〇聖書個所 マタイによる福音書 13章31~35節

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いて、たとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

 

〇宣教「諦めるな。すべてはからし種の信仰から始まる。」

今日の聖書箇所は、「天の国」についてのイエス・キリストの譬え話第3弾「からし種」と「パン種」の譬えです。この二つの譬え話は、それぞれ別々の段落で語られていますが、同じ内容として読むことができます。からし種については、先々週の「種蒔き人の譬え」と先週の「毒麦の譬え」に引き続く「植物の種繋がり」で語られますが、パン種の種は、ひっかけ問題です。パン種とはパンを膨らませるイースト菌、つまり酵母のことであるからです。3つの植物の種に関するお話の後に「パン種」という表現を持ってきているのはイエスさまのユーモアの一つなのかもしれません。

「からし種」は日本語だと一つの単語のように聞こえますが、正確には「からしのたね」です。ギリシャ語でも一つの単語ではありません。この「種」という言葉ですが、前回までの種蒔き人や毒麦の譬えでは、スペルマという単語でした。これは一般的に使われる「種」という言葉です。ところが「からし種」には、コッコスという言葉が使われています。コッコスは厳密にいうと「種粒」です。つまりからし種とは普通の種とも認識されないほどに非常に小さな種粒のことであります。1円玉と比較している絵がありました。そうするとその小ささが分かります。米粒よりも数倍小さいです。当時イスラエルには様々な品種のからしがあったようですので、もしかして大きなからし種もあったのかもしれませんが、イエスさまが敢えてコッコスという言葉を使っていることを考えると、強調したいポイントはどの品種かではなく、「種粒」であることです。

つまり言いたいことは、この小さな種粒を蒔くとその種の大きさからは想像も出来ないほどに大きく強く成長して、その枝はどんな野菜よりも広く大きくなり、空の鳥の巣が作れるほどになるということです。ちなみに、このからし種の木というものは何メートルもの高さに成長するそうです。要は、取るに足りないような小さなものが想像を超えるはるかに大きなものになる、それが天の国であると言うわけです。

これに続けて語られているパン種の譬えも同じことを言っています。私はあまりパンを作ったことがないので知らないのでご存知の方に教えてほしいのですが、多分パン種と言われる酵母も微生物の一種であるので、それ自体は肉眼では確認できないほど小さいものなのではないかと思います。代表的なパン種と言えばイースト菌です。今はドライイーストも市販されていますが、あれもイースト菌そのものと言うよりもイースト菌のついた何か、ということだと思うのですが合っているでしょうか?

しかし、そのパン種の中には目には見えないほど小さなパン種が生きている。これを粉の中に入れると発酵して大きくなるわけです。ところでここでは三サトンの粉という指定があります。一サトンが約13 ℓという単位ですので、約39 ℓ という膨大な粉です。小麦粉1リットルが500グラムだそうです。39ℓものパンを作る。つまり約20kgの小麦粉です。これを作るためにはどれくらいのパン種が必要になるのか、私にはまったく想像もできません。しかしそんな膨大な量の粉をも膨らませることができるようになるのがパン種であると言うのです。そしてそれが天の国であると言います。

さてそれでは皆さんは天の国がどういうところかがお分かりになりましたでしょうか。実は私はこの譬え話では正直、天の国がよく理解できていません。言いたいことはわかるのです。それは目には見えない、取るに足りない小さなものが用いられて大きくなっていくこと、或いは全体に影響を及ぼして実を結ぶということです。しかしそれが天の国ってどういうことなのでしょうか。

私は天の国と聞くと、ある特定の場所を想像してしまいます。もし、仮に天の国というのが天国、つまり私たちが地上の生涯を終えてから入るところをイメージするのであれば、天の国が広がっていくというイメージはいまいちよくわかりません。むしろ私のイメージでは天の国は初めっからだだっ広いところであるのです。皆さんは、天の国をどのようにイメージしておられるでしょうか。私は開放的で広い場所にそこに色々な人がいる。共にいると言ってもぎゅうぎゅう詰めのわけではなく束縛されることもありません。すべての人が平和に共にいることができ、憂いなく、それぞれの自由を満喫できるオープンスペースを私は天の国として想像しています。もちろんこれも勝手な想像にしかすぎません。イエスさまは天の国を譬えでは語りますが、残念ながらそれが具体的には語られないからです。この譬え話を直接聞いていた人々もまた、頭を悩ませながら聞いていたのではないでしょうか。それでは私たちはこの譬え話から天の国をどのようにイメージすれば良いのでしょうか。

