〇聖書個所 使徒言行録 15章1~11節

ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

 

〇宣教「イエスがキリストであるエビデンス(証拠)」

今日の宣教題は、「イエスがキリストであるエビデンス(証拠)」と付けさせていただきました。元々、週報では今日の聖書個所はマタイ福音書12:38-50としていましたが、使徒言行録に変更させていただきました。「宣教は生ものである」と言われるように、今日は宣教題はそのままですが、巻頭言に触れていることとは全く違うお話をしたいと思います。それは、今イスラエルとパレスチナで起こっている紛争についてです。皆さんもご存知のように5/10にパレスチナのガザ地区からミサイル攻撃が始まり、イスラエルが空爆で反撃しています。それは徐々にエスカレートして、今も交戦状態は続いています。双方ともに多いか少ないかの違いはありますが犠牲者が出ていのちが失われています。

私はこの事件に関する現地のニュースやYouTubeでのビデオを見て、コロナとか東京オリンピックのことが頭から吹っ飛んでしまうくらいのショックを受けました。それは、これは私たちが読んでいる聖書と全く無関係の出来事ではないからです。確かに政治的なテーマです。でもこれはまさに今、命の問題として、この時にわたしたちが考えたいことであります。私は今日それ自体についてどちらが正しくてどちらが間違っているかということをお話ししたいわけではありません。むしろ長きにわたって続いている根深い問題のこのテーマを今この時に私などが話すなどとても能力が足りませんし、いくら時間があってもできないことです。むしろ私たちは今日、この出来事を通して、イエス・キリストの言葉を聞いていきたいと思うのです。「平和を実現する人たちは幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)とイエス・キリストは教えられました。双方ともに平和を求めていると思います。でも、現在平和はなっていません。平和は一体どのようにして造られるものなのでしょうか。

今日の箇所はイエス・キリストやその弟子たちがどのように生きたかということを改めて考えさせる箇所です。実は今日の聖書箇所は、ちょうど聖書教育が選んでいる箇所であり、先週の祈祷会で読んだときに、私の心に残った箇所でした。

ある人々がエルサレムから下って来て「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えるところから始まります。聖書ってやはり面白いと思います。ここで登場するある人々というのは使徒ではない他の人のことだと思いますが、象徴的に考えれば彼らは名前のない意見であったと考えられます。つまり「みんなこう言っているよ。」という形で自分の意見を正当化しみんなの意見なんだよと言うふうに置き換えて伝えているということです。

その人々が語った相手が重要です。その相手とは、アンティオキアというイスラエル北部の街にできた異邦人クリスチャンたちの教会の人々でした。使徒言行録11:26にはアンティオキアで初めて彼らはクリスチャンと呼ばれるようになったという記事があります。つまり、それまではイエスさまを信じる者がユダヤ人ばかりでしたので、イエスさまを信じていた人々も文化的にはユダヤ教の一派のように律法を守っていた人たちが多かったわけです。ところがアンティオキアの教会は異邦人ばかりで律法も守っていない人々でした。あいつらは何なんだ。あいつらはイエスをキリストと信じている人々なんだということで、クリスチャンと呼ばれるようになったのです。つまり彼らは、ユダヤ人のあり方を全く取り入れないでイエス・キリストを主と信じた者であったということです。

当然エルサレムから来た人々は、アンティオキア教会の人々の有様を見て、自分たちとは違う自由な姿にびっくりしたのだと思います。同じクリスチャンなのに違う。割礼も守らない、食物規定も安息日規定も守らない。それじゃあいけない。せめて、神さまとの契約である「割礼」くらいはしっかりしないといけないんじゃないの?みんなそう思っているよというのです。ある意味で彼らは善意で言っていたのかもしれません。しかしその善意は彼らの正しさの押し付けであり結局のところ、他の人の救いには繋がりませんでした。それは、行いによる救いだ。イエスさまの恵みによって救われるのではないのではないか、ということで論争になったのです。

