〇聖書個所 ヨハネ1章1~5、9、14節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
〇宣教「言は肉となって私たちの間に宿られた」
私たちはこれまでイエス・キリストの到来を待ち望むアドベントを過ごして参りました。そしてこの間、私たちはイエス・キリストの誕生の記念の出来事であるクリスマスがそれぞれ自分自身の出来事になるように祈って参りました。先週のクリスマス礼拝では、博士たちの物語を通して、イエス・キリストの誕生が異邦人の救いのためでもあったということ、それはそれぞれ違いを持つ私たち一人一人のためにお生まれになったということだということを確認しました。そして私たちは、神によって私たちのその違いが肯定されているということ、そしてその違いを持った者同士が共に歩んでいく時に、救い主にまみえることができる希望がしめされていること、私たちはそのしるしに向かって進んでいくことが大切なのではないかとお話しさせていただきました。おとといのクリスマスイブ礼拝では、これまでのクリスマス物語のまとめとなるようなお話をさせて頂きました。しかし、これでクリスマスは終わってしまったわけではありません。むしろイエスさまのいのちが生まれていったように、私たちの中でこれから始まっていく福音の告げ知らせということとして受け止めて生きたいと思います。
今日は、ヨハネによる福音書からクリスマスの出来事を共に受け取っていきたいと思います。ヨハネによる福音書はマタイ福音書やルカ福音書とは異なる独特の語り口でこのクリスマスの出来事を語っています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1:1)という言葉で始まるヨハネ福音書は、その神の言が肉体をとって現れたのがイエス・キリストであったと告げています。キリスト教ではこれを「受肉」と表現し、神が人となることを意味しています。これまで神は預言者たちを通して言葉を告げておられましたが、ここでまず神が方針転換をしていることに注目したいと思うのです。なぜ神は、「受肉」という方法をとって人々に語ることにしたのでしょうか。今日はそのことをお話ししたいと思います。ですが、これからお話しすることは、いま私が聖書を読んで感じていることですが、キリスト教的に正しいことかどうかはわかりません。個人的なモノローグとして聞いていただければと思います。私は聖書における受肉には三つの意味があると思っています。一つは神が人になることで始まった「受肉」。二つ目はイエス・キリストが公生涯を始める時に受けたバプテスマが受肉ではないかということ。三つめは私たちもまた互いに神の言葉を受肉して生きていくように招かれているということです。
まず一つ目の神が受肉という形をとって人々に語ろうとした理由、それは恐らく、預言者たちを通しての言葉では、なかなかその真意が伝わらなかったからではないかと思います。でもそれは預言者たちが悪いわけではありません。預言者たちは自ら神の言葉が語られたことに恐れ慄きつつ、時には反発しそうになる自らの思いと神の思いを摺り寄せながら、神の言葉を民衆に告げる働きをしていました。それはまさに預言者たちが神の言葉を自らの体に受肉するということでもありました。しかし人々はその言葉にはなかなか耳を貸さなかったのです。預言者たちは、特に人々に神に立ち返る様に語り掛けたエレミヤなどは、自ら軛を負いながら涙と共に人々に伴っていました。
しかしながら人々は神の言葉よりも、自分の耳に心地よい言葉だけを受け入れて歩んで行ったのです。そこに滅びが生じるのです。ここに人の罪深さ、愚かさがあることを感じます。滅びとは自分の都合の悪いことに耳を塞ぐことから始まっていくことなのでしょう。聖書を記した人々は、その滅びは神の裁きであったと書いていますが、それは神の裁きによるものではなく、単なる人の罪によるものです。神のせいにしてはいけません。それでは、その神はその時何をしていたのでしょうか。