もしかして、ここで言われている天の国が拡がっていくイメージであるとするならば、それはどこか特定の場所のことではないのでしょう。文字通り考えると、「天の国」とは「神の国」のことであり、「神が王として支配される王国」のことです。しかしその王国が果たしてどこにあるのかと言えば、それはどこか場所のことではなく、交わりの中、つまり神戸教会が大切にしている「神の国は『』ここにある。』『あそこにある。』と言えるものでもなくい。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)ということ、つまり神とわたしたちとの関係性に他ならないのではないかと思うのです。

私たちはどうしても天の国と言うと土地と言うイメージが先行します。でもそれがそもそもの間違いだということが、旧約聖書から明らかです。というのは、旧約聖書にはイスラエルの民がエジプトから出て神が与えられる約束の地に入るという歩みがあります。彼らにとってはそこが天の国になるはずでした。ところが、その約束の土地に入ったものの、民衆はすぐに神を捨てるという罪を犯し、その結果、彼らはその約束の土地を追われることになったからです。その土地は神の国にはならず、人々はギリシャ世界や世界各地へと散らされていきました。しかしながら神は依然として彼らの神であり続け、約束の地にいなくても彼らを支えられ続けたのです。

神は人々を再びご自身の元へ導くためにイエス・キリストを与えられました。しかし人々はイエス・キリストを十字架で殺し、神の御心をふみにじりました。ところが神はイエス・キリストを復活させ、人々に聖霊を与え、人々はそれぞれのところに出かけていって教会を作りました。イエスを主と信じるもの、これが新しいイスラエルと呼ばれるものです。このように考えると、天の国とは土地のことではなく、神が私たちと共におられるという関係性によって示されるのではないかと思います。まさに「私があなたがたの神となり、あなたがたは私の民となる」と約束されたとおりであります。そしてイエス・キリストは「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」という言葉を通して今も天の国を私たちに示してくださっています。

このように考えると、今日の譬え話が途端に見えやすくなります。私は今日ここから二つのことを考えてみたいと思います。一つ目はイエス・キリストがわたしたちのからし種であり、わたしたちのパン種であるということです。二つ目は、私たちに与えられている信仰がからし種であり、パン種として周りに影響を与えていくということです。

まず、一つ目、イエス・キリストが私たちのからし種であり、私たちのパン種であるということです。イエス・キリストの福音の第一声「悔い改めよ、天の国は近づいた。」それは神の側からの一方的な出来事であります。そしてイエスさまは私たちと共におられると約束してくださいます。ところが、それは傍目には何の力もないこと、小さなこと、取るに足りないことのように思えるものであります。イエスさまを信じたって奇跡が起こせるようになるわけではありません。しかしながらそれを信じる私たちにとってはそれはとてつもない大きな出来事になっていくものであり、ここに奇跡が起きていくのです。それはまさに「信じる者は救われる世界」なのです。しかしこう聞くと反応的に「じゃあ信じない者は救われないのか」という反対意見が出ることがありますが、そもそもそれは救いを誤解しています。それはまさに天の国を土地や場所に求める人の考え方です。大切なのは信じる者の心の中に起きる出来事であるのです。つまり、イエス・キリストが共におられるということがわたしたちの心の畑に蒔かれパン種として息づくことになるとき、それは私たちの希望であり感謝と喜びの源になるのです。

ちなみに、種はまさに地に蒔かれて死ぬことによって新しい実を結ばせます。しかしパン種は死ぬのではなく、粉の中で生きて働いていく時に増えていくものであります。イエス・キリストが私たちのために死なれたこと、あるいは共に生きてくださること、そこにイメージの違いはありますが、大切なことはイエス・キリストが私たちに働きかけてくださるときに私たちのいのちは息づいていくのです。

言い換えるならばイエス・キリストがわたしたちの心に生きていてくださるからです。それは超自然的なことではなく、むしろ実感的体験的個人的なことであります。イエス・キリストが私たちのために命を惜しまずに最後まで愛し抜かれた。それは神が私たち一人一人を必要な存在として、大切な存在として、世の光として認めてくださっているからだということなのです。これが私たちに与えられた福音であります。それが拡がっていく時に、二つ目のこと繋がっていきます。

二つ目のこと。それはからし種やパン種が私たちであるということです。「からし種」という言葉を聞いて思い出す聖書個所に「あなたがたにからし種ほどの信仰があれば山をも動かすことができる」があります。(マタイ17:21)もちろん山を動かしたって何の意味もないのですが、しかし私たちがイエスさまを通して与えられた「からし種一粒の信仰」を心に持ち、それを用いていく時に、まさに山という困難をも動かすことができるようになるのです。

