〇聖書個所 マタイによる福音書 11章1~11節

イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

 

〇宣教「期待外れの救い主が来たら?」

今日の聖書個所は、マタイ11章1-11節ということで1が並んでいますが、聖書は19節まで取り上げます。聖書をお持ちの方はどうぞ聖書を開きながら宣教を聞いていただければ幸いです。今日の宣教は、「期待外れの救い主が来たら?」という題でお話しします。

皆さんは、救い主というとどんなイメージをお持ちでしょうか?例えば、困難の中にあるときには力強く助けてくれる人でしょうか。苦しいときには傍らに寄り添い勇気を与えてくれる人でしょうか。貧しいときには知恵を与え私たちを豊かにしてくれる人でしょうか。あるいは不正を明らかにし、悪を裁く正義の人でしょうか。同じ「救い主」という言葉でも私たちはそれぞれ違うイメージを持っています。それでは仮に救い主が来たとして、それが私たちそれぞれの想像している救い主と全く異なったものだったとしたらどうするでしょうか?

もしかして、牢獄に捕らえられていたバプテスマのヨハネにとって、イエス・キリストはそんな存在であったのかもしれないと思うのです。でも、このように言うとちょっと驚かれると思います。何故ならばバプテスマのヨハネとは、神がイエス・キリストの働きに先立って「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と備えた預言者であるからです。また、彼はイエスさまの母マリアの親戚エリザベトの子どもでしたので、イエスさまとも親せきであり、お互いを知っている存在であったはずです。そんな彼はイエス・キリストを「神の小羊」と呼んでいます。さらにバプテスマを授ける際、「わたしこそあなたからバプテスマをうけるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか」と言っています。こうした彼がイエスさまを救い主として疑っていたというのでしょうか。いや、そんなわけはない。ヨハネはイエスさまが救い主キリストであることを知らないはずはない。だからヨハネが弟子たちを送ったのは、「弟子たちに救い主が誰であるか、はっきりとわからせるためだ。」語られてきましたし、実際わたしもそう思ってきました。そうでないと一貫した神の働きに自己矛盾が起きてしまうと思うからです。

でも私は今日、イエス・キリストの語る「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」という言葉を受け止めたいと思うのです。そして私たちがこれまで見聞きしてきたことを改めて見つめなおしてみたいのです。私はこれまでのヨハネの言動を考えつつ今日の箇所をよくよく読みました。そうしたらやはりヨハネ自身、イエスさまが本当の救い主かどうか見極めようとしていたように思えるのです。その最大の理由は、ヨハネが待ち望んでいた救い主像と、実際のイエスさまの姿には大きな差があるということです。また実際にヨハネ自身がやってきたこととイエスさまがやっていたことにも違いがあります。

例えばマタイ3章7節以降、ヨハネは救い主についてこう言っています。「その方は聖霊と火でバプテスマをお授けになる。」他にも「斧は、既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒される。」「差し迫った神の怒りが来る。」「だから悔い改めてバプテスマを受けなさい。」このような言葉を聴くと、つまりヨハネが求めていた救い主とは、この世の中を神の正義の内に正す方であり、神を信じる者を救い、信じない者を裁く救い主でありました。面白いのが、ヨハネはこれをファリサイ派やサドカイ派という「神の教えを信じ、また行なって生きている人々」に対して語っていることです。つまりヨハネは、「お前たちは口では神を信じているとは言うけれど、本当に神を信じて生きているのか。本当に神の教えを生きているのか。悔い改めに相応しい実を結べ。そうでないと、あなたたちは切り倒されるぞ。その方がいまや来られるのだ。」と語っているのです。

もし仮に律法学者やファリサイ人が律法という神の道を守る人々だったとしたら、ヨハネはその最も根源的なところ、まさに神の道をまっすぐにするためだけに生きていたわけです。そんなヨハネは、18節に「あれは悪霊に取りつかれている」と噂されていました。確かに彼は厳格に神の言葉を信じていました。彼はナジル人という神さまの御用をする約束の中で祭司の家で育てられました。恐らく子どもの時から使命を聞かされ、彼はそれをまっすぐ受け止めて成長したのでしょう。大きくなってからはユダヤの荒野に住み、ラクダの毛衣を着て、革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていました。そんなヨハネは同じく神の言葉を守って生きていたはずのファリサイ派の人々を非難しました。それは、彼には彼らが神の言葉のみせかけだけを生きているようにしか映らなかったからです。だから彼は、神の前に、或いは公の場で自ら悔い改め生き方を変えた者に対してヨルダン川でバプテスマを授けていたのです。まさにイエスさまもそのバプテスマを受けた時点で生き方が変わりました。このようにヨハネは一言で言えば、変人という、常識では考えられないほど突き抜けていた人であり、差し迫っている神の裁きに備えて生きている人でありました。

