〇聖書個所 マタイによる福音書 12章22~32節

そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

 

〇宣教「聖霊の働きを共に喜ぼう」

今日の聖書個所は、悪霊に取りつかれた人の癒し、そしてそれを見ていたファリサイ派の人々に対するイエスさまの反論の箇所です。みなさん、聖書を読んで、なんか最近どこかで聞いた話だなぁと感じられたのではないでしょうか。というのはマタイ9:32-34にほとんどほぼ同じ話があるのです。我ながら不勉強だと感じますが、私は今回初めてこのことに気付きました。そして私たちの教会では、今年1月31日にその聖書個所から宣教しています。

その物語では、悪霊に取りつかれた人は口がきけないという症状がありました。これはしゃべることができないということだけではなく、人の声も聞くことができない状態であったということです。しかしイエスさまが彼から悪霊を追い出されると彼は「ものを言うように」なり癒されたというお話でした。私は宣教の中で、この「ものを言う」と言う言葉は訳し過ぎであり、原文では「話す」という言葉で書かれていることを取り上げ、はっきりと会話できるようになったのだ。つまり悪霊の働きは人に取りついて、或いは人の中に入り込んで、その人が自由に会話したり身動きしたりすることができない状況に縛り付けることであったことに対して、イエス・キリストの働きとは、その人を束縛から解放し、自由へと導くこと、つまり自分で声を発し他の人の声を聴くことができるようになること、そのように心が解放されることであったのではないかとお話ししました。

そして、そこにはその人の癒しを見ていたファリサイ派の人々がいましたが、彼らはイエスさまをやっかみ、「彼は悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出している」と言いました。イエスさまはそれに対して何も言い返しませんが、その彼らの姿がまさに見ていることを受け止められず、癒された人を喜べず、自分の感情や言動によってその人、或いはその状況そのものを縛ってしまうことが「悪霊」の働きそのものなのではないかとお話ししました。

ここまでは今日の聖書個所とほぼ同じ内容ですが、今日の箇所で違うことが二つあります。まず一つ目には、悪霊に取りつかれた人は、口がきけないだけではなく目も見えないという状況だったことです。そして二つ目は、その癒しの業を見ていた人々がイエスさまに期待して「ダビデの子ではないか」と言ったのを聞いたファリサイ派の人々が「あれは悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出したのだ」と言った後に、イエスさまが反応し彼らに話されていることです。ここでは、イエスさまはその発言を通して何を伝えようとしておられるのかということを、この二つのポイントからお話ししていきたいと思います。

まず一つ目ですが、悪霊に取りつかれた人は、口がきけないだけではなく目も見えないという症状がありました。悪霊を追い出すことでイエスさまは身体的なハンディキャップを癒されたわけですが、これがイエスさまの伴いによって癒されたということを考えた時、やはりそれは身体的なハンディキャップだったのではなく、やはり悪霊という存在によって縛られていたという象徴として読んでいきたいと思います。

つまり、口がきけず耳が聞こえないということは、自分の思いを人に伝えることが難しいということ、そして人の思いを聞くことが難しいということです。できないわけではありません。助け手がいればそれは十分可能です。今でも口がきけず耳が聞こえなくても周りと意思疎通して過ごされている方はおられます。でも、人々が彼をイエスさまのところに連れてきたということは、もちろんただ単純に癒してほしいということだったのかもしれませんが、周りの人はその彼を支えることができなかったのではないかとも思います。

周りの人が支えられない状態になっている。でも、それでも目が見えれば自分の歩みを自分で進んでいくことだってできたと思います。でも、彼は目が見えませんでした。つまり、目が見えないという症状が加わったことは、自分の思いを発することも相手の言葉を聞くこともできず、自分の思いに束縛されているのみならず、まさに自分の歩むべき道を見失った、その歩みを見通すことができない状態があったということです。言い換えれば、自分の存在を見失ったということです。そんな状態にその彼を追いやっていたのが悪霊であります。悪霊とは人を縛る存在です。悪霊がどこから来るのかということを考えると、それは神が罪を犯した人のところに送るとか浮遊霊が取りつくとか、そういうことを考えてしまいますが、イエスさまの言葉を考えるならば、「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである。」(マタイ15:11)がわたしには響きます。

つまり、悪霊に取りつかれると言うのは、言葉に取りつかれるということです。それは人の言葉である場合も自分自身の思いに取りつかれるということもあるでしょう。その言葉、或いはその言葉に込められた思いによって口が塞がれ、耳が塞がれ、目が塞がれ、心が閉じてしまうがあるのです。

こういうことはまさに私たちにも起こり、またこれからも起こることだと思います。でもこう考えると、逆に言うと私たちも口がきけても耳が聞こえても意思疎通ができない状態というものもあると思います。例えば洗脳という状態もそうでしょう。それもまた対話ができないところまで人の言葉でコントロールされてしまうことです。聖書でいうところの罪や汚れというものは、まさに同じであったと言えます。そんな彼に寄り添ってくれるものがいなかったのだと思うのです。

