〇聖書個所 ヨハネによる福音書 14章15~17節

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 

〇宣教「聖霊は真理を教える」

今日はペンテコステ、弟子たちの上に聖霊が注がれた記念の礼拝です。ペンテコステは、イエス・キリストの誕生の記念日であるクリスマス、イエス・キリストの復活の記念日であるイースターと並ぶキリスト教の三大記念日であります。ところがクリスマス、イースターに比べるとペンテコステはどこかマイナーと言うか、大切にされていない日であるように感じます。というのは、例えばクリスマス・イースターは愛餐会をするのにペンテコステに愛餐会をする教会はあるにはあるようですが、あまり見かけません。ペンテコステは弟子たちが聖霊を受けて福音宣教を始めた「教会の誕生日」とも言われる日ですし、その教会が「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒2:42)ということを考えれば、私は本来ならペンテコステが最も愛餐会に相応しい日なのではないかと思います。残念ながら、今私たちは共に集まりパンを裂くことはできません。しかし、聖書の教えに生かされること、また相互のために祈り合うことを今日、大切にしていきたいと思うのです。私たちは今、それぞれの場、それぞれの状況の中にいますが、聖霊によって繋がっているということを共に喜びたいと思います。

さて、聖霊降臨は聖書の中で最も不思議な出来事の一つであり、なかなかイメージしづらいものであります。現在礼拝堂の壁には、菅原洸人画伯の描かれたペンテコステの絵を飾っていますが、その絵を見ても本当に不思議な光景だなぁと思います。聖霊が炎のような舌のような形で弟子たちの上に留まったとありますが、今、私たちの目には聖霊は見えません。ですから私たちは聖霊とは何かということを聖霊が降って一体何が起こったのかということから考える必要があります。聖書によれば、この日一同が家の中で祈っていると、突然、激しい風が吹いてくるような「音」が天から聞こえ、家中に響いたようです。そして「炎のような舌」が分かれ分かれに現れ、弟子たちの上に留まりました。すると彼らは聖霊に満たされ、他の国々の言葉で話し出したと言うのです。不思議なことがあるものだなぁと思います。勉強もせずに他の国の言葉が喋れるなんて、すごいことです。そんなことがあるならば私も聖霊に満たされたいと思いますが、そんなことを考える私は聖霊にではなく、私利私欲に満ちていることを思い知らされます。

この出来事は一体何で起きたのでしょうか。何なのでしょうか。でも、これはイエスさまの約束から始まっています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)つまり、聖霊とは弟子たちをイエス・キリストの証人とする力を与えるものであるということです。

そう考えるならば、例えば聖霊が降ると他国の言葉で話し出したということは、聖霊が弟子たちを全世界への福音宣教に導くものであったと考えることもできます。或いはその後ペトロが声を張り上げてエルサレムに住む人々に大胆に語り始めたということから、まさに舌の形をした炎のような情熱が彼らの心に与えられたと考えることもできます。

つまり、聖霊が私たちに与えるものは、ただ単なる「他言語」ではありません。地の果てに至るまでイエス・キリストの証人となるための力であるわけですから、能力というよりはむしろ「勇気」とか「決して諦めない力」だとか言えるのだと思います。そして炎のような舌が他国の言葉を与えたわけですから、聖霊は私たちに「言葉」を与えるものであったのだと言えます。言葉は人と繋がっていくためのものです。自分の内側にある思いを相手に伝え、相手の思いを理解するためのものであります。つまり一人で生きていくものではなく他者と共に繋がって生きていくために言葉が与えられた。そのように考えると、福音宣教とは一方通行的なものではなく、他者との交わりの中で交わされる言葉の中に生まれるものであります。その中に働かれるものが聖霊の導きであるのだといえるでしょう。聖霊があなたに、ではなくあなたがた複数名の交わりの中に与えられたということが象徴的です。

