〇聖書個所 マタイによる福音書 12章9~21節

イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」

 

〇宣教「あなたがたは安息日に善いことをしているのか?」

今日の聖書個所は、先週に引き続き「安息日論争」の箇所です。先週は、イエスさまの弟子たちが「安息日に麦の穂を摘んだこと」が問題となりましたが、今日は「安息日に癒しを行うこと」が問題とされました。安息日は働いてはいけない日だから癒しを行ってはならない、困っている人を助けてもいけないなんてことがあるのでしょうか。現代日本社会に住む私たちにしてみれば、いったい何を言っているのかと感じます。もちろん医療者にも休みは必要です。先週の週報に、医者として働いておられる椎名さんの「応答」がありましたが、まさに今、医療現場では多くの方が心を削りながらぎりぎりの状態で働いてくださっています。心より感謝をしますし、本当に安心して休んでいただけるようになってほしいと思います。そういう状態になるように私たちにできることは祈りと神の言葉を分かち合うことしかありません。みんなが休める日が来たら良いと思いますが、でもだからと言ってそれは安息日だから休まなければならない、働いてはいけないということではないのです。

でもファリサイ派の人々は律法に書いてありますから、大まじめにどこまでのことが許されているかということを考えていたようです。彼らの規定では、救急の必要がある場合には医療行為は認められていましたが、命に別状はない場合は翌日に行うべきだと決められていました。そんな彼らが今日の箇所でしようとしたことは、会堂にいた片手の萎えた人を見つけ、安息日に癒しを行うのは律法で許されているのか、と問いかけ、イエスさまを訴える口実を得ることでした。人の妬みとは恐ろしいもので、数多くの癒しを行い人々に好意を持たれていたイエスを何とかしてとっちめてやろうと彼らは考えたわけです。確かに彼は救急の必要があるという感じではありません。でもじゃあ許されていると言えば律法違反だと糾弾できますし、許されていないと言えば、じゃあ律法が優先されるじゃないか、やっぱりあなたは律法違反ではないかと攻撃しその株を落とすことができるのです。

イエスさまは明らかに罠にかけられそうになっていました。それでは、この悪意に満ちた問いかけをどう感じたのでしょうか。私は、先週の箇所ではイエスさまはあきれ返って答えているような印象を受けたと言いましたが、今日の箇所ではイエスさまはなかばお怒りのような印象をうけるのです。もちろんここではイエスは憤ったとかそういう風には書かれていません。でもそのような印象を受けるのには理由があります。それは確かにその萎えた手の人の症状に救急の必要がなかったかもしれませんが、彼の心には深刻な状況があり、今まさに癒される必要があったのにかも関わらず、ファリサイ派の人々はまったくそれに気づいていなかったからです。それでは共に聖書を読んでいきましょう。

イエスさまは、その安息日に会堂に入られました。会堂はファリサイ派の人々の集会場で律法の言葉を聞き、礼拝を守ります。そこに手の萎えた人が来ていました。彼が自分で来たのか、それともイエスさまを訴えるためにファリサイ派の人々が連れてきていたのかはわかりません。しかしそこにいました。会堂に入ってすぐに目にするということは入り口近くの末席にいたように思えます。もしかして普段ならば中央にいる人たちに相手にされないような人だったのかもしれません。彼は片手が萎えていました。こう書かれていると、生まれつきのハンディキャップであったのかなと思うのですが、13節に「元通りよくなった」とあることを考えると、おそらく何らかの病気でそうなったのだと思います。この萎えたという表現ですが、実は枯れたとか干からびるというような症状であったようです。

「枯れる」ことは水分を失うこと、生き生きしなくなるということです。もしかして病気と言うよりも何らかの事情で、彼自身の体から生き生きとした水気が失われていた、彼のいのちが損なわれていたということかもしれません。そんな彼が会堂に来ていた理由は、まさに神の言葉に命を求め、生き返ったようになることであったのでと思われます。ところが、そんな彼がいるのに、ファリサイ派の人々がこの日彼に対してとった行動は、彼の求めに応えるどころか彼を利用し相手を陥れる手段にすることでした。そんな状況では、誰も自分の声を聴いてくれようともしない。彼のいのちはまさに枯れていたようだったのです。彼が聖書個所でいっさい声を出さないこともなにか象徴的に思います。

しかしそんな彼に対してイエスさまは、彼を見つめ、彼の心の内側にある痛んだ心に寄り添い、彼を慰め、そして癒しを与えられるのです。イエスさまはこのように言われます。「あなたたちのうち、誰か羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから安息日に良いことをするのは許されている。」

羊とは「迷える子羊」という印象もありますが、人間にとって最高のパートナーともいえる家畜の一つでした。たくさんの羊がいれば一匹くらいは…と思うかもしれません。しかしここには一匹だけしか羊を持っていない状況があります。つまりイエスさまは、とても大事でありかけがえのない存在、まさに自分自身と言ってもさしつかえのないそんな羊が安息日に穴に落ちた。でも、命に別状はない。じゃあ助けるのを一日遅らせるのか。そんなわけないだろう。と言われるのです。まして人間は羊よりもはるかに大切なものだ。それでは命に別状はなくても、彼のために良いと思うことをするのは許されているのだと言い、彼の手を癒されたのです。つまり、イエスさまは「あなたは私にとって大切な存在であるのだ」ということを示されたのです。

実際に手を伸ばすとよくなったとありますが、良くなったのは手だけではなかっただろうと思うのです。見過ごしにされていたその人の存在、だれも聞いてくれなかった彼の求めの声。孤独であったその彼の思いにイエスさまは応えられたのです。その時、彼の萎えた手。枯れた手、乾いた心はいのちの水を得たのです。

