〇聖書個所 マタイによる福音書 12章33~37節

「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

 

〇宣教「あなたの心に満ちているものは何か」

今日の聖書箇所は、新共同訳聖書では「木とその実」という小見出しがあるので独立したお話しのように思えますが、実は口語訳聖書では先週の聖書個所と同じ段落の中にあります。私は今日、この箇所は口語訳聖書のように先週の箇所と連続した話として読みたいと思います。つまり、「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実でわかる。」と語られている人々は、イエス・キリストの聖霊による悪霊の追い出しを認めることができず、「悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出した」と非難したファリサイ派の人たちであるということです。

実は私は先週の宣教の中で、「イエス・キリストは裁くために来たわけではなく人々に伴うために来られた。だから、この箇所でファリサイ派の人々に向けられている言葉も、聖霊の働きを共に喜ぼうよと招いておられるように感じる」とお話ししました。ところが、今日の聖書個所をざっと読んでみると、「蝮の子らよ」と呼びかけられていたり、「あなたたちは悪い人間であるのに」と言われていたり、裁きの日には「あなたは自分の言葉によって罪あるものとされる。」と言われていたりすることを考えてみると、ここではイエスさまはかなりお怒りで、まさに裁きの香りしか匂ってこないように感じられます。まるで私が先週お話ししたことは勘違いであるかのような、正反対の断罪のイメージがあります。

つまり今日の箇所を文字通り受け取るとしたら、ここでイエス・キリストが語っているのは、「お前たちが言ったことはもはや取り返しのつかないことだ。残念だが、お前たちは聖霊を冒涜する罪を犯した。自己責任だ。お前たちはこの世でも後の世でも許されることはない。」と言うことのように聞こえるのです。「木が良ければその実も良い。木が悪ければその実も悪い。木の良し悪しはその結ぶ実でわかる。」というのは、木の結ぶ実というものがその人の言葉であり行いなのだとしたら、あなたたちの実が悪いのは、その木、つまりあなたたち自身が悪いからなのだ、と言っているようにしか聞こえないのです。しかし、イエス・キリストが本当にこんな情け容赦のない裁きを下すのでしょうか。

確かに他の聖書個所にはあります。例えばバプテスマのヨハネは「悔い改めに相応しい実を結べ。斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り落とされる。」(マタイ3:8,11)と言っています。またイエス・キリストもぶどうの木の譬えで、「わたしはぶどうの木、私の父は農夫である。私に繋がっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」(ヨハネ15:1-2)と言われます。それでは、イエスさまもヨハネと一緒で、それでは、あなたたち悪い木はもう駄目だと言おうとしているのでしょうか。

私にはそうは感じられません。確かに耳に痛い厳しい言葉ではあります。しかし私にはやはりその人たちを嘆き悲しむ言葉に聞こえるのです。つまりイエスさまがここで伝えようとしておられることは、やっぱり「何故、あなたがたは見ても信じることができないのか、なぜあなたはこの人の癒しを喜ぶことができないのか」ということだと思うのです。確かに表面的には感情的な言葉がイエス・キリストの口から出てきています。そしてここにはそう言われても仕方のない人の姿が描き出されています。しかし、私にはどうも、イエス・キリストが「人の口からは、心に溢れていることが出てくるのである。」と語るように、あなたがたが何故今目の前で起きていることを認められないのは、もしかして今あなたがたの心に何か悪いものが入り込んでいるのではないのか、ということをイエスさまが指摘しておられるのではないかと思うのです。

