〇聖書個所 マタイによる福音書 12章1~8節

「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。

 

〇宣教「神の教えは人を縛るのか、人を生かすのか」

今日の聖書個所に入る前に、確認しておきたいことがあります。それは1節に「その頃」という言葉がありますが、これはカイロスというギリシャ語です。ギリシャ語には2つの時を表す言葉がありますが、時間の経過を意味するクロノスに対して、カイロスは時機とか機会を現わす言葉です。つまり、わたしたちは物語の連続として読むのではなく、今語り掛けられる神の言葉との出会いが与えられているということです。そのような意味で今日の聖書個所を読んでいきたいと思います。

今日の聖書個所は、「安息日をどのように理解しているか」ということについて、イエス・キリストとファリサイ派の人々の間で論争が繰り広げられた箇所です。みなさんは、「安息日」をどのように理解されているでしょうか。今でも安息日を守っているユダヤ教と比べて、キリスト教は安息日に関して特別なルールはありません。安息日は週の最後の土曜日ですから、私たちにとってはお休みの日として大切だとは思いますが、安息日として特別に守っているという意識はないように思います。

安息日の意味やどういう風に守るのかという定めについては聖書に色々な記述があります。私が受け取っていることとして一言で表すとしたら、こうなります。「安息日は神が天地創造の時に6日間働き7日目に休まれたことから、すべての人が休息を得る日として、また神の創造の業を覚えるための記念日となったものです。だから労働してはならないし、奴隷を含むどんな人にも労働させてはならないわけです。言い換えれば、神の創造された私たちのいのちが休息を得る時、すべてのいのちが守られる日、すべてのいのちを喜ぶ日である。」と言えるでしょう。

ところが今日の箇所では、その安息日にイエスさまの弟子たちが麦畑の麦をつまんで食べた。これがファリサイ派的には安息日にしてはいけないことだということで「論争」が始まりました。ちなみに、この論争は実になかなかヒートアップしまして、9節以降にあるもう一つの安息日論争の果てに、イエスを殺そうかと相談をし始めるほどの確執に繋がっていくほどのものになりました。

皆さんはこの箇所を読んでどのような印象を持たれるでしょうか。私は改めて読んでみて、はっきり言ってなんでファリサイ派の人々がそんなに怒るのかがよく分かりませんでした。安息日がすべての人が休息を得る日であるとしたら、自由にしていたら良いと思いませんか。何何してはいけない、休まなきゃいけないというよりも好きなことを何でもするのが最も良い休息の方法であります。よく遊びエンジョイすることが心と体のリフレッシュにも繋がるわけです。しかしそれが「安息日には働いてはいけない、これこれしてはいけない」と言われてしまうと、なんだか窮屈で休めない日になってしまうように感じます。もちろん安息日を主に捧げる日、礼拝の時として受け取ることもできます。でも、そうであれば自分が主体的に守ればいいと思いますし、他の人がしていることにいちいち目くじら立てる必要はないのではないかと思うわけです。

でもそれは、私たちキリスト教の安息日に特別なルールがないから言えることなのかもしれません。ファリサイ派の人々からしたら、安息日は守るべきものであるわけです。働いてはいけないし、働かせてもいけないというルールがキチッとあったわけです。そういう方々たちからすれば、イエスさまの弟子たちがしたことは収穫という労働でしたから、好意的に考えるとしたら彼らを守ろうとするために、イエスさまにそう言ったのかもしれません。でも、より印象的に思うのが、彼らは感情的に反応しているということです。彼らはここで安息日という自分たちが大切にしている日が踏みにじられたと感じたのです。そういう気持ちは理解できるように思います。例えば自分が大切にしているものがないがしろにされると、ムキになって反応してしまうということがあるからです。または自分が大切にしていることを他の人にも大切にしてもらいたいと思う気持ちもあると思います。今日のテーマは安息日についてではありますが、実は私たちにとってはそれぞれが大切にしているもの、あるいは大切にしている言葉が相手を裁き、神の言葉を縛り付けてしまうことがあるということを今日の箇所から受け止めて参りたいと思うのです。

ファリサイ派の人々がなんで安息日をそこまで厳格に守っていたかと言うと、やはり理由があります。実はファリサイという言葉には「分離された者」という意味があります。つまり、彼らは律法を守ることをしない一般大衆と比べて、自分たちは神の言葉を厳密に守るというアイデンティティーを持っていたのです。なぜ彼らが、律法を厳格に守ろうとしたのかというと、それは彼らがかつて神の言葉を守らなかったことによって裁きともいうべき禍が起きたのだと彼らが信じていたからです。ファリサイ派とは、歴史的にはバビロン捕囚の後、エルサレムに帰還した人々が神の教えに立ち返るという運動の中から起こったグループなのです。時に強烈な反省体験は、厳格な思想信条を生みます。彼らは同じ過ちを繰り返さないために、今度はしっかりと神の言葉を守ろうとなったわけです。そういう意味で彼らはとってもまじめに、ある意味でしっかりと神の言葉を守って生きていたわけです。

ところがそんなまじめな方々が立っていた土台は、その律法の意味するところを行うと言うのではなく、その神の言葉からそれることなく、律法をそのまま行うことだったようです。今日の聖書個所で彼らの目に留まったのは、弟子たちが麦畑を通っているときにその麦をつまんで食べた行為でした。「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている。」