この聖書の箇所は、ただ単なる癒しの物語ではなく、イエスさまが彼の心の求めに触れられた、その時に彼の心と体に命の水が与えられたまさに先ほど歌った「あまつ真清水」の出来事であるのです。イエス・キリストの福音宣教とは、まさにそのような人々との出会いの中で起きた出来事であります。それに比べて、ファリサイ派の人々は何が律法に反するかとかそういう言葉とかルールとかそんなことにばかり心を取られていて、本当に神の言葉に助けを求めている人との出会いに気付かないということがあるのです。私たちも相手の状況を考慮することもせず、救われるためにはこうしなければいけないと思ってしまうことがあるのではないでしょうか。

最初に申し上げた、私が今日の聖書個所のイエスさまに半ば怒りを感じると言った理由は、つまりファリサイ派の人々が目の前にいる手の萎えた人が求めていることに応えず、彼を自分たちの目的のために利用しようとしていたからです。

「安息日に善いことをするのは許されている。」ファリサイ派の人々にとってこの答えは思ってもみない答えであったと思います。善いことをするのは許されているってどういうことでしょうか。こう言われると、私たちは自分たちの行いを振り返ると思います。私たちって何をしていたっけ。しかもイエスさまはその「善いこと」というのが何かとは言われません。

これはつまり、彼らに対して、あなたがたが安息日にしていることは何か。それは本当に善いことであるのかということを逆に問いかける言葉であったのです。あなたがたは安息日に人を利用して人を貶めようとしているが、神は本当に安息日に願っているのだろうか。安息日がすべての人が安息を得るために神が作られた日であるとすれば、あなたがたがこの安息日にすべきなのはこの人が安息を得られるように彼の声を聴き、共に祈り、その存在を認め、助けることではないのかということを厳しく問いかけているように思えるのです。

もちろんファリサイ派の人々だって、普段は民衆を助けていたと思います。ただ問題は、彼らの優先順位が「律法を守ること」が第一優先であり、「人を助けること」は二の次であったということです。でも、実はこれはイエスさまがある律法学者に『最も重要な掟』は何ですかと問われたときに「神を愛し、隣人を愛せよ」(マタイ22:37-39)と言われた順番と一致しています。ですから教え的には間違っているわけではないのです。しかしその内容は大間違いなのです。何故ならば神が律法を与えられたのは神との関係、人との関係を守るためであったからです。その中身を忘れ文字通りに信じればよいことではないのです。でも人は容易にそのような方向に流れてしまいます。

これを守ればよい。これをやぶるのはダメだ。そんなものではないのです。だからイエスさまは「善いことをするのは許されている」とは言ってもその「善いことが何か」には触れなかったのです。つまり、あなたが考えなさい。あなたが主体的に選び取って行きなさい。あなたがここから始めて行きなさい。ということなのです。

ファリサイ派の人々はこのようなイエスさまの言葉を受けて、出て行きました。本当だったら彼らがイエスさまとまた手の癒された人を追い出せば済む話なのですが、彼らはおそらくその周知の人々からの目線に耐えられなくなって逃げ出すかのようにして出て行ったのでしょう。本来であれば自分の間違いを悔い改め、そこで新たに始まっていけば良いのですが、そこまではなりません。でも、この彼らの姿を通して、また自分自身を振り返らされるのです。

私は今日の箇所で言えばまさにファリサイ派の一人です。自分の正義を主張し、その主張が間違っていると指摘され、耐えられなくなった時にも悔い改めることもできず、恥じ入り逃げ出し、恨みを抱くというとても彼らに共感する者です。でもやはり大切なのはここでイエスさまの言葉に打ち砕かれ、立ち返ることなのです。自分にはなにも誇るべきものがない。助けていただくしかない。そんなとき、自分もイエス・キリストの伴いに新たに力を頂くものとなるのです。イエスさまは必ずそうしてくださいます。私は最近、多くの方からメッセージが変わったと言われることが増えましたが、多分それは今までは何とかぼろを出さないようにきれいにやってきた自分から、打ち砕かれて本当に私が聖書から慰めを受ける言葉を求めるようになったからだと思います。むしろ神の前に遜るとき、神の言葉に慰めを受け生かされます。神の目は最も小さなもの、誰もわかってくれない苦しみを持っておられる人に寄り添い、その人の心に伴われると言いながら、その愛に生かされていなかったこんな自分自身に対して、イエスさまは「わたしの目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と言い、いのちのみずを与えてくださるということを感じるのです。

そんな私にとって安息日にする善いこととは、今、この片手の萎えた人が神の言葉に癒しを求めてきたように、神の伴いこそわたしたちの希望であることを語ることであることを感じています。私たちはもうずっと苦しい中を過ごしています。それぞれの状況やご事情もあります。でも、神はそんなわたしたちにイエス・キリストを与えられたことが福音なのです。私たちは独りではない。神はわたしのいのちを必要としておられる。わたしと共に生きる為に、イエス・キリストが与えられたということを共に受け取りたいのです。そしてそれは私たちの出会いの中で、起きるということを改めて心に留めていきたいと思います。

今日の聖書の15節以降は触れることができませんでした。言いたかったのは、イエス・キリストがすべての者の救い主であり、すべての者を愛すという神の正義が成就するときまでイエスさまは私たちのいのちを決してあきらめることはない、ということです。彼は傷ついた葦をおらず、くすぶる灯心を消さないという言葉に慰めを受けて、希望をもって歩みだしていきましょう。