私は、神はそのような時にも人に希望を与え、伴っておられたのではないかと思っています。何故ならば、確かに神は人々に預言者を通して罪から離れて立ち返れと語りますが、ことそこに至ってしまった時、「それ見たことか」と非情な言葉を伝えるのではなく、徹底して「希望」を人々に語っているからです。神は、そのように私たちに言葉を届け、自分の立ち位置を明らかにされているのです。
ですから神はここで、人を間違った道から救い、立ち返らせるためにはどうしたらよいか。それは、神御自身が直接人と共に生きる「受肉」だと思い至ったのではないかと思うのです。それは言葉だけではなく存在を通して、触れ合いながら共に悩み苦しみを担い合い共に生きていくためであったのす。そのために御子イエス・キリストをこの世にお送りくださったのです。これは神の悔い改めであり方向転換です。イエス・キリストがこの世に誕生した理由、それは神の人々への愛によるものです。何故ならばそれは、神ご自身が一人一人個性的に創造されて尊く良しとされた命が、暗闇に陥らないように守り、或いは暗闇に落ち込んでしまっている人々に寄り添い、この世の闇を明らかにしようとするためであったからです。そのためにイエス・キリストは人としてこの世に生まれたのです。
しかしながら、神が人に寄り添うためにイエス・キリストを与えられたクリスマス物語。これは喜びだけではなく読めば読むほどやるせなく、切ないお話しだと思います。それはこの闇がどれだけ深いかという話のようにも感じられます。しかし言い換えれば人の痛み苦しみをご自分のこととして受け止める為であったとも考えられます。何故ならばイエスさまは、ともすればマリアとヨセフに喜ばれないいのちであったかもしれません。また宿に泊まれず家畜小屋で生まれる赤ちゃんって何なのでしょう。もっとも貧しい羊飼いがお祝いしに来たって誰が嬉しいものでしょうか。赤ちゃんに会えるくらいに彼らが清潔だったとはあまり考えられません。また博士たちはその命に出会えて嬉しかったかもしれませんが、マリアとヨセフからしてみれば「誰この人たち。突然なにしに来たの」って感じです。しかも、イエスさまがお生まれになったがためにヘロデ王が激怒して地域の子どもたちを虐殺するってどういうことでしょうか。
イエス・キリストは、こんな重すぎる背景を抱えた命でした。まさにこの世の闇のど真ん中に生まれてきたと言っても良いかもしれません。「あんたが生まれてきたから、住んでいた土地に残ることができなかった。家族から追い出された。あんたが生まれてきたから自分の子どもが殺された。あんたなんて生まれてこなかったほうが良かったのに。」そんな風に思われてもおかしくなかったいのちであったです。
言ってみれば、イエスさまはそんな自分の運命を呪うような出自であったともいえます。しかし、そうだからこそ彼は同じような苦しみや悲しみを抱えている人の救い主になることができるのだと思います。暗闇のようなところで生まれたからこそ、多くの人の苦しみを理解する人になったのではないかと思うのです。しかしイエスさまが多くの人と違っていた一つのことがあります。それはイエスさまが、自分の命は神が願って与えられたいのちであったという土台に立っていたということです。
イエスさまはそのような苦しい生まれではあったとしても、そのいのち自体は変わらずに神に愛された命であることを受け止めていたのです。こうも言えます。イエスさまのいのち自体と、イエスさまの生まれた環境とは全くの別問題であったということです。私たちは自分の命の価値は他の人にどれだけ愛されるか、どれだけ受け入れられるかにあると思ってしまいがちです。親に愛されてないから価値がないと思ってしまいがちです。しかしイエス・キリストは複雑な成育歴を経ながらもご自分のいのちは、神による尊い命であることをしっかりと受け止めていたのではないかと思います。
イエスさまが公生涯(救い主としての歩み)を始められる時、バプテスマを受けられました。それは彼自身が神に属するものとして生きる、他のものに支配されるのではない、もはや私はぶれないという決断であったのかもしれません。私はこれがイエス・キリストが救い主としての公生涯を始める出来事、つまり神の言葉に従って生きるという二つ目の受肉の出来事だったのではないかと思います。