実は私がこの宣教を準備する中で、とても心に残った言葉が、この「人の口からは、心に溢れていることが出てくるのである。」という言葉でした。人の口から出る言葉が心に溢れていることだとしたら、つまり私たちの行いや言葉という実は、私たちの中に溢れているもの、私たちの心の中に満ちているものによって変わるのです。確かにこれはわかります。何故ならば、口からは思ってもみないことは出てこないからです。むしろいくら上手に建前で隠そうとしてもつい本音が出てきます。失言と言われることの多くは表に出せない本音なのです。これが私たちは口だけではなく態度にさえ現れてしまうということがあります。例えば私たちは自分自身の心が幸せな時や安定しているときは自然と人に優しくできるものですが、不安やストレスがある時は不機嫌さが伝わってしまうものです。確かに私たちの心がどのような状態か、どのような思いに満たされているかということが重要であります。

実はわたしは、子育てを通して、このことを本当に今一番の課題として感じています。自分の心が落ち着いているときは子どもが多少いたずらしたり、わがまましたりしても気にならないのですが、余裕がないときは、子どもたちに悪気がないことはわかっているにもかかわらず、受け止められず雷を落としてしまうことがあるのです。あとから反省してごめんねと言うこともありますが、そのいっときはどうしても我慢できない、もう私自身の理不尽な感情のはけ口にしてしまっているということを感じます。本当に親失格だと思いますが、恐らくそのような経験があるのは私だけではないと思います。人は思い描くような完ぺきな人間にはなれません。それは人は様々な環境から影響を受けて生きる者であるからです。でも、開き直るわけではありませんが、それを実感しながら、生きているのです。それをもって木が悪いと言われても仕方ないと思います。

でもそう考えると、木自体がどうこうと言うよりは、その木が根差している状況が重要だと思えるのです。確かにその木自体が悪いということもあるかもしれませんが、その木が悪くなる原因というものは多くの場合、その木に入り込む栄養が問題です。つまりその木が根差している土壌であったり、その木が置かれている環境だったりするのではないかと思います。そういうことを問わずにイエス・キリストは裁きを伝えるものでしょうか。私にはそうは思えません。むしろこういう時に、私の中でイメージされるのはルカ13:6-9にある「実のならないイチジクの木」に出てくる園丁です。お読みします。

「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカ13:6-9)

ここでも確かに木を切り倒す話は出てきますが、それ以上に心に残るのは、園丁の存在です。この園庭が実をつけない木のために土壌を改良したりしてできる限りその木が実を結ぶことができるように一生懸命手を加えてみるということが慰めなのです。この箇所ではこの園丁はまさにイエス・キリストの姿であるわけですが、私は今日の箇所でもそのイメージを持ち続けることができます。

つまり、イエス・キリストは、私たちの心を支配しているものは何なのかということを問いかけ、そこから解放されるように気づきを与えられるということなのではないでしょうか。私には、やはりイエスさまはここでこのファリサイ派の人たちの頑なな心を悲しみ、そしてその心に寄り添われようとしているように思えるのです。

それでは、一体このファリサイ派の人々の心に満ちているものは何だったのでしょうか。イエス・キリストへの敵意でしょうか、妬みでしょうか。憎しみでしょうか。私が思うにそれらは恐らく表面的なものであって、イエス・キリストの癒しを見て、ふと湧き上がってきた感情なのではないかと思います。原因そのものではなくきっかけであった。それよりももっと根本的な問題が彼らの中にあったのではないかと思うのです。と言うのは、彼らの心がもし満たされていれば、イエス・キリストの癒しの業を共に喜ぶことはできなかったとしても、癒された人のことは喜ぶことができると思いますし、さらにはイエス・キリストを攻撃するまでには至らなかったのではないかと思うからです。