ところでそんな彼の目にはイエス・キリストはどう映ったでしょうか。イエスさまは、「大食漢で、大酒飲みだ。徴税人や罪びとの仲間だ」と言われていました。これはみせかけのファリサイ人よりひどい有様です。神の裁きが近づいているときに、そんな自堕落にみられていたイエスさまは恐らくヨハネにとって、「本当にあなたが救い主なのですか」と問いかけたくなるほどショックなことだったと思います。これはヨハネにとってイエスさまが全く期待外れの救い主であったと言えるのです。

確かにイエスさまは、「良い実を結ばない木はすべて切り倒し、火に投げ込む救い主」どころか、「実のならないイチジクの木に期待をし、もう一年周りを掘って肥しをやって実を結ばせるように努力する救い主」(ルカ13:6)でありました。世を裁くどころか、世を救うためにやって来られた救い主。人々を深く憐れみ、病人に手を置いて病を癒し、煩いを平安へと導き、囚われから解放する救い主でした。でも、そんな救い主像をヨハネは思い描いていませんでした。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これはイエスさまもヨハネも語っている言葉です。ところが同じ言葉でもその意図するところは違いがあります。つまりヨハネにとっては悔い改めた人が救われ天の国に入るという裁きの言葉であり、イエスさまにとっては、「天の国はあなたがたのところに無条件に近づいているのだ。だから立ち返れ。そして共に生きていこう。」という福音の言葉であったのです。

ですから、ヨハネにとってイエスさまは思いがけない救い主でした。恐らくヨハネは自らの理想と現実のただ中で戸惑ったのだと思います。ちなみにこの時、ヨハネは牢獄にいたとあります。状況的にはガリラヤの領主ヘロデに捕まっていたと思われるわけですが、象徴として考えればまさに彼は自分の理想、或いは幻という牢獄に囚われていたともいえるかもしれません。普通ならその牢獄のとりこになって生きるところです。その救い主を認めないということだってできたはずです。

私たちも経験があると思います。自分の思いがいつしか理想を生み、その理想と現実とのギャップに苦しむことです。その差を埋めるのは容易なことではありません。イエス・キリストを十字架にかけた人たちもそうだったでしょう。「人は救えるのに自分は救えない救い主。十字架から降りて来られたら信じてやる。」これは、私たちにとっての救い主とはこう言うものだという理想があり、それにそぐわない存在に対して向けられる失望の言葉、敵意の言葉です。私たちにとっては聖書の読み方というものもそうかもしれません。キリスト教とはこう言うものだ。「正統派」或いは「保守派」という考えを持つ方々もおられます。でも、時に正しさというものが人を傷つけ、そのような正しいキリスト教会が裁きの場となってしまい、本当に救いを求める人を傷つける場所になってしまうということがあるのです。イエス・キリストの福音の現実を見ずにいわゆるキリスト教の理想、或いは自分自身の願望を持ち込んでしまうことがあるのです。しかしそれは本当にイエスさまの望まれた姿なのでしょうか。

ヨハネがその働きとしていた「主の道を整え、その道をまっすぐにする」ことは、言い換えれば正しい道を求めるがあまり、その道に相応しくない人、例えば悔い改めることができない人などをはねのけてしまうことでした。正義は常に常識としては正しいことです。そしてそれは確かに神の道をまっすぐにすることでした。彼がやっていたことは確かに誰にでもできることではありませんでした。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」と言う言葉もうなずけます。しかしです。イエスさまは「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」と言うのです。女から生まれると言う言葉は、「霊によって生まれる。」(ヨハネ3章)という言葉と対比されます。つまり、ヨハネがしていたことは確かに福音の前の準備でしたが肉の業であった。しかしイエスさまの福音は霊の働きであるのです。そしてイエスさまの正義は常に愛であるのです。ここにヨハネとイエスさまとの大きな違いがあります。