確かにファリサイ派の人々は正しいのです。彼らが言うように、文字的には働いてはいけないのです。働かせてもいけないのです。休むのが目的であるからです。でも、実際に弟子たちがしたことは、道を歩いている途中に、ちょっとつまむくらいであったと思われます。畑に入って道具を使ってごっそり収穫したわけではありません。それでも確かに文字的にはいけないことなのです。もしかして、麦畑から取ったということがいわゆる窃盗だという指摘かもしれないとも思いましたが、調べてみましたら申命記23:26に「隣人の麦畑に入る時は、手で穂をつまんでも良いが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」とありますので、これは罪には当たらないようです。彼らにとっての問題はやはり安息日を守らなかったという一点だけなのです。

私にはイエスさまはそのようなファリサイ派の指摘に対して、なかばあきれながら反論しているように思えます。「罪なき人をとがめるな。」と言う言葉に、勝手にあなたがたが罪ありと人を裁くなと言っているように思えるのです。

イエスさまは二つの譬えを話しています。一つ目の話はサムエル記上21章の出来事の引用です。これは、ダビデは自分を捕まえようとするサウル王から逃れるために、祭司アビメレクのところに逃げ込んだときのことです。彼は空腹で身を守るものを持たない状況で、パンを受け取りました。これは安息日の出来事ではありませんが、祭司しか食べてはいけないと言われているパンを食べたということではまぎれもなく律法違反なのです。しかし、イエスさまは言います。「ダビデは空腹時に祭司の他には食べてはいけないパンを食べ、律法違反したではないか。神はそれを裁いたか?いや、ダビデは裁かれず王位に就いたではないか。神は飢えている人を前にして律法を守れという神ではなく、赦しの神である。」私にはこう言っているように思えます。

続けて、「安息日に神殿にいる祭司は安息日の掟を破っても罪にならないではないか。」と話します。これは皆が安息するために仕事をしている祭司がいる。これは矛盾していることではないか。しかし神はその掟を破っても罪とは見なさないではないか。つまり、一つの教えですべての人を包括することはできない。例外はあるのだ。しかも、神はその教えを破ったところで意にも介さないのだ。何故ならば、律法は守ることが大切なのではなく、律法が意図しているのは人が生かされることなのだということを彼らに示しています。

イエスさまは、彼らにむしろ神の思いに心を寄せることが大切なのだと教えているように思えます。決して律法違反をしても良いと言っているわけではありません。しかしそれよりも神の言葉に込められている神の愛を考えなさいと教えているのです。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはつまり、「いけにえ」とは神に献げられる物であり儀礼的な正しさを示すことです。でもそれよりも大切なのは「憐れみ」という人間に対する神の正しさを求めることなのです。

神が、実に律法という神の教えを語られたのは、人々のいのちの守りのためであります。でも、私たちは、文字にばかり囚われてしまうことがあります。聖書の言葉でもそうです。私たちは神さまはこういう存在だ。神の愛とはこう言うものだ、或いはこうしたら罪になると文字的に捉えてしまうことがあります。しかし神の愛というものは憐れみであり、私たちの苦しみ嘆きをお見過ごしになる方ではないのです。神の言葉は人を生かすものであるのです。しかし問題なのは、私たちが神を規定し文字化してしまい、その存在を縛ってしまうことがあるということなのです。

私は、実は長年の間、神の言葉を自分のものとし、聖書の神を自分に都合の良い偶像の神にして来た者です。というのは、私はこのファリサイ派の人々と同じように、神さまの祝福は神の言葉を守る時に与えられるものであると信じてきました。そしてできる限り神の言葉を忠実に守ろうとし、そうしようとしない人を心の中で裁いてきたこともあります。そういう思いが結構態度に出ていたのだと思います。大学時代、これは神学生時代の話ではなく最初に通った東京の大学での話ですが、ある友人が、彼もクリスチャンでしたが、私の信じているのは、キリスト教ではなくキリステ教だと言いました。私はそう言われてショックを受けましたが、しかし神の言葉こそが正しいのだと信じました。誰にも理解されなくてもいい信仰者は迫害を受けるものだと思っていました。

でもその友人にイエスさまの姿を考えてみろ。イエスさまは正しさを求められた方であったか?それとも人々を愛された方であったかということを解き明かされたとき、私はその彼に対して何も言う言葉がなくなっていました。私は聖書の言葉が正しいと信じてきましたが、実は聖書が言おうとしていること、またイエスさまが云おうとしていることと、私が行ってきたこと、私がより頼んできたことが違ったことに気づいたからです。いや、多分知っていたのです。気付いていたのです。でもそうできなかった。私は結局のところ、聖書の言葉を信じている自分自身が正しいということを示したかっただけだということに気づかされた経験があります。神の言葉を縛ってきたのは紛れもない私である。しかし神の愛は私の理解なんかをはるかに超えて広げられていることに打ちのめされました。同時に、聖書を文字通りに信じる危うさと、聖書の言葉の意味を読み込んでいく豊かさを知りました。

イエスさまは、表面的な正しさよりも神の愛の本質に気付くように促されます。神殿という自らの犠牲を献げることより、福音というすべての人が神に愛され生かされているという喜びの知らせが大切なのです。

「安息日を聖とせよ」。聖とはpurify清めるという意味ではなく、Holy。この言葉は全体を意味するWholeと語源が同じであるようです。安息日は、神の愛に満ち満ちた日であり、すべての命を喜ぶ日です。何故ならば神が私たちを一人一人個性的に自由に作ってくださったからです。私たちにとって大切なのは安息日を守ることではなく、むしろ安息日に大切にせよと言われた私たち一人一人のいのちを大切にすることです。このように神の創造の業を誉め讃えて参りましょう。