彼らには満たされていない思いがあったのではないでしょうか。彼らの心にはどんな思いが満ちていたのでしょうか。これは完全な憶測ですが例えば、「何故イエス・キリストばかり尊ばれるのか。私だって律法という神の教えを守って生きているのに。なぜ私には悪霊が追い出せないのか。なんで神さまは私にそんな力を与えてくださらないのか。あるいは追い出せたとしても、みんなあいつの方に行ってしまう。だれも私のことを顧みてはくれない。私だって神の言葉を守りその働きをしているのに。」彼らの相手の幸せを喜ぶことができない感情があるということに私もとても共感できます。というのは、私はとても心の狭い人間だからです。イエスさまに対して嫉妬する思いなんて超共感できます。でもその原因は、イエスさまにあると言うよりも、往々にして自分自身と神との関わりに返ってくるものであると思うのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。」と言われても、「なんで神さま、私はいつもこうなのですか、あの人とは違うんですか。」と他の人と比べてしまい、自分を受け入れられないということがあるのです。でも、そんな時に思うのです。私は神さまの恵みに本当に生かされているのだろうか。

もしかして、神さまとの関係の中で満たされていない思いを他の人の称賛とか、それ以外のもので満たそうとしているのではないか。ファリサイ派の人々も、どうでしょうか。彼ら自身は本当に神の言葉に生かされていたのでしょうか。もし彼ら自身もが神の言葉に満たされていれば、こうは思わなかったのではないかと思うんです。むしろ彼ら自身、「律法」という教えにがんじがらめにされていて、律法順守はするけれど、神の言葉に救われていたわけではなかったのではないかと思うのです。

彼らは神の言葉に満たされていなかった。だから、こういう一つのきっかけで、劣情というか引け目というか妬みというものがムクムクと湧き上がってきたのではないかと私は感じます。

だからこそ、このイエス・キリストの言葉が今響くのです。「あなたの心に満ちているものは何か。」これがファリサイ派の人々にどのように響いたかはわかりません。しかし、今この言葉が彼らの姿を通して私たちに響いてきます。私たちの心は何に満たされているでしょうか。私たちは心が良いもので満たされることを望みます。しかしそれがかなわない時、私たちは自然と悪いものが心に入ってきます。私たちは良いものを得ようと思いながら、それが得られない時、違うもので心を満たそうとしてしまうからです。しかしながら、それを聖書はハマルティア、「的外れな生き方、すなわち、罪」だと言います。つまり神の愛ではない他のもので自分を満たそうとすることです。ファリサイ派の人々にとってはそれが律法であり、律法を順守する正しい自分ということであったのではないでしょうか。そして自分が本当に満たされているわけではなかったから、相手のことが許せなかったのです。しかしそれは相手を裁くことだけで、自分が満たされるわけではありません。むしろ、神の愛に満たされること。聖霊の働きを共に喜ぶこと、そしてその聖霊に今私たちも触れられているということを感じることが、私たちに向けられている神の愛への気付きに至り、私たちが満たされることに繋がるのです。

先ほど子どもメッセージでお話ししたペトロもそうかもしれません、彼は、イエスさまを知らないと言うまで、自分で良い実を結ぼうとして、自分は何があってもあなたに付いて行きますと言いました。これは自分で自分を義とすることです。しかし、彼は自分の力ではそれを行なうことはできませんでした。これは言うなれば悪い木の悪い実に他なりません。しかし、復活したイエス・キリストはそんな彼を見捨てることはしませんでした。そうではなく、そんな弱さを持った彼を赦し、そんな彼に遣わされたのです。自分で自分を誇るのではなく、無力な自分がその弱さの中に働くイエス・キリストにあって赦されたときに、そのいのちの回復、まさに復活が起きるのではないかと思うのです。

今、私はこの言葉から問いかけられています。神の前に無に等しい自分であると言いますが、その実は自分の行いによって正しい者になろうとはしていないでしょうか。そんなとき、私たちはファリサイ派の人々になろうとしています。そうではなくむしろ、自分が謙りというか、完全に打ち砕かれたとき、ペトロが自分自身に絶望し激しく泣いた後、復活の主が出会って慰めてくださったように、そこから私たちのいのちの復活が起きるのです。罪深い自分をあるがまま赦し受け入れてくださるために、イエスさまがこられたのだということに感謝したいと思います。イエスさまは今日も私たちを愛し、寄り添おうとしておられるのです。