私たちも身近にあるのではないでしょうか。同じクリスチャンなのに自分と同じようではないのはおかしい。クリスチャンならこうあるべきだ。こうしないとクリスチャンにはなれない。先ほどの子どもメッセージの箇所とも重なります。大宣教命令は、わたしたち教会にとって一つの大きなチャレンジです。全世界の人々にバプテスマを授け、弟子とする。世界宣教はこのような大きな旗印の下で進められてきました。ところが、どうでしょうか。本当にバプテスマを授けなければいけないのでしょうか。そうしないとイエスさまの弟子となれないのでしょうか。かつてローマ帝国での宣教は軍隊によって行われ、「剣か洗礼か」を突き付けたこともあると聞いています。しかしそれは、ここで割礼を受けなければいけないと言っているのと同じことになってしまうのではないでしょうか。私はそうは思いません。ですから先ほどの子どもメッセージでは、神さまが与えてくださったいのちをそのまま生きることが、神が望まれていることであると言いました。イエス・キリストの福音の本質を言うのであれば、私はクリスチャンとは他のものに縛られないで神の愛の内に生きる者のことであると思うからです。あなたはそのままで生きていっていいということを信じて生きる者が、クリスチャンであり、イエスさまの弟子であるのです。しかし、これまで教えられてきたことというものは私たちの中に大きく残っていて、やっぱりバプテスマが大切だと言いたい気持ちもあるのです。こんなことを言うとバプテストの牧師らしくないと言われるかもしれません。でも大切なのは、私たちがクリスチャンの在り方を決めるのではなく、神がその人に働き、自由を得させてくださること、神にあって生きるという信仰告白そのものだと思うのです。

実は、アンティオキア教会が誕生した時に、エルサレム教会はバルナバを派遣して、その教会がどんな教会かを調べに行かせました。その時、バルナバは、「神の恵みが与えられた様を見て喜び、そして固い決意をもって主から離れることのないようにみなに進めた」(使徒11:23)とある通り、そこで行われていることがユダヤ的に正しいかどうかに心を留めるのではなく、そこに主が起こした出来事、或いは主イエス・キリストの言葉によってみんなが生かされている姿を見て共に喜んだわけです。まさに「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ということがそこで起きたわけです。

ところが今日の方々はそんな方々の自由な態度や振る舞いというものに恐らく憤りを覚えたわけです。「これまでみんなが大切にしているものは何も守らないで、何がクリスチャンか」というような一方的な正義の押し付け、他の人の救いを喜べないということが起こっていたことが想像できます。

意見の相違というものはあります。しかし、彼らはさすがイエスさまの弟子たちと言うか、賢かったのは、この出来事をどう考えるべきか、ということを、エルサレムに人を送って協議させたことです。つまり感情的にその場で判断したのではなく、神の御心を求めるために委ねたのです。そして使徒たちと長老たちはこの問題について協議をしたわけですが、その中にファリサイ派から信者になった方がいて、彼らの言い分を聞いています。色々な意見はあっても良いのです。使徒・長老と共にその方々いたということが大切です。そして彼らは意見の相違があったとしても最終的に仲違いしたわけではなりませんでした。今日のペトロの発言の後でそこにいた人々は静まり、一つの決断をみんなで共有したのです。それは、「神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけない」ということでした。つまり自分と異なる人だからと言って、自分たちに合せようとしてはいけない。彼らが悩まないようにとは彼らのあるがままを受け止めるという愛の姿勢です。これはもっとも小さいものに寄り添われたイエスさまの姿です。彼らのやり方があっていい。それで共に神を喜んでいくということです。このようにわたしたちは神の御心に委ねていくということが大切なのです。

私たちは自分の正義を主張したくなりますし、相手にもそれを尊重して共有してほしいと思います。時に自分の正義が神の御心だとも考えてしまうことがあります。これは人の性かもしれません。しかし、それが全てではないということを理解する必要があります。神は私たちを大きく超えて働かれる方であるからです。古い革袋は聖霊によって新しい革袋へと導かれるのです。ですから今、私たちは悔い改めなければなりません。そうしなければ、今イスラエルとパレスチナの間で行なっていることは私たちにも返ってきます。

