〇聖書個所 ローマの信徒への手紙 15章7~13節

だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、更に、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

 

〇宣教「希望の源である「わたしたちの神」」

本日の宣教題は「希望の源である『わたしたちの神』」とさせていただきました。教会員の方はもうすでにお気づきのことだと思いますが、今日の聖書箇所の13節は、今日礼拝後に行われる総会で、神戸バプテスト教会の2021年度の年間聖句にしたいと考えている箇所です。もう一度お読みします。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」今回、年間聖句にこの言葉を選ばせて頂いた理由は、「私たちの希望は主イエス・キリストにこそあるということ。私たちはこの主イエス・キリストにある希望に生かされ、この希望をこそ語っていきたい」と考えているからです。

何故私たちがこの希望を今年度確認していきたいかと言うと、やはり昨年から始まった新型コロナウイルスの影響があります。コロナによって私たちの日常生活は大きく変わりました。感染不安の中、自分の身を守るためにマスクをし、自粛に次ぐ自粛、友人や知人と出会い交わることさえ控えるようになりました。いつ感染が収束するかわからない中で、次第に心にも体にも疲れを感じてきています。わたしたちはこの一年、特にずっとこのコロナの収束を祈ってきました。しかし、残念ながらまだまだ収束には至っておりません。それどころか緊急事態はさらに延長される中にあります。

私だけではないと思いますが、この間私は「なんで神は私たちの祈りを聞いてくださらないのか」と思うことがありました。それが私だけの祈りであればともかく、この祈りはキリスト教会だけでなく、全世界に生きている人々がそれぞれの神や仏に共に祈っていることでもあるのです。全世界が共通する一つの事柄を祈ることなんて、これまであまりなかったのではないかと思います。ところがなんと神はその私たちの祈りに対して、今のところ解決へは導いてくださっていません。詩編121:4に「見よ、イスラエルを見守ってくださる方は、まどろむことなく、眠ることもない。」とありますが、神さま、もしかして眠っているのではないかと思うこともありました。また、いったいいつまで待てばいいのか、もしかして祈っても意味がないのではないかと心折れそうになる時期もありました。

しかしそんな神を疑うかのような時にもふと気が付けば、わたしたちの思いは神に向かっているのです。私たちは神が祈りを聞いてくださらないことを嘆きながら、神に憐れみを願っているのです。

そんなときに思うのです。神は、私たちの祈りを直ちに叶えてくださる存在なのではない。それはご利益宗教であって神を私たちの道具にしてしまうことであります。私たちはそのような誘惑に心が取られてしまいそうになることもあります。でも、神が私たちに与えてくださる希望というものはそう言うものではないのです。むしろ、「光は暗闇の中で輝いている。」(ヨハネ1:5)という言葉にもあるように、イエス・キリストは私たちが本当に倒れそうになってしまう時にこそ、絶望に心折れそうになっているときにこそ、どん底にいるような時にこそ、私たちに伴い、再び立ち上がる力を与える救い主であること、まさに暗闇に輝く一筋の希望の光であるということに気付くのです。

イエス・キリストは、福音書の中で人々に対してそのように接しています。私たちは聖書を読む時、どうしても人々の病を癒したり、悪霊を追い出したり、煩いを解決したりと、イエスさまの特別な力が働いて起きる「奇跡的な結果」にばかり心が奪われがちですが、それよりも心を留めたいことはイエス・キリストがまず困難な状況にいる人々のところに出掛けて行って寄り添われたということなのです。

解決と言う結果が大切なのではないのです。むしろその寄り添いの結果として癒しが起きたということが大切なのです。もちろん聖書ではイエスさまによって直ちに癒しが起きたことがたくさん書かれていますが、私たちはその即効性のある祈りの結果を求めるではなく、私たちに伴われると言うプロセスに目を向けることが大切なのです。そしてイエス・キリストは今私たちに伴われていることを受け止めたいのです。この伴いの内に私たちはこの時を最後まで歩み通していけるようになる。これが私たちに示されているイエス・キリストの希望であるということを、私たちは改めて受け止めたいのです。

