〇聖書個所 マタイ2章1~3、9~11節

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

〇宣教「異・邦・人の救い主」

今日はイエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマス礼拝ですので、改めて皆さまとこのようにご挨拶をしたいと思います。みなさん、クリスマスおめでとうございます。でも、時々考えます。どうして私たちはクリスマスを共にお祝いするのでしょうか。どうして「おめでとう」なのでしょうか。それはこの日に誕生を記念されているイエス・キリストが私たちの救い主として生まれたからです。

天使は告げます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」私は先週の礼拝で、この言葉こそ決定的に大切な福音宣教の言葉だとお話ししました。その理由は、この言葉がどこの馬の骨とも知れない、この世の中で最も小さく弱く、人の数にも数えられていなかった羊飼いに神が告げられた言葉であったからです。これが救いでなくて何でありましょうか。これは神の目が吹けば飛ぶような私個人に及んでいる、神は私を忘れたわけではなかった、そして神は私に寄り添うためにイエス・キリストを与えられたという証拠に他ならなかったわけです。ですから羊飼いたちはその言葉に突き動かされるように、イエスさまの誕生を探し求めに行ったのです。私たちは先週の礼拝で改めてこのことを受け止めました。そしてそのように考えれば、私たちは今この羊飼いたちと同じようにイエスさまの誕生を自分の救い主誕生の出来事として喜ぶためにこの場に集っているのです。

クリスマス物語の中には、イエスさまの誕生をお祝いしに来たのは、羊飼いだけではなく、東の国から博士たちがやってきたというストーリーがあります。実は、博士たちがイエスさまのところにやってきたのは、生まれた当日ではなかったようです。博士は言います。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」これから生まれる、ではなく既にお生まれになった方を拝みに来たということです。でも、もしかしてイエスさまが生まれた時からその星の光を見続けて、長い時間をかけて旅をしてきたのかもしれません。そして彼らがイエスさまに出会ったのは、10節によると「家」でした。馬小屋の飼い葉おけの中ではなかったのです。実はクリスマス物語にはこういうタイムラグが存在します。そのため、実はキリスト教暦では、博士たちがイエスさまに出会った日は、クリスマスから2週間後の1/6にエピファニー(顕現日)として記念されています。これはイエスさまの誕生が世に公に示された日という意味です。そういう意味で今日の箇所は、クリスマス当日ではなくそのエピファニーの時に読まれることが多いわけです。でも、今日敢えてこの箇所をクリスマスに取り上げようと思ったのは、やはりイエス・キリストの誕生というものが、世界中のすべての者の救いとなるためであったということを確認したいと思ったからです。

どうしてこの博士たちの登場が、全世界の救いに繋がるのでしょうか。その理由の一つには彼らが東の国からやってきた者たち、つまりユダヤ人ではない異邦世界から来た者と言われるからです。でも実はそれも正確な情報ではありません。彼らが何者であったのかということは、東の国の占星術の博士であったということしかわかっていないからです。この東の国というのがどこであったのかということも不明です。分かるのは彼らが「ユダヤ人の王の誕生」をお祝いしにきたということだけです。

でも、果たして本当にわざわざユダヤ人の王のお祝いにやってくる異邦人なんているのでしょうか。というのは当時、ユダヤと言えばローマ帝国に占領されていた辺境の弱小国でありました。仮にローマ帝国という大国の王の誕生であるならばお祝いに行くメリットは考えられます。でもユダヤという既に征服されてしまっている民族の王の誕生をお祝いしに行くメリットなんて考えられません。献げられる宝物もまた無意味です。でも、もし彼らがユダヤ人であれば話は別です。自分の民族の王であれば、それはたとえ小さな国であったとしても喜びの出来事になります。ですからもしかして、彼らはユダヤとは違う国で生まれた「離散のユダヤ人(ディアスポラ)」であったのかもしれません。

実はこの理解は、マタイ福音書という文脈を考えても理に適っています。というのは、マタイ福音書は旧約聖書からの続きの入り口として、ユダヤ人へのメッセージ性を強く持っているからです。歴史的に住む場所はばらばらとされたユダヤ人だ。でも、そんなわたしたちの王が誕生されたのだ。だから私たちも共に喜ぼう、というような狙いがあったのだろうとも思われますし、その方がストンと落ちるわけです。

