〇聖書個所 マタイによる福音書 13章1~9、18~23節

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 

〇宣教「それでも種蒔き人は種をまき続ける」

先週の聖書箇所まではイエスさまが起こした奇跡についてファリサイ派の人々や律法学者と論争を繰り広げる場面のお話を見て来ましたが、今日の聖書個所からはイエスさまの教えが始まります。1節にある「その日」という日がいつの日かはわかりませんが、前の節までの出来事との関連が終わったという意味があるように思います。イエス・キリストは、まず「種蒔きの譬え」を通して人々に教え始められます。イエス・キリストは譬え話の名人だと言われますが実にたくさんの譬え話を語られました。その中でもよく使われるモチーフは「羊や羊飼い」、「ぶどうの木やいちじくの木」、あるいは「家族の物語」など、聞いている人々の日常生活に関わりのあるものが多くありました。その中でも最も多く使われたモチーフの一つが「種」についてでした。13章には他に、毒麦の種、辛子種、パン種(これは種そのものではありませんが)これらについて語ります。ここまで「種」について語れるなんて、もしかしてイエスさまは畑仕事や庭いじりが趣味であったのかと思うほどです。イエスさまの故郷であるガリラヤのナザレ、また住んでおられたカファルナウムという町は確かに水源豊かなガリラヤ湖の近くにありましたから、乾燥地帯でありながらも緑は豊かだったのかもしれません。

イエスさまが語る「種蒔きの譬え」は、非常にわかりやすい内容になっています。「種蒔き人が種を蒔いた。その蒔かれた種は色々なところに落ちた。道端に落ちた種は鳥が来て食べてしまった。石だらけのところに落ちた種は根が伸びず枯れてしまった。茨のあいだに落ちた種は芽を出したが茨が塞いで成長しなかった。良い土地に落ちた種は30倍、60倍、100倍の実を結んだ。」そして「耳のある者は聞きなさい」。つまり「この譬え話をよく考えてみなさい」と人々に語られるのです。

この話を改めて読んで私がまず考えたことは、何故種はそんな色々なところに飛んでいったのだろうかということでした。もし今私たちが農家になるとしたら、種を蒔くときに最初に考えることは、どうしたら少しでもたくさんの収穫が取れるだろうか。しかも効率的に収穫できるだろうかということだと思います。種だって無制限にあるわけじゃないですから、無駄に出来る種なんて一粒もないわけです。そのように考えると、一体この種蒔き人は何を考えてどのようにして種を蒔いていたのでしょうか。もしかして何も考えずに畑に向かって種をぱ~っと撒き散らしたのでしょうか。ちなみにこの聖句を元にジャン・フランソワ・ミレーという画家が「種を蒔く人」(1850年)という有名な絵画を描きました。その絵を見ると、畑の畝沿いに歩いて種をパラパラと落としていくような感じのように見えます。確かにぱぁ~っと蒔くよりも効率的なやり方だと思います。でももしイエスさまの当時もそのように行われていたのだとしたら、やっぱりなんで種は色々なところに飛んでいったのかということが疑問として残ります。これは譬え話ですから、種蒔き人の種蒔きの仕方についても考える必要があるのでしょう。

ちなみに18節以降で、イエスさまが弟子たちに対してこの譬え話について説明しています。その説明を簡単に言うとこういうことです。つまり、「蒔かれた種とは御国の言葉である。そして種がまかれた土地とはあなたがたの心である。つまり種蒔きは福音宣教なのです。そして道端とは、落ちた種が根付かず、悪い者が来て取ってしまうところのことである。悪いものとは悪意を持つ者ですから、福音を聞いても受け入れようとせず、はねのけてしまう人のことだと言えるでしょう。石だらけの土地とは、石が艱難や迫害を表すので、それに躓いてしまう人のことでしょう。確かにどっしり根差していないとすぐに信仰を失ってしまいます。茨の土地では根は降ろしますが、成長していく段階で、世の思い煩いや富の誘惑が茨として出てきて覆ってしまい、それ以上大きくなることはできないということです。それに比べて、良い土地とは御言葉を聞いて悟る人のことであり、30倍、60倍、100倍の実りを得る」というわけです。わたしの父が今、新潟でコメを作っていますが、収穫の時に一本の稲からどれくらいのコメが取れるか数えてみたところ、本当に30,60,100という単位であったと言っていました。親父の言うことなのであまり信用していませんが、もし本当にそういう意味だとしたらすごいと思います。

