〇聖書個所 マタイによる福音書 9章35節~10章4節

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 

〇宣教「すべては神の国の福音によって」

今日の聖書は、12使徒がイエス・キリストの福音宣教のために選ばれ、派遣されるための根拠となっている有名な箇所です。この中でも特にクローズアップされることは、36節でイエス・キリストが群衆を深く憐れんだということです。ギリシャ語の聖書には「憐れみ」と訳せる単語がいくつかありますが、この深い憐れみという言葉は、ただ「可哀そうね、助けてあげよう」的な同情や慈善といったものではなく、スプランクニゾマイという言葉が使われています。この言葉の語源であるスプランクノンが「腸」という意味の言葉であるということから、深く憐れまれたとは、まさに自らも腸が千切れるようになるほどに、決して他人ごとではなく自分自身の事柄として共に苦しまれたというキリストの深い愛情、まさにパッションが伝わってきます。そして、弟子たちに語る「働き人を送ってくださるように収穫の主に祈りなさい。」という熱い思いが、12人の弟子たちの献身という応答となり、派遣されていくことになったことが、この箇所からよく語られることであります。

でも私は今日改めてこのマタイ福音書を読み進めていく中で、これとは少し違うメッセージを受け取りました。実は、今日の聖書個所は、聖書学的には「まとめ記事」であると言われており、具体的で特定できる出来事がありませんので、この内容自体の意味について深く踏み込まれることはありません。でも、実は聖書を続けて読んでみる時、ここには必然的でかつ意図的なイエスさまのメッセージが入っていることに気が付いたのです。ポイントになるのは、やはりイエス・キリストの深い憐れみなのですが、それがどうして起こったのかということです。群衆は何故「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた」のでしょうか。それはつまり、彼らには頼るべき存在、あるいは彼らを守るべき存在がいなかったからということなのです。

本来であれば、羊は羊飼いに守られ支えられ生きていく道を備えてもらいます。羊飼いの杖は羊を導き、羊飼いの鞭は外敵から羊を守るのです。その代わり羊は自分の体から作られる乳や毛を提供するわけです。同じように神の恵みと守りを受けている人は、神を礼拝して自らを捧げて生きるのです。神はすべての人を小羊として愛しており、人は神の恵みのうちに生かされているからです。でも、彼らは飼い主のいない羊のようでした。つまり、彼らは神に見放されていたのでしょうか。いや具体的に言うと、神の愛を語り、神の教えを伝えるべき人から見捨てられていたのではないでしょうか。

彼らにとっては、自分を支え守ってくれる祭司も律法学者もいなかったどころか、彼らからひどい目にあわされていたのではないかと思うのです。それを示す印象的な言葉が先週の聖書個所の最後にあります。そこには、悪霊に取りつかれ口がきけなくなっていた人がイエス・キリストによって癒された出来事がありますが、その時ファリサイ派の人々は「この男は悪霊の頭の力を使って悪霊を追い出した」(マタイ9:34)と言いました。

私ははじめ、彼らの言葉はイエスさまのしたことへのやっかみの言葉だと思いました。でもよくよく考えてみると、根はさらに深刻です。というのは、彼らはこの人の癒しを喜ぶことができていないからです。むしろ、癒されたことが不都合だ。癒されないほうが彼らには良かったのです。何故ならば、当時は病や煩いが罪によるものだと思われていましたので、つまり彼らは神に裁かれてそうなったのだ。だから、神以外の人に癒せるわけはないし、癒されてはいけない。彼の癒しのために何かをすることさえおこがましい、不敬虔で不信仰だと思ったのではないでしょうか。彼らのこのような考えは、「安息日に癒しの業を行ってはならない」という他の聖書の箇所の言葉、つまり「人の生死を問う緊急事態であったとしても神の教えが優先されなければならない」ということに表されています。