しかしイエスさまは彼と出会いました。そしてその時に彼は癒されたことに注目したいと思います。そしてその結果彼が囚われから解放され、自分の言葉が交わせるようになり、目が見えるようになったのです。イエスさまがどのように彼に関わられたのかは聖書には書いてありません。しかし、目が見えず口も声も使えない彼にとって、生きているのは触覚です。つまり傍にいる、共にいてくれる、もしかして彼のあるがままを包み込んだのかもしれません。そのような関りでイエスさまは恐らく彼の思いを深く受け止められたのだと思います。私はそれが彼の心に触れたのではないかと思うのです。だれもそれまで自分のあるがままを包んでくれる人なんていなかった。しかしここには私の思いを安心して伝えることができる人がいる。そのような人との出会いは、私たちの生き方を大きく変えることへ導きます。

私は最近「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というローマ書の言葉を黙想しています。実は光の丘幼稚園の5月の暗唱聖句がその箇所なのです。私は今「インマヌエル(主はわれらと共におられる)」と言われたイエス・キリストの愛とは、まさに「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という姿であったのではないかなと感じているのです。カウンセリングでも言われることですが、私たちは心に寄り添われるときに自分が理解されたと感じますし、そのような時こそ大きな慰めを受けます。私たちは人に相談されたら、その事実関係の確認や解決方法にばかり気が取られてしまいますが、イエス・キリストは私たちの行いを裁くためにやって来られたのではありません。そうではなく、私たちに伴うためにやって来られたのです。それがわたしたちの心に寄り添ってくださるということなのだと思うのです。

先日、幼稚園のカリキュラム会議でこの話をした時に、ある先生がその応答でこんな話をしてくださいました。京都アニメーション学院で36名が死亡し、33名が重軽傷者を出した放火事件の犯人を治療した医師の話です。この医師は彼を治療するに当たり、彼の診療だけではなく彼とまっすぐに向かい合ったそうです。そして彼と色々なことを話したそうです。その彼は、家庭的なネグレクトもあって、勉強ができなかった。それでも定時制高校を卒業して派遣の仕事についた。それがリーマン・ショックで突然解雇になった。それで、昔から好きだった小説のようなものを2年間かけて書いて応募した。しかし、はねられた。そのとき、食べていく術がなくなったと感じたそうです。後から自分が書いたものと同じような内容の作品が出たと思い込んで、カッとなって事件を起こした。そこまで話してその医師はこう思ったそうです。「彼は稚拙なんです。ただ、誰かが奴の話を聞いてやれば、思いとどまったかもしれないと思いました。」

犯人は、医者に言いました。「自分みたいな人間を治療してもなんのプラスにもならない、なぜ自分を守ってくれるのか。」その医者は答えました。「目の前にいる患者を助けるのが僕らの仕事だ。バックグラウンドは関係ない。犯罪者でも政治家でも一緒や。」徐々に回復していった彼は、京都の病院に転院することになったそうですが、その別れ際、医者は彼に聞いたそうです。「おまえ、生きている価値がないって言っていたけど、俺と4ヵ月接して、少しは考えが変わったか」彼は言いました。「変わらざるをえなかった。こんな『低の低』の自分にぶつかってくれる人が赤の他人でもいるんだって。」

その人がどんな人でもその人と向き合い、その心の声に耳を傾けてくれる存在がいる。その人との出会いが私たちにとって大切だと思います。悪霊に取りつかれていた時、見えなくなっていた自分自身の心、自分で声を上げることもできない、他の人の声を聴くこともない、誰も自分のことなんて気に留めてくれない。自分の道なんてついえてしまったように見える。これから自分が何をすることがどんな結果をもたらすかわからなくなるような時があります。しかし、そんなときイエス・キリストが出会うために来てくださっている、私の心に寄り添ってくださる方と出会うことは、まさにこの犯人が医者に出会ったように、新たな道へと進ませるものなのだと思います。私はこのような出会いに本当に感動しますし、そのような人になりたいと思います。しかしその前にイエス・キリストが私たちにそのように出会ってくださっているのだということに目を留めて参りたいのです。

ところがそれとは対照的なのが、ファリサイ派の人々の姿です。彼らは人々がイエス・キリストに期待する声を聴いて劣情が燃やされたかのようになったのでしょう。言ってはいけないことさえ言っています。「悪霊の頭の力で彼を癒したのだ。」それって、その人が癒されたこと自体喜べないと言っているのと同じようなものです。彼らは正直心が狭いと思います。でもそれが人間臭いと思います。

私は聖書には書かれていませんが、そのような彼らを見てイエスさまはひどく悲しまれたのではないかと思います。憐れまれたのではないかとも思うのです。目で見たことを信じられない人の心、他の人の幸せを共に喜べない心、相手のことなど考えておらず、結局のところ自分自身のことしか考えていない、それ以外のことが受け止められない人間の姿がそこにはあったからです。

イエスさまが語っておられることは、ごく単純に言うと、「私はあなたがたと同じ立場である。内輪もめをするなんて悪霊でもしないことを何故考えるのか。むしろ私が悪霊を追い出したとしたら、神の国がここにきているということであって、あなたがたも共に喜ぶことではないか。聖霊の働きは、いま神の霊によってまさに目の前で起きていることである。」ということではないかと思います。厳しい言葉だと思います。深く考えれば色々と意味はあるのでしょう。しかし大切なことは、イエスさまはこの言葉をもって、ファリサイ派の人々に対して私と一緒にこの人の癒しを喜ぼうではないか。このように私たちをも招いてくださっているということなのではないかと思うのです。私たちは、心の貧しい者たちです。料簡の狭い者たちです。しかし神はそんな私たちに伴うために来てくださったことに心を留めたいのです。主は私たちを解放し、私たちを聖霊の自由な働きへと導いてくださるのです。