ところでそんな中でも私がヨハネを見習いたいと思うことは、彼が人を送ってイエスさまに聞きに行っていることです。わたしならそんな私の理想と違う救い主なんて、受け入れたくないと思います。仮に本当であったとしても、目を閉じたくなるものです。でも彼は弟子を遣わして「あなたが来るべきキリストですか?」と問いかけたのです。それは、彼自身が自分の牢獄から解放されるためであったのです。つまり、自分の解放をイエスさまに委ねたということです。

ところがそんなヨハネの弟子に対してイエス・キリストは言います。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」イエスさまは自分で「わたしはそれである」とは言われませんでした。つまり、キリストがどのような方かを判断するのは自分自身であるということなのです。そしてその中で大切なのが、見聞きすること、つまり実際にそこで何が起きているかということに心を開くことであるのです。自分の中の牢獄に捕らえられ続けてはならないのです。

実は新共同訳聖書では、「見聞き」となっていますが、ギリシャ語では「聞いたこと、見たこと」です。この順序は大切です。何故なら、実際に自分の目で見ることは自分の中で認識することになりますが、人に起こった事実を聞くことは自分自身の認識を開くことになるからです。弟子のトマスは、イエスさまの復活を他の弟子から聞いても頑なに「自分の目で見なければ信じない」と言いましたが、ローマ10:17「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聴くことによって始まるのです。」とある通り、他の人に実際に起きたことに耳を開いて信じることから始まるのです。言い換えれば人の言葉を聴けないとは既に自分の牢獄の中に捕らえられているということであり、躓いているということもできるでしょう。

もちろんそうは言っても、何でもかんでも信じることはできません。「私たちの言っていることは正しい」という偏った情報はいつの時代も溢れかえるものです。だから他の人の声を聞くことに疲れ、自分を守るために内側にこもってしまうこともあります。私も思います。でも、自分だけの真理に生きていくときにそれはどんなに正しいことであっても間違ったことになります。何故ならばそれはイエス・キリストの生き方と違うことだからです。だから私たちは人の話を聞き自分で見て自分で判断することが大切なのです。つまりイエスさまは、あなたがたは人々に出会って行き、そこで実際に起きた出来事、私たちの想像を大きく超えて働かれる主の働きを聞き、それを見て私たちの認識が変えられていくということ、新しくされていくことが必要だというのでしょう。ヨハネは実際には牢獄におり、出会うことはできませんでした。しかしその言葉との出会いの中でも同じことが起きるのです。つまり「来るべき方はあなたでしょうか。」という問いに対して、言い換えれば、自分の中で作り上げられた救い主像がいつ来るか祈り求めることが大切なのではない。むしろ、いまそこに起きている救いに目を留めること、そこに私たちの解放と言う救いが起きるのだとイエスさまは言われているのです。

この言葉はいま、私たちに向けて語られています。わたしは、まさにこの言葉に励まされています。御言葉と格闘すると言う言葉があります。自分自身として聖書に向かい合うことがつらい時期がありました。この聖書が何を言おうとしているかを必死に求めます。毎週語るのはやはり大変なことです。でも、今聖書を読むと、イエスさまがわたしに語り掛けてくるようでとても楽しいのです。もちろん、私が語っていることが神学的に正しいかなんてよくわかりません。でも、この出会いの中で私自身が解放されていることを感じます。聖書が語ろうとしていることは一つのことではありません。むしろ今の私たちに語られていることをしっかり受け取り、新たにされていくことをイエスさまは願っておられるのではないかと思います。

宗教改革の時、マルチンルターはこの運動を、「教会の教える伝統から聖書に立ち返る運動だ」と言いました。しかしより具体的に言えば、聖書に立ち返ると言うよりは、福音に立ち返ることだと思います。ルターは聖書に縛られていました。こうしなければ救われないと思っていました。その聖書は教会によって縛られていました。しかしその聖書に書かれている信仰義認という福音によって彼は解放されたのです。これはまさにイエス・キリストに自由にされたということです。私たちも同じように私たち一人一人に語り掛ける神の言葉に立ち返るのです。これからの時代、大切なことはやはりそういうことだと思います。礼拝もそうです。私たちは教会に集い、礼拝を守ります。礼拝が教会の中で一番大切なことです。でも礼拝を守ることが一番大切なわけではありません。語られる言葉、今ここに生きて働かれる聖霊によって私たち一人一人が新たにされ、私たちがいまや来られた救い主イエス・キリストの言葉によって生かされることが最も大切なのです。

私たちを解放し、復活へと導く方の言葉によってこのときを生かされて参りましょう。