そしてイエス・キリストは神の愛がすべての命を照らしていることを世に示すために、肉体を持った存在として人々に伴い、喜び悲しみを共に分かち合い、歩んで行きました。それはまさに神が私たちのただ中に来てくださったことでありました。そこで何が起きていったのかということについては、聖書の様々な箇所がそれを伝えようとしております。また新しい年にそのイエスさまの出来事を共に読んでまいりたいと思います。そういう意味で「神の言が受肉すること」はイエス・キリストにおいて起きた特別な出来事だとも言えます。
三つ目の受肉のことです。今、私はイエスさまの受肉は特別な出来事だと言いました。しかし一方でわたしたちもまた「言葉の受肉」を感じる瞬間があるのではないでしょうか。それは、共に集まることは出来なくても、他者が自分のために祈ってくれているという繋がりや、直接かけてくれる声、その思いや言葉が実際に私たち自身の心に届くとき、自分の心にその人の言葉があるいは思いが「受肉」したかのように感じる時のことであります。
それは、わたしは2年前から思うように出会うことができなくなって感じたことです。短い時間の出会いの中でも、お互いの会話の中でかけられた言葉が心の中で蘇ってくることがあります。これまでは意識しなくても会えばお話しすることが当たり前でしたが、それができなくなった時だからこそ、例えば皆さんを覚えてお祈りする時に、皆さまからいただいた言葉を思い起こすのです。
その時、皆さんの言葉がわたしの中で生きているということ。皆さんの言葉によって私は生かされているということを私は感じるのです。人は独りでは生きることができないとはよく言われることですが、確かに一人で生きているものではないと感じます。しかしそれはたとえ環境的や物理的には一人であったとしても、孤独ではないということです。私たちははっきりと人間の交わりの中に結ばれているのです。そしてその言葉が自分の心に入ってくるときに、私たちの心は反応し、喜びや安らぎを得るのです。
もちろん言葉は、人を傷つけることもあります。混乱させられることもあります。そんな言葉による痛みを経験したことがある方もおられることでしょう。でも一方で、言葉が癒したり支えたり包んでくれたりすることをも私たちは知っているのです。私たちにとって言葉とは非常に重要なものです。しかしイエス・キリストは私たちに愛し合うように言葉で招いています。もちろん愛し合うということ自体が非常に難しいことです。言葉にならないことでもあります。でも、わたしは相手のために祈ることからすべてのことが始まっていくのではないかと思います。愛すること。それは言葉と、その言葉が発せられるその人の思いが相手へと向かうことから始まるからです。これは神が方向転換したように、一つの立ち返り、悔い改めから始まるということでもあると思います。でも、その地点に立った時、私たちはまさに神の言葉に生かされるのではないかと思うのです。
それは、逆に考えると、イエス・キリストが公生涯を始められる目的であったことであり、神の言葉が受肉する元々の目的に沿うことであるからです。神の言葉は、天使が告げたように、小さな命の誕生の中で既に始まっている出来事であるのです。
イエス・キリストが受肉された理由、神の愛が私たちに向けられているということは、私たちがその言葉に生かされていく時にこそ、世に明らかにされるものであります。神はわたしが世の光であると言いながら、わたしたちに「地の塩・世の光になりなさい」と招きます。そして使徒パウロを通して「光の子として歩みなさい。」と言われるのです。
今日は2021年最後の礼拝です。私たちには今年一年色々なことがありました。出会いがあり、別れがありました。孤独な時も豊かな交わりの時もありました。しかしそれらは全て神の交わりの内に繋がっていることを感じる出来事でもありました。
来年一年、またどのような年になるのか、私たちにはわかりません。しかし、神が私たちと共におられる。そのために神が御子イエス・キリストを私たちに与えられたのだ。そしてそれは私たちがたがいに愛し合って生きるようになるためであるということを心に留めながら、新年を迎えて参りましょう。
主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われます。主に感謝して共に祈りましょう。