〇聖書個所 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16~18節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

〇宣教「あなたがいつも喜べるように」

今日の聖書個所はテサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章16-18節です。これまで私たちはマタイ福音書を続けて読んでまいりましたが、今日はその箇所を離れます。なんでこの箇所からお話しするかというと、その理由はもうすでに皆さまご存知の通り、今日の信仰告白の中で触れられた箇所であるからです。信仰とは基本的には個人的な出来事ではありますが、それが分かち合われたとき、教会の全体の喜びの出来事になります。何故ならば、それは一人の人が信仰を持つことでありつつも、教会という群れに加わることであるからです。私たちはその人の信仰を聞き、それを認め合い尊重し合い、共に祈ります。それぞれ異なる信仰告白、信仰体験を持った者同士が、共に生きていくこの交わりのただ中に神がおられ、そこから神の国が始まっていくということを、今日皆さまと大切にしたいのです。そのために、今日はこの信仰告白の支えとなった聖句からメッセージしたいのです。

この箇所を選んだもう一つの理由があります。それは「いつも喜んでいなさい」と言われても喜べない自分、祈れない自分、感謝できないこともある自分にとって、今日のこの箇所は、大きな慰めと励ましになるのだということを改めて受け止めたいのです。

実は、皆さんの中にもこの聖書個所をご自分の愛唱聖句に選ばれている方がたくさんおられます。私の聖書には私がこの教会に牧師として招聘を受けた時に、皆さまにご自分の愛唱聖句を書いてもらいましたが、3名の方がこの聖書個所を選んでおられました。おそらくそれぞれの方が、この聖句からいただいている恵みは異なると思います。一つの聖書の言葉でも受け取る恵みはたくさんあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」本当に美しい言葉で私たちも慰めを受けます。この言葉のように、いつも喜んでいたいと思います。絶え間なく祈りたいとも思います。どんなことにも感謝できるような心が欲しいものです。ところでこの言葉は、実は命令形で書かれています。皆さんはどうでしょうか。いつも喜んでいますか?絶えず祈っておられるでしょうか。どんなことにも感謝できているでしょうか。多分ここで皆さんに挙手を求めたとしても、すべてできている人は私を含め一人もおられないと思います。何故ならば、私たちにはいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝するなんて不可能に近いものであるからです。

この世の中には喜べないことがたくさんあります。事件や事故、自然災害、感染症を含めてニュースを聞くたびに思います。まさに「エロイ エロイ レマ サバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?)」ということに満ちているのです。そんな時、祈りたいと思っても祈りの言葉さえ出てこない時もあります。祈り続けることは実に大変なことです。感謝なんかできないことがたくさんあるのです。感謝ということが私たちの心から出てくる有難いという感情であるとしたら、感謝できない時には私たちの心はもう疲れすぎて、あまり傷つかないように無感動に、かたくなになってしまうのではないかと思います。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」これは言うほど簡単なことではありません。でも確かに簡単なことであればだれも感動はしないのだと思います。むしろ、困難だからこそ、この言葉の美しさに感動するのです。美しい言葉だからこそ、空虚に聞こえてしまうことがあります。でも、この言葉を書いたパウロのことを少し考えてみると、本当に大変な中においてこそ、この言葉がリアルに響くということが感じられるのです。

この言葉が紡がれているテサロニケの信徒への手紙Ⅰは新約聖書の中で最も古いものであると言われています。福音書よりも古いのです。恐らく紀元50年頃ではないかと言われています。これは、パウロがテサロニケ教会の信徒たちに対して書き送った手紙です。なんでパウロがテサロニケの人々に手紙を書き送ったかと言うと、当のパウロがテサロニケの町を追い出されてしまったからです。この件に関しては使徒言行録17章に詳しくありますが、パウロが追放されるだけではなく、なんとテサロニケ教会の中心であったヤソンという人がパウロに対する見せしめのために逮捕されるという事件があったのです。その教会にパウロはこの言葉を書き送りました。パウロは一体どのような意図を込めて「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と書いたのでしょうか。もしかして、なんか事件が起きたとしても、神さまが最終的には助けてくれるのであるから、あなたがたは逮捕されたとしても喜びなさい、感謝しなさいと伝えたのでしょうか。もしそうであれば、わたしはこの言葉はとても無責任な言葉であると思わずにはおられません。

と言うのは、彼は幸い助かりましたが、自分のせいで人が捕まえられてしまったのです。もちろんパウロ自身が悪いわけでもないのですが、自分自身がそのきっかけになったことを棚に上げておいて、「喜びなさい」なんてどの口が言えたものかと思います。