さて、この譬え話の説明もまた非常にわかりやすいと思います。確かに福音を聞いてそれをどのように信じて行くか、生きていくかということは重要なことです。これこそ信仰が問われています。私たちは神さまの言葉をしっかり受け入れて、信仰に根を張って土台をもって誘惑なんかにブレることなくまっすぐ生きていきたいと思うものであります。またそれによって豊かな実りを得たいとも思います。

イエスさまが弟子たちにこの譬えの説明をされた理由もそうだったのではないかと思います。「あなたたちは私の言葉から離れないでいなさい。これからも私を信じて行きていきなさい。そうすれば、あなたがたは多くの実を結ぶ。」ヨハネ15章5節「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしに繋がっており、私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」を連想させる言葉です。

ところで皆さんはこの譬え話の説明を聞いてそれでは自分はどんな土地だったと思われるでしょうか。皆さんの中で「よかった。私は良い土地だったわ」と思う方はどれくらいおられるでしょうか。それよりは、恐らくご自身のこれまでの歩みを振り返って、自分の人生は石だらけだったとか、誘惑ばかりだったと思う人の方が多いのではないでしょうか。わたしもそちら側に入ります。神さまを信じていても、なかなかうまくいくことばかりではないのが人生です。神さまによって希望が示されてなんとかやってきたと思いますが、しかし私の土地は石もあり茨も生い茂っています。むしろ良い土地に蒔かれたような人とはどんな人なのかが気になるくらいです。信仰深く、人にやさしく、何の不安もなく、なんでも祝福されているような人でしょうか。イエスさまはわたしたちにそんな風になりなさいと言っておられるのでしょうか。

私はここに少し疑問を感じます。もしイエスさまが、「あなたがたは良い土地になりなさい。」と語っておられるのだとしたら、他の3つの土地についてはどうなのでしょうか。悪意を持っている人々、艱難や迫害の中でイエスさまを信じられない人々、世の思い煩いや誘惑があってイエスさまから離れていってしまった人々については、「残念だけれども福音の種が届かなかったんだね。彼らは実を結ぶことができないね。彼らは不幸だね。」と言っているのと同じになってしまわないでしょうか。そもそももし私たちが石だらけの土地や茨の土地であったとしたら、種まき人は種を蒔く前にその土地から石や茨を取り除くことが責任としてあるのではないでしょうか。

また弟子たちに対してだけこの譬えの説明が加えられたということにも大きな疑問があります。もしかして弟子たちは「良い土地」だけど、群衆たちは道端や艱難や迫害、誘惑の中にいた者が多く「悪い土地」だったので、イエスさまはたとえ話を話すだけで終わりにされたのでしょうか。それは、弟子たちと群衆を差別しているように思えます。今日は読みませんでしたが、確かに13:14節にはいわゆる「頑迷預言」というものがあります。それは、人々は聞いても見ても信じないから真理の解き明かしは行わず譬え話だけを語る。それは預言の成就だというものです。