私たちは今年度、まだ先行き不透明な中を歩んでまいりますが、イエス・キリストの存在とその御言葉に心を留め、希望を頂き、慰めと励ましを受けて歩みだしてまいりたいと思うのです。そのために、私は今年度牧師として特に宣教に向かい合っていきたいと願っています。もちろんこれまでも礼拝のメッセージに全力で向かい合ってきました。しかしそれが皆さまの心に響く神の希望のメッセージであったかと言われると、それは人によって受け取り方は変わると思います。私はイザヤ書40:8に「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」とあるように、草や花といううつろい行くメッセージではなく、神の言葉にある変わらない希望を届けたいと思うのです。神の言葉こそ私たちの心を守り、心を強くし、渇くことのない泉を心の中に与えるものであるからです。そして皆さまと共に私たちが神に生かされているものとして、その希望を共に分かち合っていきたいと思うのです。

このような時だからこそ、神の存在は私たちの希望になります。決して祈りがきかれていないということではありません。むしろ神は私たちと共におられるということを信頼して歩み出していきましょう。

さて、今日の宣教の前半は、神に私たちに希望を与えられているというお話をさせて頂きました。ここからはもう一つの「希望」についてお話しします。それは既に与えられている希望ではなく、私たちが神の伴いによって希望をもって進んでいくこれからの道のことです。

ローマの信徒への手紙は、使徒パウロがまだ行ったことのないローマにある教会の方々に向けて書いた手紙です。その結びの部分、一番大切なことを伝えるところで、パウロはこう言います。「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったようにあなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」(ローマ15:7)

あなたがたと言うのはローマの教会の人々のことを指すわけですが、その中身とは主にローマに住んでいたユダヤ人クリスチャンであったと考えられます。そうであれば、この相手というのは異邦人クリスチャンのことです。使徒言行録にも出てきますが、この両者には多くの確執がありました。使っている言葉も違いましたし、文化も違いました。また大切にしている教えも違いました。例えば、ユダヤ人には旧約聖書から続く割礼や食事制限、安息日などその他の伝統があり、それを継承している人々がいました。しかし、異邦人には全くそのようなものはなかったわけです。彼らはイエス・キリストを自分たちの救い主として信じただけで、ユダヤ人クリスチャンの伝統的な教えの生活とは大きく違いました。しかも異邦人たちの方が教育的にも経済的にも豊かであったわけです。イスラエルはローマから見たら辺境の土地でありユダヤ人は田舎者であったわけです。しかしそんな異邦人がイエス・キリストの教えを受け入れた。しかも私たちがこれまで大切にしていた教えを捨て去っている。頭では理解できても心が受け入れがたいことは、大体こんな感情的なしこりから起きるものです。

同じイエス・キリストを信じていたとしても、信じ方が違えば両者の葛藤が生じるというのは、先週、先々週の箇所でお話をしましたがかなりデリケートなところです。そんな中パウロは、ユダヤ人たちに認めさせるために、テモテというギリシャ人の父を持つ弟子に割礼を受けさせています。

律法を守るという肉の行いで救われるのではないということはわかっていたはずです。しかし「形」にこだわる人たちのために、「形」には敢えてこだわらないということが、パウロが自由にされていた一つのことかもしれません。パウロはローマの信徒への手紙の結びの直前の部分で「自分ではなくて隣人を喜ばせなさい。」と教え、さらにその前には「兄弟を裁いてはならない」と言っています。同じ神さまを信じているからこそ、信じ方も一緒じゃないと許せないという感情が私たちの心の中に生まれることがあります。でも、パウロは、希望の源である神の福音は、ユダヤ人と異邦人の両者のために語られたということを伝えているわけです。もし神の正義があるのだとしたら、それは自分を義とすることではなく、隣人と共に生きるために形を変えていけることなのだと言っているようにも聞こえます。