イスラエルの人々は自分たちの正義を主張し、自分たちを守るために相手を攻撃します。例えばガザ地区にはハマスというイスラム原理主義組織がある。彼らがテロ攻撃を仕掛けてくる。だからそれを叩くのは当然だ。ピンポイントの空爆を行うが、悪を倒すためなら多少の犠牲は仕方ないという理屈です。パレスチナにしてもそうです。イスラエルは私たちの先祖伝来の地から私たちを追い出そうとしている。自分たちの生活を守るためには、攻撃するしかない。彼らには武力や経済力で差があります。自分の力で何ともならない時、神に助けを求めます。そうするとどんどんと原理的に敵対的になっていくものです。イスラエルはミサイル攻撃から鉄壁の守りを固め、相手からの攻撃をほとんど受けません。かたやパレスチナは相手の攻撃を防ぐ手段を持たないため、地下に基地を作り、隠れながら戦っています。そのため多くの犠牲が起こります。空爆が起きているそれぞれの場所のビデオを見ました。空襲警報が鳴るたびに市民は逃げまどいます。イスラエルでもシェルターに逃げています。ガザでは、空爆の犠牲になり父親を亡くした男の子が、「ぼくも将来ハマスの戦士になる」と言っています。このような復讐の連鎖というものがいつまでも続くことを神は願っているのでしょうか。神の正義とは何でしょうか。

エルサレムや聖書の正しさを巡るユダヤ教とキリスト教対イスラム教の戦いであるように受け取られがちですが、これは神の正義の戦いではありません。これは人の問題です。テロってどちらからの見方でしょうか。どちらも同じことをしているのではないでしょうか。そして私たちも同様ではないでしょうか。自分の正義を主張し相手の在り方を喜べません。どちらも対話の席に付けなくなった時に起きるのが戦争です。それはどちらが悪いかということではなく、はっきりしているのは人間の負けであるということです。神はご自分の造られたすべてのいのちを尊ばれる方であるからです。

私たちはこのような時、イエス・キリストの姿に目を留めたいと思います。私たちの主となられたイエスさまはどのように生きられたのでしょうか。私たちはなぜイエスさまをキリストと告白するのでしょうか。私にとってイエスさまは裁き主ではありません。正義を主張する人でもありません。むしろ、裁かれて仕方ないものたちに寄り添って行かれ、そして共に行こうと招かれた方であると信じています。そんなイエスさまだからこそ私の主、私の羊飼いだと思うのです。その関係性こそが私にとってのイエスさまがキリストであるエビデンス(証拠)であります。そのように何が正しいかではなく、そこで起きていることを共に喜び、共に泣くそのような存在が神の愛であるのではないかと思います。そのようにイエス・キリストは常に小さくされたものと共に寄り添われる方であるのです。

神が、私たち一人一人が違いを持った存在としての命を与えられたのは、神がその多様性を喜ばれる方であるということと共に、お互いが違いを持った存在であるからこそ、助け合い支え合いながら共に生きていくためであります。命の奪い合いではなくて、命を共に喜ぶことであります。これが私たち人間が共通して向かい合う課題なのだと思います。こんなんなことかもしれません。しかし、イエスさまが「神の国は、ここにある、あそこにあるというものではない。神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われたように、神の国が実現されていくために、イエスさまは私たちに常にどんなときにも伴っていてくださるインマヌエルなのではないかと思うのです。

イエスキリストは剣を持つものは剣によって滅びると言います。それではなりません。むしろ今日の弟子たちのようにそれぞれ違う意見を持った者同士が共に座し、新たな道を祈り求めていく関係を喜ばれるのだと思います。全ての犠牲となられた方々また今も痛みの中にある方々双方の人たちの心の中に主イエスキリストの慰めと平和と 希望と和解が、与えられますように共に祈りましょう。