〇聖書個所 マタイによる福音書 10章8~15節

病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

 

〇宣教「ふさわしい人とは誰か」

今日の聖書個所は実は先週も一緒に読んだ箇所ですが、その時はほとんど触れることができませんでした。今日この箇所どうしようかな、読み飛ばそうかなとも思ったのです。でもこの箇所は、イエス・キリストによる派遣される弟子に対しての基本姿勢の訓示でありますし、よくよく読んでみるとこの言葉は12弟子に向けて語られているというよりも、むしろ現在のキリスト教会、さらに言うと自覚的信仰に生きるバプテスト教会が常に考えるべきことが教えられているように感じました。

イエス・キリストはまず7節において「天の国は近づいたと宣べ伝えなさい」と言われました。どこに近づいたのか。それは彼らがこれから出会っていく人々、イスラエルの家の失われた羊にです。イスラエルの家の失われた羊とは、迷い出た羊のことだと先週の宣教の中でお話ししました。神の国イスラエルから迷い出でしまったような羊に対して、イエスさまは第一声で福音を告げられるのです。これは福音宣教こそが最も大切な弟子たちの働きであることを教えています。

それに引き続き8節に「病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」と言います。これは弟子たちのするべき働きですが、ここまで具体的に書かれるとなんだかこれが最も大切なことのように思えてしまいます。聖書の奇跡物語として読むと、「フムフムなるほど」と読めるのですが、実際に今私たちに同じように語られているかと思うと、皆さんはどうお感じになるでしょうか。

私にはイエスさまはさも簡単そうに言っているように思えますが、でも一つ一つがとても重大なことだと思います。病人の癒しさえそんなに簡単なことではありません。死者を生き返らせるなんてとんでもないことです。もちろん、そんな力が与えられたらどんなに良いかと思います。弟子たちには、汚れた霊を追い出す権能が与えられたからいいでしょう。でも私たちには何の力もありません。ですから「そんなの無理なんじゃないの」と言ってしまいたくなります。もしここで求められているものが、本当に病の治癒や復活、清め、悪霊の追い出しという「問題の解決」をもたらすものなのだとすれば、それは何の力も知恵もない私たちには難しいことなのだと思ってしまうのです。

でもここでわたしたちが目を留めたいことは、それらの具体的な働きの内容より、イエス・キリストの福音宣教が先行しているということです。つまり私たちには何もできないように見えても、一つのできることがあるのです。それはその人たちに会いに出かけていくことです。そして「天の国はあなたがたに近づいた」と告げ知らせていくことなのです。あなたが迷える羊となった理由は関係ない。そんなことは問いもしません。しかし神はあなたに目を留めておられる。そんなあなたのいのちを尊く大切に思っておられる方がそのことを伝えるために、私たちが遣わされてきたのだということです。

ここが一番大切だということを忘れてはなりません。むしろ、癒しなどの奇跡とはそのような神との出会いや交わりから起きていくことなのです。ここでいう病や死とは端的に言えば、その症状のせいで人の交わりから断たれていくことであります。精神的物質的社会的に孤独になり霊的に孤立していくのです。霊的と言うのは、まさに神からも見放されたかのように感じてしまうことです。文字通り彼らはイスラエルから失われた、迷い出た羊であったのです。しかし、神はそんなあなたを愛している。そんなあなたのためにいのちがけであなたを探しに行く。あなたがたは独りではない。そんな神が今あなたがたと共にいることを伝え、共に生きていく時に癒しという奇跡は起きるのではないでしょうか。

こんな時に思い出す讃美歌があります。「心挫けて」という讃美歌です。天使にラブソングをでも登場したHIS EYE IS ON THE SPARROWという曲名の方が有名かもしれません。

「心挫けて思い悩み、などて寂しく空を仰ぐ、主イエスこそただ、真の友、一羽の雀に目を注ぎたもう。主は我さえも支えたもうなり。声高らかに我は歌わん。一羽の雀さえ、主は守り給う。」

ちっぽけな自分、まさに無力で価値のない存在のように思える私は、群れから見放された一羽の雀のようになることがあります。しかし、神はそんな一羽の雀にさえ目を留め、私たちを悲しみや悩みから賛美へと導いていかれるのです。

イエス・キリストから派遣されるというと、何か私たちがイエス・キリストの代理人として何かすることを考えてしまいますが、むしろ最初から最後までイエス・キリストの伴いによって起き上がってくる出来事であるのです。それが具体的に私たちが出会うことによって始まっていくことであるのです。

でもそんな時、私たちはどのようにしてその人の問題が解決するか、解決しなければいけないと思い、自分には無理だとか臆病になってしまうことがあるのです。しかし、そのような解決を手助けすることは出来なくても、その人を孤立から守ることができます。そして何もできなくても共に考えていくことができます。伴走、伴って走ると書きますが、最近そのような「伴走型の支援」が大切であると言われています。
イエス・キリストはつまり、私に何ができるかとか結果が出せるかということではなく、共に歩んでいきなさい。あなたが出会っていくことからその状況は変えられていくということを教えているのではないでしょうか。そして、そのような交わりにこそ、神の国がまさに近づいてきているのだということを感じるのではないでしょうか。

8節の後半「ただで受けたのだからただで与えなさい。」という言葉以降は、その働きに仕える弟子たちの心構え、姿勢が教えられています。しかしここには私たちが考えるべきいくつかの疑問があります。