もちろん本来の神の教えとは、イエス・キリストが「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。人の子は安息日の主である。」(マタイ12:7-8)と言われたように、安息日であろうがなかろうが人を助けるのが神の御心に適うことです。しかし、彼らファリサイ派の人々は、聖書の言葉を語っていながらも憐れみの心を持たず、律法というルールに基づいて人々を非情に取り扱っていたのです。それは彼らにとっては正義だったのかもしれません。しかし、それはもはや神の働きではなく、むしろ人々の心を蝕ませる「汚れた霊の働き」であったと言えるのではないでしょうか。

つまりこの群衆は、神の教えを語り神の愛を民衆に行っていくはずのファリサイ派や祭司、律法学者から差別され、罪びとと断定され、見放されていた。しかも、それが神の言葉、律法によって正当化されていたのです。これが、彼らが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた」という原因であったわけです。そしてイエス・キリストはそのような差別構造に気づき、それでは果たして会堂では一体どのように神の言葉が語られているかを調べようとされたのではないでしょうか。

今日の聖書個所35節で、イエス・キリストは町や村を残らず回りました。もっと具体的に言うと、町や村を回ったのはすべての会堂、つまりファリサイ派の集会場所に行くためでありました。ユダヤ教の会堂では、モーセの律法が朗読されていました。律法、つまり聖書は当時、律法学者によって語られる物でありました。民衆の多くの人は自分で律法を読むことができず、子供のころから語られる言葉だけを聞いてそれを鵜呑みにそのまま規範的に、聖書に書かれているのだからこのようにしなければならないと読まれてきたことを信じて受け止めるしかなかったのでしょう。

でもそのような読み方では、恐らく彼らは、心が慰められたり、燃え上がらされたりするような御言葉との出会いにはならなかったのではないでしょうか。かえって「自分たちはそれをすべて守ることはできない。自分は神の裁きにあっても仕方ない」と打ちひしがれていたことが予想されます。規範的な読み方というものは、色々な状況がある人々のことを理解せず、むしろ裁くものになってしまいます。

ですから、イエスさまは、会堂で聖書を教えられることから始められたのです。聖書に書かれている事柄を読み解いて、神の愛を語られたのです。聖書はただ書かれていることをそのまま信じればよいというのではなく、その背後におられる神の愛を語るものです。神が語られた言葉がたとえ自分には守れなかったものであったとしても、では何故守れないのか、そのような人に神はどう伴っていかれるのかなど、その御言葉が自分の事柄として出会っていくことこそがもっとも重要なのです。そしてそこに生きて働くものが聖霊であり、その出会いに信仰が生まれるのです。

イエスさまは会堂で聖書を教えられ、「御国の福音」を語られました。私はここが決定的に重要だと感じています。イエスさまが聖書を教え告げ知らせたかったことは、この御国の福音に他ならないからです。御国の福音とは何か。それは直訳すると、「神が王として治める国の良き訪れ」、「神が唯一支配する国のグッドニュース」であるのです。つまり、神以外の教えが今、あなたの心を支配しようとしている。しかし、そうではない。神があなたの唯一の王として来られているのだ。聖書が語っているのは、その神のあなたへの特別な愛である。その神が願っていることは、神があなたをそのままで尊いユニークな命として創造されたように、あなたの命そのものがそのままでこの世界で尊い存在であることを示すことであるのです。その価値観の中で生きて生きなさいということであるのです。実は「収穫の主に願いなさい。」の一文で、働き人が少ないというのは、本当の神の働きのための働き人はまれであるということ。つまり、多くの働き人たちは自分たちの稼ぎを得ようと収穫を奪って行こうとする。でもそうではない。本当の収穫のための働き人とは、あなたたちのそのままの命が素晴らしい、満ち満ちているのだということを伝え、それぞれで花を咲かせ実を結ばせることを伝えることなのです。そのための福音宣教者、そのための汚れた霊の追い出しが弟子たちに委託されたのです。

このような教えは、人々にとって、こうしなければいけない、ああしなければいけないという画一的に生きていきなさいという教えではなく、あなたのそのままで生きて生きなさいという神の全肯定のメッセ―ジとなります。それがすべての者の心を開き、自由と解放を与える神の御言葉なのです。