また聖霊が家の中にいた弟子たちに注がれたということも象徴的だと思います。なぜ弟子たち聖霊は注がれたのでしょうか。よく語られることは、それは彼らみんなが一つになったと言われるほどに熱心に祈っていたからだということです。その祈りを神さまが喜ばれたので、彼らの上に送ったと言う説明です。これはとても信仰的な読み方だと思います。でも、私は聖霊が彼らに降ったのは彼らが家の中に閉じこもっていたからではないかと思うのです。イエスさまも祈る時は「奥まった自分の部屋に入って祈りなさい」(マタイ6:6)と言われますから、彼らが家にいたのはある意味正しいことだと思います。でも、神はその家を揺らされたのです。その日彼らがいた家は激しい風のような音が響いたそうです。その家とは、彼らの祈りの場所であり、居場所であり、平安の場所、安全地帯でありました。しかし、神はそこを揺らし、他者とつながる言葉、つまり出会いに出かけていくように導くのです。彼らにとってその家とは彼らの心そのものであったといえると思います。自分の心に閉じこもっていたところから出会いに導かれる、これが聖霊の働きだと思います。

実は昨日、教会員の有志が数名、庭の草引きのために教会に来られました。その時私は牧師室でこの宣教の準備をしていたのですが、一人で閉じこもって宣教の準備をしても煮詰まって、なんだか言葉が出てこなかったので、しばらくの間皆さんと一緒に草引きをしました。「こっちはいいですから、宣教の準備してください」と気を遣ってくださる方もおられましたが、みなさんと黙々と作業することは本当に心がリラックスできましたし、頭の中を整理することができました。また時折する色々なお話も楽しむことができました。最近はそんな風に一緒に何かしながらお話をするということが本当に減っていることを感じました。肉体労働であるのに、皆さんが喜びながら大切な時間を教会のために献げて下さっていることを本当に感謝しました。聖霊とは何だろうと考えた時に、一人牧師室にこもっているときに与えられるものではなく、むしろこのような交わりにまさに共におられるのが聖霊なのではないかということを感じたのです。

今までは聖霊が私たちの交わりの中に与えられ、出会いに招くように促しを与えるのが聖霊であると言うお話をしました。今日お話ししたいもう一つのことは、聖霊は真理を教えるということです。実は今日の聖書個所は、天に帰ることを宣言したイエスさまが弟子たちに慰めと励ましを与えるために聖霊を与える約束をした箇所であります。弟子たちはイエスさまがいなくなることに不安を覚えていました。しかし、そんな彼らにイエスさまは「弁護者」であり「真理の霊」である聖霊を送ると約束しているのです。

「弁護者」と言うのは、元々のギリシャ語では「パラクレートス」つまり「援助者、助け手、人のために語る者」という意味、さらに分解すると「傍らに寄り添う者」です。動詞になると「励まし、慰め、勧め」を与えるという意味があります。つまり聖霊とは、弟子たちを助けるためにあなたがたが一人ぼっちにならないように与えられた存在であるのです。今もそうです。私たちが一人ぼっちにならないように神は聖霊を注ぎ続けておられるのです。聖霊が目に見えないということも象徴的かもしれません。聖霊は神の言葉を通して働くからです。聖霊は奇跡を起こす力とか他国の言葉を話す能力とか他国へ出ていくとかそういう特別な力を与える側面がクローズアップされがちですが、決してそうではなく、むしろ私たちが孤独にならないように神の言葉が私たちの中に留まり続けるということなのです。

それが「真理の霊」という言葉に表されていると思います。真理と言うと大きなテーマです。真理とは何かということは気になることですが、恐らくそれは私たちが決めるものではないのだと思います。真理とは、私たちが普遍的だと思われているような価値観や常識というよりも、もっと根源的なものであり、キリスト教的に言うならば、この世界が造られたときに神によって決められたものであると思うのです。それは何かと言われるならば、つまり一人一人のいのちが一つ一つの被造物が神の愛の内に誕生したものであるということです。神はこの世のすべての者を見て「良し」とされました。これが真理です。真理とはこの神の愛であります。神が良しとしたものをよしとすることが神の御心そのものであると言えます。だからこの真理を阻害してはならない。神が愛されたものを私たちが犯してはならないということです。