まず第一に「働く者が食べ物を受けるのは当然か」ということについてです。弟子たちが与えられた権能というものは、まさにイエスさまから与えられた賜物ですので、その働きは無償で行われるべきものです。その際「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。」と言われます。帯と言うのは財布です。袋(荷物を入れるためのカバン)や着替えの下着、足を守る履物、歩みを支えるための杖というものは、旅をするうえで欠かせないものでした。しかし、それらを持っていってはならない。つまり、自分を守るべきものを自分で用意しないということ、むしろ福音の言葉だけを頼りに出かけて行きなさいと言っているのです。

とても信仰的な言葉だと思います。でもなかなかにチャレンジングな言葉だと思いませんか。普通出かける時と言うのは、自分でプランして必要最低限の荷物をもって、自己責任で出かけるものです。例えば山登りやキャンプに出掛ける時はそこには何もありませんからしっかりとした備えが必要です。じゃあ実家に里帰りする時には何も持たなくていいのか。やはりそういうわけにもいかないと思うのです。私たちはどこに行くにしても出掛ける時にはやはり準備が必要なのです。しかもそれが食料や飲み物であった時は特に重要です。果たして本当に神の御言葉だけを頼りに出かけていって大丈夫なのでしょうか。

もし仮に私が何の準備もせずに、ただ神さまの御言葉だけを信じて「宣教旅行に行ってきます」って言ったら、多分皆さん無茶だと思われると思います。私も他の人が行こうとしたらやめとけって言うと思います。でも、もし私がそのように出かけてきた人に出会ったとしたら、「しっかり準備してこなきゃ無理だよ」とは言いつつも、一食くらい準備するのではないかと思います。「寄留者をもてなしなさい」という言葉もありますが、ここで教えられているのは、つまり恵みによって生かされることを期待しなさいということなのでしょうか。

かつてカトリックの聖人である聖フランシスコが、施していただいた恵みによって生活をする「托鉢修道会」を始めました。それは当時とても信仰的だと大変称賛されました。確かにすごいことだと私も思います。でも仮にそういうことが教えられていたとしても、これは恵みとして受け取ることであり、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」と言う言葉には繋がらないのではないかと思うのです。

「働く者が食べ物を受けるのは当然である。」つまり神の働きをする人は施しを受けて当たり前だ。それは果たしてどうなのでしょうか。実は9節「帯の中に金貨や銀貨、銅貨を入れて行ってはならない」と書かれている文章は、「入れて行く」ではなく、「入れる」つまり「自らの懐に入れてはならない」ということでもあります。それでは金ではなく食べ物ならば懐に入れてもいいということなのでしょうか。たとえそうだとしても、恵みは感謝こそすれ当然と言う姿勢はどうなのでしょうか。

また、神のために働く者が食べ物を受けるのが当然であるとするならば、それ以外の人は働いていないということなのでしょうか。そういうわけではないのです。皆、それぞれが主に召された異なる働きをしているからです。もちろん、この箇所はマタイの教会という制度を支えるための一つの根拠にはなったことだと思います。でも、その文脈で「相応しい人を調べなさい」と言われると、なんだか「しっかりと自分たちの働きを支えてくれる人を探す」という印象を受けてしまいます。また、働き人を支えないと、足の塵を払われてしまうというような恐れも感じます。

ここで問われている「相応しい人とはいったい誰のことなのでしょうか。」実は、この全体の文脈で考えると、それは「飼い主のいないイスラエルの家の失われた羊」に他なりません。それでは彼らは弟子たちをしっかり支える財力や経済的成功を収めていたのでしょうか。とてもそうとは思えません。だって彼らは社会から切り離されていたわけですから。そんな彼らが弟子たちをきちんと受け入れて食べ物を差し出す相応しい人であったわけではないのです。もちろん自分が頂いた恵みを神さまにお返しすることは大切なことです。でも、それは共に生きていくためのものであり、神への感謝であります。それは派遣された弟子たちが自らの懐に入れてはいけないものなのです。

それでは働く人が頂く食べ物とは何か。ヨハネ4:34の言葉を引用するならば「わたしの食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」ということなのです。

つまり、ここでいう弟子たちが頂く食べ物というのは、肉の糧ではなく霊の糧です。迷える羊が自らの心を神に捧げ、それを弟子たちが共に受けていくものであります。つまりこの食べ物とは神の御心を共に分かち合い、そのことを共になしていくということであるのです。そしてその心を動かすものは、神そのものであるのです。

荒れ野にマナを降らせ、5000人の給食を行った神は、すべてを自分たちでしなさいとは言われません。むしろその歩みの出会いの中で、必要なものをお与えになるのです。それを分かち合って生きる時に神が与えられるのが平和であります。平和とは結果のことではなく、過程・プロセスのことです。私たちが共に生きていくとき、神は平和を備えられます。それは平穏の中に限られたことではなく争いごとや不安がある中でも神が私たちの心を守られるのです。

しかし、その平和を望まない方は裁かれるということが書かれています。でも、神の目に相応しくない人というのはいません。イエス・キリストを信じる信じないは人の自由ですが、イエス・キリストはそのような人たちのところにこそ来られたのです。イエス・キリストは人を裁くために来られたのではありません。裁きを恐れる必要はありません。私たちはむしろ、弟子たちを派遣してまでしてもなお、わたしたちを愛し、私たちに福音を告げ知らせるイエス・キリストの眼差しにこそ感謝をし、心を留めていきたいと思います。

これからの時、私たちキリスト教会とは何かが問われていくことになると思います。これまでのような、いわゆるキリスト教会という存在から、本当にイエス・キリストが行おうとしていたことは何なのか。私たちが誰とどのように共に生きていくのか。どのように私たちは信仰者として仕えていくのか。

主の御心を共に祈り、御国が来ますことを求めて参りましょう。