ところで今日の宣教題は「希望の源である『わたしたちの神』」としてカギカッコを付けました。こうすると、ともすれば「わたしたちの神とあなたたちの神がいる。そしてわたしたちの神が正しいんだ。」という風に受けられる方もおられるかもしれません。でも、私はそのように言っているわけではありません。むしろわたしたちの神とは、あなたがたの神でもあるということなのです。つまり神は、「ユダヤ人」と「異邦人」という分断された、水と油のような、本来共にいることができないような間柄の者たちを結び合わせてくださる方であるということです。「私たちはあなたたちとは違うから一緒にやっていけないわ、さよなら~」ではなく、それぞれの違いのただ中に共におられる方であるということ、神はどっちかの神ではなく、私たちすべての者の神であるということです。

神は私たちのちっぽけな覇権争いみたいなものに捕われることなく、相反するような二つのものを一つにするのが神であり、希望であるということを示しているのです。そのためにパウロはここで旧約聖書を引用し、神がユダヤ人だけではなく異邦人の神でもあることを繰り返し繰り返し語り、私たちは同じ福音に与る者たちなのだということを伝えているのです。

さて、私たちは今日このパウロの言葉から希望を頂きたいと思うのは、神は、完全に分断されて折り合いのつかないような人々を神は結び合わせてくださる方であるということです。これって、本当にすごいことだと思うのです。この世の中には、完全に立場が分かれて分断されてしまっている人々がいます。それはイスラエルに目を向けてみれば、イスラエルとパレスチナかもしれませんし、ミャンマーに目を向けてみれば国軍と市民、少数民族と言えると思います。あるいは私たちの身近にもそのような相手がいると思います。

私たちが水と油のような相手を受け止めていくことができるのでしょうか。実際にはとても大変どころか困難を極めることだと思います。いや、無理だと言えます。相手を非難したい気持ちでいっぱいになります。しかし心を留めたいのは、相手からしてみれば自分も変わらない存在であるということです。そして神の目から見ればどっちも自分の正義を主張しているだけの罪深い存在に変わりないわけです。だからこそ、パウロは「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように」と語るのです。

「キリストが私たちを受け入れてくれた」とはどういうことでしょうか。「私たちの方が少しマシだったから受け入れてくれた。相手とは違うんだよ。」ということでしょうか。そうではないと思います。キリストとは十字架に架けられたイエス・キリストです。そしてイエス・キリストは、自分自身の正義を主張する者たちの手によって十字架に架けられました。言い換えれば私たちがイエス・キリストをこの手で十字架に架けたのです。つまり私たちの正義は血にまみれている。しかし、そのキリストが私たちを受け入れてくださっている。それは私たちが正しいからではなく、私たちを赦してくださっているからであるのです。ここに私たちは救いを得るのではないでしょうか。それであれば、あなたがたはどうするのか。また相手を十字架に即けるのか。それとも相手を受け入れるのか。とはいっても相手の全てを無条件に受け入れるということではないと思います。でも、相手の言葉を聞き、私たちの言葉を伝えていくこと、共にキリストにあって、この一つの世界の中で共にキリストに赦され生かされている関係であるということを受け止めることから、何かが始まっていくということに希望を受け取るのです。

私たちは主の祈りを毎週の礼拝で祈ります。主の祈りは「わたしたちの祈り」です。ここで祈る「われら」とはどこまでの範囲なのでしょうか。自分や自分と同じ意見の者でしょうか。相手は違うのでしょうか。私たちこの地上に住まうすべての者のことなのではないかと思います。何故ならばイエス・キリストの祈りはすべての人を結ぶものであり、神は私たちをそのような働きへと招いておられるからです。「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも許したまえ。」私たちは、共に神の前に悔い改め、イエス・キリストの示される希望をもって、隣人と共に生きて参りましょう。