、イエス・キリストはそんな中にいる、変わることが難しいけれど心にモヤモヤを抱えながら生きている私たちのところに来てくださる。そして一緒に歩んでいこう。あなたが必要なのだということを伝えてくださっているのではないでしょうか。それを伝えるためにイエスさまはナザレに帰って来られたのです。イエスさまはどんなところにいる人にも私たちがどんな状況にいようとも、イエスさまはナザレのようなところにいるわたしたちに目を注いでくださいます。私たちはこのイエスさまの招きに応えて、関係を新たにして歩んで参りましょう。