しかし神が真理の霊を私たちに留まる様に送られたということは、私たちが真理以外の教えの中で生きているということでしょう。確かに私たちは神が創造されたこの世界が、神の愛以外の教えによって支配されていることを感じています。差別が起こり、迫害が起こり、力による支配が起きています。この一つの世界の中で共に生きていくために招かれている私たちが、真理ではない偽りの教え、例えば自分たちのむさぼりの心を満たすために騙られる正義に、振り回されていることを感じます。時に私たち自身がそれをしてしまうこともあります。やはり人は罪深い存在だと思います。しかし聖霊は、そのようなこの世の力から私たちを自由にして神の真理に立つように招くのです。

そのように考えるならば、この日弟子たちは自分の家で真理ならざるものから自分たちを守っていたとも考えられます。そしてその時聖霊が下り、語り出した彼らの言葉というのは、つまり彼らが自由に使えなかった言葉、声に上げられなかった思い、心の中で押さえつけていた言葉であったのではないかと思うのです。つまり聖霊は私たちを支配する教えに「果たしてそれは真理なのか」と問いかけ、私たちを解放するのです。

私たちは、色々なものに日々影響を受けながら生きています。自分自身として生きているはずなのに、自分ではない者として生きている、仮面をかぶって生きているということがないでしょうか。しかし神は本当に私で生きてよいのだと招いてくださっているのです。

例えば私のことを振り返れば、ルカ福音書15章の「放蕩息子」の譬えの長男のことを思い起こします。私は自分はその父親の長男に非常に似ていると思うからです。彼は自分の思いを隠してよい子を演じています。ところが父親から生前贈与を受けて外に出かけて行った弟が帰ってきたとき、彼は父親が弟のためにパーティーを開いたのを見て、憤慨しています。「わたしは今まであなたに尽くしてきました。でもあなたは私には今まで小羊の一匹もくれたことはありません。なのになんであなたはあの弟には善いことをしているのですか。私にはしてくれないのに。」彼は恐らくこれまで父親に自分の気持ちを伝えることなく、いい子でいようと思っていたのでしょう。弟が帰ってくるまで彼は父親に何も言えないままでした。ところが初めて彼が自分の心の内をさらけ出したとき、父親は外に出てきて長男に寄り添い、「わたしのものは、すべておまえのものだ」と言うのです。これは私にはこう聞こえるのです。「なんでこれまで私に自分の思いを伝えてくれなかったのか。私はあなたのあるがままの声をずっと待っていたのだよ。」

いい子でいることが決して良いわけではない。そうでなくても構わない。神はその人のそのままを見ていてくださる。何故ならば神はすべての人をそのように愛し造られたからです。

私は、これがイエス・キリストの証人となるということだと思うのです。すなわち、イエス・キリストは出掛けて行って捕らわれている人と対話し、その人を精神的、身体的に解放し自由を与えられました。そして「わたしの目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と語ってくださるのです。それがイエス・キリストの真理であり、私たち個々の存在を承認し、慰め励ます言葉であると信じています。私たちは今もこのイエス・キリストの言葉を通して、神の伴い、聖霊の伴いを受けます。その時、まさに炎のような舌が弟子たちの上に留まったように、私たちも困難があっても諦めることなく突き動かされ、神にすでに与えられている自分自身をそのままで他者と共に生きることができるようになるのではないかと思うのです。

神は聖霊を通して私たちが神に愛されていること、これが真理であることを教えてくださるのです。私たちは、この神に招かれて今、この聖霊に結ばれています。このことに感謝して、一週間また歩み出してまいりましょう。