でもそういうことを知りながらも、私はやはりこの博士たちは異邦人であったと受け止めたいと思いますし、これは「世界の救い主誕生の知らせ」だと信じたいと思うのです。何故ならば、もしこれがやはりユダヤ人の救い主誕生の物語であるとしたら、お話はそこで終わってしまうからです。それはあくまでユダヤ人の出来事であり、出来上がった枠組み、関係性の中の出来事で留まってしまい、異邦人は蚊帳の外となってしまいます。でも聖書は救い主誕生の物語をそのようなものとして語ろうとしていないと思うのです。聖書が語ろうとしていることは、ユダヤ人の救いの物語ではなく、世界の全ての人々の救いの物語、時代も超えた私たちに語り掛ける神の言葉であるからです。

私は実はこのクリスマスの出来事の中で大切なことは、誰にそれが示されたか、つまり博士や羊飼いという存在に示されたということよりも、その救い主誕生を自分の出来事にしていくことであると考えています。それはイエスさま誕生の知らせを知った博士と羊飼いがそれぞれ出かけていって出会っていったことに象徴されています。お生まれになった救い主に私たち自身が出会いに行くことが大切なのです。実は羊飼いの話と博士の話に共通していることは出会いに行くことなのです。羊飼いは数に数えられていないユダヤ人だったと思いますが、もしかしてユダヤ人でもない人々だったのかもしれません。また博士たちもその身分ははっきりしません。しかし彼らは救い主を探し求め、そしてついに出会いました。そこで彼らは救いを得て、恵みを得たのです。つまり、クリスマスは自分の事柄として考えて、探し求めて出会っていく時に自分の出来事になるということです。ですからそこにはユダヤ人であるとか誰であるとかそういう条件は入らないのです。

これについてはヘロデ王やエルサレムの人々の姿が象徴的です。ユダヤ人に向けられた救いなのだとしたら、何故彼らの元に天使は来なかったのでしょうか。預言は知っていたはずなのに、なぜ彼らはそれを知らなかったのでしょうか。

つまりそういうことなのです。イエス・キリストは生まれた。しかし「会いに行こうとしない」とか、「出会ったら知らせてくれ」という姿勢では出会えないということなのです。自分で探し求めにいくプロセスこそが大切だということなのです。もちろん、探し求めることは大変なことです。でも私たちが尋ね求めた先に、必ず出会うことができるのがイエス・キリストという救い主なのであるということを、このクリスマス物語は今も私たちに教えようとしています。このように考えると、救いとは向こうからやってくるのではなく、救いは示されるものであり、そして探し求めていく私たちのただ中で生まれるものであるということがわかります。そして、それは私たちがその言葉を信じて歩みだすことから始まっていくのです。そしてそれに民族や出自は関係ないのです。

先ほど私は、この博士の物語は、「異邦人の救いの出来事」として受け止めたいと言いました。でもそれは今申し上げたように、「異邦人」、つまり「ユダヤ人ではない」という一つの「性質」を言おうとしているのではありません。単語としては「異邦人」なのですが、そもそも異邦人とは、「自分とは異なる国の人」のことだと思います。でもそれは「民族や国籍が違う」ということだけではありません。「異なる国の人」つまり「異なる文化で育ち、異なる宗教を信じ、異なる言語を話し、生活習慣も大切にしている慣習も異なる人々」一人一人の救いの出来事として考えるということです。それを強調するために今日は「異邦人」という言葉の間に「・」を入れています。つまり異邦人とは誰か。それは私であり私たちであるのです。そして、この福音は誰にでもどんな人にでも開かれているものなのだという意味で考えたいと思うのです。

