〇聖書個所 ルカ1章26~31節、マタイ1章18~21節

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 

〇宣教「恐れるな。主が共におられるのだから。」

教会では先週からアドベントが始まりましたが、隣接している光の丘幼稚園もクリスマス礼拝に向けて降誕劇ページェントの練習が始まっています。私は先週水曜日、二回目のアドベント・チャペルで子どもたちにお話をさせて頂きました。ちょうど取り上げた箇所が今日の箇所と同じマリアへの受胎告知、そしてヨセフの葛藤の場面でした。幼稚園の子どもたちにはこの聖書個所の美しさや暖かさをお話ししましたが、実はそれだけでは終われない色々な感情がここには交錯しています。さらにギリシャ語で聖書を読んでみると、色々と趣が変わってきます。言い過ぎでなければこの内容は、幸せな結婚生活を夢見てその時を待っていたヨセフとマリアという若い婚約者たちをどん底に陥れるような出来事であり、救い主の誕生どころか当事者たちにとってはむしろ救いようのない、まさにOh My Godと言うか、まるで他の人の救いのために自分たちは犠牲にさせられてしまったかのような、ありがた迷惑な出来事であったと思います。でもそんな悩みや戸惑い、恐れの中にいた二人に響く「恐れるな」という声。ここに確かな救いがあるという出来事。それがクリスマス物語の最初の救いであったように思います。今日は特にマリアとヨセフの心に生じた葛藤に伴われる神の福音に焦点を当ててお話ししたいと思います。

クリスマス物語は、天使ガブリエルがマリアに語り掛ける場面から始まります。「おめでとう、恵まれた方!」と言われてマリアは喜んだでしょうか。皆さんなら今天使がパッと出てきてそう言ったらどう思うでしょうか。マリアは「戸惑い、この挨拶は何のことかと考え込んだ」と聖書には記されています。当然だと思いますし、そうとしか思えません。もちろん、神には何らかの計画があったのでしょう。でもその計画が人にはわからないから、私たちは戸惑うのです。どんなに良いお知らせだったとしても、寝耳に水の話には私たちは頭の理解も心の感情も追いつきません。そもそも天使がやってきたということが意味不明です。「なんで私に、そしてそれは何?」というような状況です。でもその天使はピンポイントでマリアのところに遣わされたようです。天使は彼女のところにやってきたとありますが、まさにそれは彼女の心の奥深くまで入り込むほどの戸惑いであったわけです。

実はこの戸惑うと言う言葉、ギリシャ語では、ディアタラッソーという言葉が使われています。実はタラッソーという言葉自体に既に「心を騒がせる」とか「恐れる」という意味があるのですが、その言葉の前にディアという前置詞がついています。ディアとはその存在を貫通するという意味の前置詞です。つまり、マリアは恐れるどころかその言葉に心が貫かれたように、えぐられたかのようにかき乱されたのです。しかも、彼女が考え込んだと言う言葉にも同じディアという前置詞がついています。しかもこの言葉には議論すると言うような意味合いもあります。つまり落ち着いて考え込むどころか、その言葉に心が貫かれ破かれる、言い換えれば「ああでもないこうでもない」と実際にじたばたするというような考え方を現わす言葉なのです。ですから、決してその言葉を穏やかに受け止めて、「わたしは主のはしためです。お言葉通りになりますように」と言えたわけではないのです。

でもそれは無理のないことです。何故ならば、彼女はおとめであったからです。この言葉はパルテノスという言葉で処女という意味もありますが、若い女性、少女という意味で考えたいと思います。このマリアは少女で大工であるヨセフと結婚をする前であったことも戸惑った一つの大きな理由でしょう。「あなたは神から恵みを頂いた。あなたは身ごもって男の子を産む。」赤ちゃんが生まれることは多くの場合、喜びの出来事であると思います。でもそれは子どもを迎え入れる準備が整ったところに与えられた場合に限ることであるのでしょう。心も状況も整っていない時に赤ちゃんが与えられるということは、本人にとっても、相手にとっても、また周りにとっても大きな衝撃になることがあります。

昨日、インターネットを見ていましたら、「若年出産」が年間1万人ほどいると言うニュースがありました。若年出産とは10代での出産ということです。理由はいろいろあるのだと思いますが、多くの場合は予期せぬ出産であるそうです。そんな中、誰にも相談できず苦しんだり、相手に逃げられたり、親に受け止めてもらえなかったり、周囲の目線が気になってしまうということが本人を苦しめるということがある。そして場合によっては仕事と育児の不安定さの中で貧困に陥ることや、中には自暴自棄になって虐待につながったりするケースもあると記されていました。現代社会でもそうですがイエスさまの当時はさらに厳しい視線が向けられたことでしょう。このニュースの出典は群馬県の地方紙でしたが、日本全国であることだと思います。そのニュースは最終的に県の窓口を紹介し「どんなことでも相談してきてほしい。」と言っているわけですが、自分がそんな状況になったときに、やはり一人で抱えようとせず周りに相談できる存在がいることが大切です。相談できる存在がいるだけで何かが変わるのです。あるいは声掛けしてくれる人がいれば何かが変わるのでしょう。ちなみに、マリアはすぐに親戚のエリザベトのところに出かけ行き相談しています。