イエスさまは何故、からし種とパン種の二つの譬え話をもってこれを伝えようとしたのでしょうか。私は理由があると思います。実はパン種の話を見ると、「女がこれを取って粉に混ぜる」と書かれています。これを見ると女性は家事をするものと言うような家父長的な意図が読み取れるように思います。しかし実はからし種の話を見てみれば「人がこれを取って畑に撒けば」という「人」という言葉は「男」のことです。ですから、ここは性差があるとか性別によって作業内容が決められているということではなく、むしろ労働と家事が一体であり協力して行われる日常的な生活の中で、一人一人がなしていることの中に神の国が紡がれていくということです。

つまり大切なことは、男性も女性も人はすべて、この労働と家事という、一見終わりのない徒労のように見える日々の営みの中で小さなことしかできていないように感じることがあるかもしれません。しかし、からし種はそこで増え広がっていくということなのです。そして、自分に与えられている思いを日常生活の中で、一人で心にしまっておくのではなく、共に分かち合っていくときに、天の国は増え広がっていくということなのです。

私たちに置き換えてみれば、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉の通り、私たちがどんなに小さな力だったとしても、自分に与えられた思いをそこで隣人と共有しながら生かされて行く時に、この社会、この世界は必ず変えられていくのだ。あなたたちにはそのような力があるんだ。あなたたちは小さな力しかもっていないと考えて、諦めてしまったりするかもしれないけれど、あなたには無限の可能性があるのだ、大丈夫だ。諦めるな。私は世の終わりまであなたと共にいるのだからということをイエスさまは言っているのではないでしょうか。私はそれが天の国、神の国であるとイエスさまは語っているように思えるのです。この希望に私たちは喜びと感謝が溢れていくのではないかと思います。

イエスさまの譬え話を聞いていた人々は、どういう人であったのでしょうか。それはまさに助けを求めていた人たちであったと思います。神の国なんて自分のところに来るわけがない、いやずっと願っていたけれど、ずっとその期待に裏切られ続けてきた人であったとも言えるかもしれません。そんな人々は、疲れすぎ、心がマヒして、神の国がいついつ来るかなんて言う話は、もう聞こえないようになっていたのではないでしょうか。しかしイエス・キリストは、ここで譬えで語ることを通して彼らにからし種を希望として希望を残したのではないかと思います。

35節にこうあります。「私は口を開いて譬えを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」 この言葉詩篇78編からの引用であり預言の成就と言われています。

天地創造の時から隠されていたこととは何でしょうか。天地創造の時に示されたのは生きとし生けるものは、「すべてよかった」という希望と祝福の言葉でした。つまりすべてのいのちは神によって必要とされ造られたものであり、一人一人に与えられている個性を調和させながら共に生きていける世界であったのです。また、その世界は神が人と共に暮らしておられた世界です。それでは、その時に神さまが示されなかったことがあるのでしょうか。

神さまがずっと人々にひた隠しにしていることがあったんでしょうか。確かに「園の中央にある善悪の知識の木からは決して食べてはいけない」といいました。でも、それは秘密にしていることではありません。むしろそれが秘密なのであれば人はそれに逆らって食べてしまっていますから秘密でも何でもありません。もしかしてこれは、神が天地創造の時にすべてのことを明らかにしていたけれど、そのときから次第に隠されて行ったことがあるということではないでしょうか。まさに人が神の言葉から離れたことで、エデンの園から追放されたように、むしろ人間が自らその神の御心を自分たちの善悪の知識によってみえないように隠していったのではないかと思います。

しかしそうだとすると、つまりイエスさまがこの譬えを用いて人々に語ろうとしていることは、人々が隠したことを告げるということ。つまり、再び神の御心を語るということなのではないでしょうか。

それが、あなたがたのいのちはからし種でありパン種である。あなたがたは隣人と共に生きていける力をもう既に与えられている。あなたのいのちに与えられている尊厳は誰も決して脅かすことはない。私があなたを創造したからだ。そしてあなたがたは「平和を実現していける」。その道は困難かもしれないけれど、大丈夫だ。私はあなたと共にいる。そして私に従ってきなさい。そのために私は来たのだ。それが天地創造の時に神さまが既に約束してくださっていたこと、わたしたちが忘れてしまっている神の約束、伴いの約束なのではないでしょうか。 イエス・キリストはわたしたちにそのことを啓示するためにこの世に来て、私たちの心に今も住み続けていてくださるのです。