キリスト教の芸術の世界では、よくこの博士たちは三人であり、それぞれ白人、黒人、黄色という異なる肌の色や人種の人々であったり、あるいは若者、壮年、老人という異なる年齢の人々であったりするように描かれることがあります。これはそれぞれ違いのある人々の救い主だと言う意味なのだと思いますが、すべて男性として描かれています。今の社会で描くのであれば、男性、女性、性的マイノリティーの方とかそういう違いを持った存在として考えられても良いのではないかと思います。もちろん三人であったということも宝の数が三つであったことに由来する伝承です。でも、言いたいことはそれぞれ違いを持っている人々が、希望を信じて、共に旅をしてきたときに、共に救い主の誕生に出会い、共に喜んだということなのです。

その旅はどんな旅だったでしょうか。これは私の想像にすぎませんが、もちろん違いによって助け合って苦難を乗り越えてきた旅であったと考えることもできます。でも全く違うことを大切にする人々の旅であったことを考えると、一筋縄ではいかないように思います。恐らくはたびたびケンカもしたことでしょう。速くいきたいタイプとのんびり行きたいタイプ、一緒に旅をするだけで互いにイライラしそうです。食事もパッと済ませて早く目的地に行きたいタイプと食後のお茶を楽しむなど、旅のプロセスを楽しむ人もいたと思います。私なんてせっかちですから一人だけで先に行きたいと思います。

「待って」と言われても「ごめん、先に行きたいから一人で行くわ。でも、あなたのことは否定しないから、自由にしていいけど、できるだけ早く来て!」と言ってしまう自己中心的な者です。でも、多分自分だけでは救い主に出会うことはできないのです。自分の大切にしていることを大切にするのではなく、むしろ違うことを大切にする人と共に歩むプロセスの中に救い主が生まれるのだと思うからです。

また、一人一人が違っているのだとすれば、それぞれの状況、固有の課題、困難、誰にも話せない苦しみというものもあったのだと思います。私たちは一言で「救い」とは言いますが、恐らく私たちが求めている「救いの内容」も一人一人異なるものだと思います。孤独からの救い、絶望からの救い、困窮からの救い、試練からの救い、一人一人求める者が異なります。彼らが持っていた救い主への待望というものまた一人一人異なっていたことでしょう。

しかし、神はイエス・キリストを「インマヌエル」として送ってくださいました。インマヌエルとは、「神、われらと共におられる」という意味です。神が私たちと共におられる、神が私たちに伴ってくださるとき、私たちは恐らくすべての困難がすぐに消えたりはしませんが、それを乗り越えていく力が与えられたり、不安な心には一人ではない平安や勇気が与えられたり、苦しみは慰められたりするのではないかと思うのです。神が私たちに寄り添ってくださるということは、私たちは独りではないということ、私たち一人一人の心の痛みを知ってくださるということに他なりません。ここに私たちは根本的な救いを得るのです。そしてそこから始まっていくということであるのです。

博士たちが出会ったのは、新しい命でした。恐らくイエスさまが生まれた時からユダヤ人の王らしい気品をまとっていたということではないと思います。生まれたての何の「肩書」もないいのちです。残念ながら博士たちは彼らが思い描いていたような救いを得ることはできなかったのではないかと思います。しかし、彼らは共にそれを喜んだのです。彼らはそのいのちにひれ伏し、そして宝物を捧げました。言い換えれば、彼らはそこでイエスさまを自分の救い主にしたわけです。彼らの旅の最後に命の誕生が起こる。そして実にここから神の物語は始まっていくのです。

私たちのクリスマスは救い主が生まれて終わりではありません。その救い主が今生まれた意味を私たちの事柄にしていくことが大切です。神はそのために私たちに救い主をお与えになったということに、心を留めていきたいと思います。神はイエス・キリストを私たちに示されました。私たちはその救い主にまみえる旅をいま続けています。その旅は多くの違いを持った方と共に歩む旅であります。困難もたくさんあるでしょう。しかし、神はその旅路に歩む私たちを喜んでくださるのです。何故ならば、神が世界の全てを神の御心のままにお造りになられ、互いに愛し合って歩むように招いているからです。

「神は、その独り子を賜ったほどに世を愛された。」とあるのは神が世を愛されている証拠です。そして神は「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいるのである。」と言われます。

主の名によって来られる方に栄光が世々限りなくありますように。 共に祈りましょう。