私は、今日の聖書の箇所で最も大切なことは、イエス様が神の福音を語り伝えるために、会堂を回り、聖書を教えられたこと。そして福音が語られた結果、人々の病や煩いが癒されたということなのだと感じます。宣教題に「すべては神の国の福音によって」とさせていただいた通り、すべては神の国の福音を語るということから始まるのです。

そしてその神の福音が語られた結果、汚れた霊は追い出されるのです。神の福音の価値観の前に、汚れた霊、つまり人々の心を支配する悪い教え、間違った教えは生きていくことができません。むしろファリサイ派の人々はイエスさまを悪霊の頭の力を使ったと言いましたが、人を悪霊、悪魔呼ばわりする人の方がよっぽど、権威主義的で悪魔的な存在であると思います。しかも、そういう人に限って、自分を光だ、正しいのだと言い張るのです。悪魔は自分を正しく見せようとすることは、エデンの園から始まっていることです。そしてその結果、罪なき人が陥れられるのです。

この汚れた霊の働きは、私たちが今日生きている社会の中にもあります。例えば、人為的で差別的なレッテルであったり、自分は正しいという絶対的な立場に立ったうえで違いを認めず相手を抑圧する人々に明らかです。

先週ミャンマーでクーデターが起こりました。このクーデターは、選挙が自分たちの思い通りに行かず、自分たちの価値感が否定されたこと、それでも自分たちが正しいのだという思い込みによって起きた暴挙です。これは人々の自由と人権を暴力的に抑圧するものです。このようにして暮らす場所を奪われた方々の中に、今私たちと共に信仰生活を守る方々もおられます。

またオリンピック関連の出来事の中にも会長が女性云々という話をしたことがニュースに上がっていました。違いがある人たちが共に話し合えば会議の時間が長引くのは当たり前です。でも、そのプロセスが多様性を認め共に生きていくために不可欠であるのです。しかしこれまで通りが良いと言う方々は、その多様性に目を留めず、まさに小さな声に耳を貸さずに踏みにじるものです。そして残念ながら、差別があるということについて、差別をしている自分たちは気付かないものです。

しかし、そうではいけないということをイエス・キリストは伝えようとしているのです。正しいものは神の国の福音であり、憐れみなのです。イエス・キリストを通してご自身を明らかにする神のみが光であるということを忘れないようにしなければなりません。つまり聖書の言葉を読んでいたとしても語っていたとしても、私たちはイエス・キリストの光なしには、簡単に道を踏み外してしまうことがあります。

ファリサイ派の人々だって、別に人に悪いことをしようと思っていたわけではないでしょう。むしろ、とても純粋な人々であったのだと思います。でも、その人でも見たことを信じられず、意固地になってしまうことがあります。そんな風に思う時に、ふと気づくと、自分自身さえ同じようなことをしてしまっていることに気づきます。子育てをしていて、自分の都合のために、或いは自分の都合に子どもたちを合わせるために、子どもたちの自由なふるまいを抑圧していることに深く反省させられます。

どうしたらいいのか、と悩むこともありますが、簡単にその枠組みから自由になることはできません。でも、そのような時にこそ、そんな私たちのためにイエス・キリストはご自身を捧げるほどに愛してくださった、深く憐れんでくださっているというこころに心を留めたいのです。私たちにできることはそのような時にこそ、自分自身を主なる神の手に委ね、神の国の福音に慰めと平和を頂いていくことなのではないでしょうか。

私たちは様々なものに囚われがちなものです。でも「真理は、あなたがたを自由にする。」(ヨハネ8:32)とあるとおり、イエス・キリストはまさにそんな私たちを解放し、自由へと導いてくださるためにこの世に与えられました。そして神は今、違いを持った人々と共に生きていくように私たちを招いてくださるということに心を留めて参りたいと思います。

今日は主の晩餐式が守られます。イエス・キリストの流された血と体が、そんな私たちのものであったということに改めて心を留めて、願わくは祈りつつ共に受け取って参りましょう。