でも、これは文字通りに読むとやっぱりひどいと思います。なんでイエスさまは人々に公平に接しようとしなかったのでしょうか。イエスさまは群衆のような人々をこそ愛されたのではないでしょうか。イエスさまはそこからブレてしまったのでしょうか。そうではないのでしょう。ここには何か意図があるはずです。私は今、その意図についてこう考えています。つまり私たちはその解説を聞くとわかったような気になって考えることを止めてしまいます。まさに聞くだけで終わってしまうのです。でも、説明をされない譬え話と言うものはいわば「もやもやの種」として人々に蒔かれるものであります。そうすると、その種は簡単には頭から消えずに残るものになるのではないでしょうか。人間はもやもやから早く逃れてすっきりしたいと思うものですが、もやもやがなくなってしまうとそれ以上考えることをしなくなってしまいます。心に引っかかりとして残り続ける方が、深い真理に辿り着くのです。イエス・キリストの言葉もまた同様です。すっきりすることばかりではありません。でもそのように蒔かれた種を心に守り続ける時に、根を張っていくのだと思うのです。つまり譬え話を自分の事柄としていくことがより大切なのです。ですからイエスさまは人々のためにあえてこの説明しなかったのではないかと思うのです。

この譬えが語られた人々というのは、イエスさまの御許にやってきた大勢の群衆と書かれています。どれくらいの人がいたのかはわかりませんが、多分祭司の家系やファリサイ派などではなく普通の無学な人たちが多かったのだろうと思います。ここにそもそもの違和感があるのです。イエスさまは無学で弱い、飼い主のいない羊のような人々を愛され憐れまれたのだからです。弟子たちにだけ特別になんてしません。もしかして弟子たちはそのような特別待遇を得たいと思っていたかもしれませんが、自分たちはイエスさまの弟子だから「良い土地だ」と思っていたとしたらそれは大きな間違いです。

私はむしろこの譬え話が福音であるのだとしたら、本当にこの種を必要としているのは、何の手入れも必要ないような良い心の持ち主ではなくて、むしろ道端のような、石だらけで茨が生い茂っているような心の人だと思うのです。そして、実にイエス・キリストはそのような方々に会いに行かれた方なのではないでしょうか。イエス・キリストはそこからはブレません。ですから私たちにとって大切なのは、この譬え話の説明の通りに生きていくことよりも、むしろそんな中で疲れ果て、弱り果て、虐げられ、目の前の色々な誘惑に魅せられてしまうような私たちに対してイエス・キリストは福音の種を蒔き続けているということを大切に受け止めたいのです。

ですから、私にはこの種蒔き人があえて色々な土地にも福音が届くように種をまき続けているようにしか思えないのです。この種蒔き人は、道端や石だらけのところや茨の中にいる人たちを見捨てて、たくさんの収穫を得るために良い畑のところにばかり力を注ぐのではなく、むしろ諦めないで、戸惑いや苦難や誘惑に陥りやすい私たちのために、それでも種を蒔き続けてくださっている方なのです。

私はむしろ、イエスさまは道端に咲いた花を愛された方であることに目を留めたいのです。「野の花を見なさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイ6:28-29)この花は名もない小さな花だと言われますが、私は最近道路の側溝などに咲いた小さな、しかしそのしぶとさにほとほと敬服する雑草の花のことなのではないかと感じています。その花々の美しさは、色づきの美しさではなく、しぶとく負けないたくましい生命力です。神は私たち一人一人が様々な環境の中でも生きていけるように御言葉を下さるのです。それは、神が私たち一人一人を愛し、私たちに伴っていてくださるということに他なりません。

またこのように聖書を読むと、この「福音の種とは何か」を考える必要があります。それは信じる者は救われるというような福音ではなく、そのような様々な状況の中で生きている人々に対して、神は常に目を留めて頑張れと励ましとあなたはよくやっていると慰めをエールを送ってくださっているということなのではないでしょうか。ある教会はコロナ禍でそれまで地域の方々に「教会の集会に来てください」と書いていた手紙を、「皆さまに神さまの祝福と守りがありますように」とか「神さまはあなたの尊い働きを応援しています」と発信する手紙にしたそうです。福音宣教の転換、これを私たちもまた見ていく必要があるかもしれません。その場合、この種蒔き人が願っている私たちが結ぶ実というものは、私たちがその福音という湧き溢れる泉の水を受けてそれぞれの場所でそれぞれの花を咲かせるということなのではないでしょうか。これがイエスさまの言葉に繋がるということなのです。