でも、もちろんパウロがこの言葉に込めている意味はそういうことではありませんでした。パウロにとってもこの出来事はものすごくつらく苦しい出来事だったようです。だから、パウロはテサロニケから脱出しても彼らを心配しており、すぐさまこの手紙をテサロニケの人々に届けたのです。それは当のパウロ自身はその町に戻ることができなかったので、せめてものこととして言葉を書き送ったのでしょう。そして彼がその手紙の最後に残したのがこの言葉であったのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

この言葉には、彼らの関係性の上においてパウロの色々な思いが詰まっていると思いますが、最も大切なのは、最後に書かれた「これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることである。」という言葉です。

つまりパウロは、あなたがたは常に様々な苦難があるだろう。また再び暴動が起きて、皆さんの身に危険が迫るかもしれない。しかし、そんなあなたがたのために、神はイエス・キリストをあなたがたに与えられたのだ。神がイエス・キリストをあなたがたにお与えになったのは、「あなたがどんな大変な状況にあろうとも、いつも喜べるように、いつも祈れるように、どんなことにも感謝できるようになるためなのだ。」と語っているように思えるのです。

イエス・キリストにおいてとはどういうことでしょうか。イエス・キリストはよく神の愛であると言われますが、その愛をより具体的に言うと、私たちがどのような状況にいようとも、私たちを見つけ探し出し、声をかけ、私たちに伴い、私たちの悩み苦しみを共に担ってくださる方であり、まさにいのちの限り、世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださると約束してくださる方であるということです。

つまり、順風満帆にいっているときにはなかなか気づくことはありませんが、私たちが喜ぶことができないような中で、祈ることもできない、つまり絶望的な状況、感謝なんて程遠いときに、そんな私のところにイエス・キリストが来てくださることを感じるのです。例えば私の場合、長い間自分のことが好きではありませんでした。人の目ばかり気にして、人の期待に添うことでしか自分の価値が見いだせない自分が受け入れられなかったということがありましたが、そんな私に対して、「神は私を大切な特別な存在としてこの世に作ったのだということ、そしてあなた自身のあるがままを神は愛している」ということを気づかせてくれました。確かに苦難はあるのです。でも、イエス・キリストにおいて神はその苦難を最後まで歩み通せるように力を与えてくださるのです。そして、そのイエス・キリストによって私たちの心に喜びと祈りと感謝が出てくるのです。

実は、「喜びなさい」という言葉は、先週のマタイによる福音書の復活の箇所で、マリアに現れたイエスさまが語る言葉「おはよう」という言葉と同じです。この言葉はより原意に違い言葉では「喜びなさい」という意味であると言いました。私たちには復活の主の伴いがいつもある。神の目はこんなに小さな私たちにも向けられている。だから喜べるのです。祈るとはただ委ねるというよりも、方向を定めて祈ることです。神に私たちの願いを求めるのです。「求めなさい。そうすれば与えられる。」のです。そのとき起きたことは、私たちが願った通りのことではないかもしれません。しかし、神はその祈りを無に終わることはありません。神は私たちに常に恵みを備えていてくださるからなのです。だから私たちは感謝できるのです。

実は今日の信仰告白とバプテスマは、昨年12月27日に予定されていたものでした。しかしその日は「不具合が起きた」として延期させていただいておりました。本当は、前日に水をバプテストリーに水を張り、電熱器で温める過程で水漏れが起きて、バプテストリーが焦げたという事故が起きたのです。夜中に気付き、応急処置と掃除をして何とか事なきを得ましたが、その翌日はまだまだバプテスマを執り行える状況ではないと判断し、延期とさせていただきました。私たちの喜びであるバプテスマが、その年の終わりの日に行われるということで最高の形で締めくくろうとしていた中で、本当にショックなことでした。ご本人は笑って許してくださいましたが、本当になんでこんなことが起きるのだろうと思いました。もちろん、神さまが最善の時を用意してくださるだろうとは思いましたが、そのように祈りつつやってきましたので、それだけで済ませてはならないと思いました。

でも、今日のこの日のために、本当に多くの方が祈りの中でこのバプテスマに備えてくださいました。朝九時に集い、お湯を継ぎ足してバプテストリーの準備をしていました。重いお湯だったと思いますが、みんなが喜びながらバプテストリーの準備をされているのを見て、ここに神の国があるというこを感じました。またそれ以外の方もバプテスマのために祈ってくださいました。ここに生まれた関係性というものが、私たちの今後の信仰生活にもっとも大切なことではないかと感じています。

私たちは困難に一人で立ち向かうことはできません。手紙を書き送る人、その言葉を分かち合う人、そして祈り合う関係性にあって、私たちは常に歓び、絶えず祈り、すべてのことが感謝できるようになっていくのではないかと思うのです。パウロの言葉は、そのような意味で今を生きる私たちに響くのです。これが、イエス・キリストにあって神がわたしたちに望んでおられることなのではないでしょうか。