一方その頃、いいなずけのヨセフもまた深い悩みの中にいました。彼はいつこの話を聞いたのかはわかりません。でも彼はマリアとは違い、このことを誰にも相談することができなかったようです。19-20節に「彼は正しい人であったので、マリアのことを表ざたにしようとせず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように彼は考えていた。」と書かれています。彼が考えていたというその言葉は、マリアの考え込んだという言葉とは違う言葉です。マリアはその言葉によって貫かれて考えるだけではなく行動にも表れてしまうほどのことだったと言いましたが、ヨセフの考え方は、熟考すること、思案することでした。つまり自分の頭の中でぐるぐると巡る考え方です。誰にも相談することができない時、私たちは自分の頭がパンクしそうになり、その結論は、自分の中での正しいという判断で決断が下されます。彼にとっては、マリアと縁を切るということ、内密に去らせることが正しいことだと思われました。

もちろんこれはユダヤ人の当時の慣習で言うと、結婚していないのに子どもが与えられるということは、不貞行為を働いたことであり、石打ちで殺されてしまうことでした。ですから、それからマリアを守りたいという正当な理由が一部にあったとは思います。しかしその一方でそんなマリアと共に歩むことを受け入れられない自分がいたこともわかります。彼女と一緒に後ろ指を指されるのは嫌だったわけです。だから、自分の身の潔白を証明するためには、正しくいるためには、そんなマリアと子どもを見放すことだと映ったのでしょう。しかしそれは自分自身を優先させることに他ならなかったのです。

自分だけで考える時、私たちはおよそ自分の目には正しく見えるけれど、しかし大きな過ちをしてしまうということがあります。そんな時に限って私たちは相談できる存在を持たないのです。しかし相談できる人を持てば、マリアのように、その状況を共に受け止めてくれる支えを得て、そのいのちは保たれる、すべての人の祝福となっていくのではないかと思います。相談できる相手を持ったマリアと相談する相手を得ることができなかったヨセフは対照的です。

しかしクリスマスの奇跡はそういう困難の中に、助けがないと思うような中に起きるのです。何故ならば、神がヨセフに天使を通して語り掛けたからです。「恐れるな。」恐れるなというのは、天使を恐れるということではないと思います。そうではなくて、その状況を恐れるなということでしょう。もちろんそう言われたって恐れるのが人間です。恐れないことは無理です。どうしていいかわからないから恐れるのです。また恐れるから自分を守りたいのです。でも、神はそんな自分に対して「恐れるな。」と語り、「私はあなたと共にいる」と言うのです。これはつまり神がヨセフの相談相手になったということです。「誰にも話せないし、理解されない」と思っていたヨセフ、精神的にも環境的にも孤独になっていたヨセフをその囚われから解放する言葉であり関わりであったと思います。それは私があなたと共にいるのだから、あなたは考え込みすぎる必要はない。恐れる必要はないということなのです。いや、言い換えれば恐れてもいい。でも私が共にいるのだ。ということなのかもしれません。

実は私は、今回改めて聖書を読み返してみて、これこそマリアとヨセフのただ中に起きたクリスマスにおける最初の救いの出来事なのではないかと思ったのです。私はこれまでクリスマスが「すべての人のための救い主誕生」と言われているにも関わらず、マリアとヨセフには本当に救いだったのか、彼らにとってはありがた迷惑な話であって、救いではなかったのではないかと考えてきました。でも、神はそんなどん底にいるような二人に対してそれぞれに「恐れるな。」「一人で考えこむな。私が共にいるのだから。」と言ってくださっています。思い悩みという深い孤独の中にいる自分に対して、そう言ってくださる方がいるということにわたしは「救い」を感じています。

二人に与えられたいのちはイエス(主は救い)と名付けられ、インマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれました。そのイエス・キリストは聖書の中で弱き者、孤独な者、罪びと、無価値と思われているような者たちに出会って行かれ、その方々に寄り添い、生きていかれました。その歩みは十字架で殺されることを惜しまないほどに私たちに対して向けられています。そしてその神の愛は、マリアとヨセフにも同じように注がれているのです。「恐れるな。」という声。これがやはりクリスマスの最初の救いの出来事なのだと思うのです。

私たちは「神の恵み」というものは、私たちの都合が良いときに自分が欲しいものが与えられると考えてしまいがちです。或いは思っても見ない時に与えられる自分にとって都合の良いものであると思います。そういう意味では、ヨセフとマリアに与えられたいのちは早すぎる恵みであり、受け入れられない恵みであったと思います。

でも、本来の「神の恵み」というものはそういうものではないのでしょう。むしろ戸惑い、恐れ、不安の中にいる私たちに対して、神の存在が伴ってくれること、あるいは神の言葉が届けられること。それによって私たちの心と歩みといのちが守られることが「神の恵み」、或いは「神の恵みになって行く出来事」なのではないかと思うのです。

私たちが今日この宣教を通して確認したことは、神は突如としてやってきた困難の中に、孤独でいたとしても、決して孤立しているのではなく、神は私たちに語り掛けてくださっているということです。そして、この関係性に私たちもまた結ばれているということです。それがクリスマスを通して今私たちに示されている救いの出来事であります。私たちにもそれぞれの困難があります。孤独を感じることもあるでしょう。しかし神は私たちと共におられ、「恐れるな」と言ってくださるのです。クリスマス「主我らと共におられる」。今この時に私たちの心にキリストの誕生をお祝いしてまいりましょう。

今日わたしたちは主の晩餐式を守ります。主の晩餐式はキリストの裂かれた体と流された血が、私たちが共に生きていくためのものだったということを受け止め、私たちも互いに分かち合いながら生きていくことを象徴する儀式です。イエス・キリストの思いを改めて思い起こしつつ、受け取って参りましょう。