〇聖書個所 マタイによる福音書 18章15~22節

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

 

〇宣教「その人間関係を解いてはならない。イエスが共におられるから。」

今日は、イエス・キリストの到来を改めて思い起こす待降節の礼拝であると共に、日本バプテスト連盟では「世界祈祷週間」として覚えられている礼拝でもあります。私たちは今この世界で様々な紛争や対立が起こっていることを知っています。今まさにその渦中にある国もありますし、その痛みから癒しと回復の時を迎えている国もあります。私たち神戸教会の加盟するバプテスト連盟は、その世界の中に4組6名の働き人を送り出し、それぞれの地域で暮らす人々に仕えています。その働き人の紹介は、礼拝堂入り口の掲示板に張り出されていますので、どうぞご覧いただき、覚えてお祈りいただきたいと思います。またその働きを支えている世界祈祷献金にもどうぞご協力ください。

先週土曜日、その働き人の一人である佐々木和之さんの報告会がオンラインで行われました。佐々木さんはアフリカのルワンダという国で和解と平和のために働いておられます。ルワンダは1994年に起きたルワンダ紛争で、多数派の民族が少数派の民族を大量虐殺(ジェノサイド)をしたことで知られています。実はルワンダ人の8割がクリスチャンでした。残念ながらそのキリスト教信仰は民族間の差別や軋轢を克服することはできませんでした。しかしそのような中で、まさに草の根の働きから虐殺加害者と虐殺被害者の和解の出来事が起きてきています。佐々木さんはその活動の支援と、平和を志す学生のために指導しています。その活動報告については、ウブムエという報告書が会堂後ろの机にありますので、どうぞご覧いただきたいと思います。

実はその佐々木和之さんが先週の報告会で読まれた聖書個所が今日の箇所でした。紛争というと私たちとは関係がない遠い国の出来事のように思われますが、その根本的な構造はいわゆる人間関係の衝突や対立です。それは二つ以上の立場にいる者たちが求める利益が両立しないという状態ですが、そう考えれば私たちの交わりの中にもたびたび起きていることなのではないかと思います。そして私たちは時に対立関係というもの自体が悪いことのように感じ、ない方が望ましいことのように考えてしまいがちです。でも佐々木さんはその対立構造自体は悪いのではないと言います。

何故ならば対立はお互いが大切にしているものが異なるから起きるものでありますが、それは発展的にお互いにとって良い状態で乗り越えていくことができるからです。しかし問題は、その対立によって対話ができない状態になり、力による解決をしようとしてしまうことです。鍵はこの対話にあると言えるでしょう。

今日の聖書箇所はその人間関係の中で起きるトラブルの解決方法、対話について教えています。皆さんは今日の箇所をよくご存じだと思いますが、これまでどう読んでこられたでしょうか。「兄弟が自分に罪を犯したらどうするか」これは私たちの身近な話題です。永遠のテーマと言っても良いかもしれません。人間関係は喜びにもなりますが悩みの種にもなることもあります。教会の中でさえたびたび人間関係のトラブルが起こることがあります。特にバプテスト教会は信徒による教会ですから、基本的には密な人間関係、信頼関係が土台になっています。だからこそ良い関係の時は良いけれど、トラブルが起きると後々まで響くということがあります。これは恐らくすべての方が経験したことのあることではないでしょうか。神を信じる者同士です。また自分自身神の救いによらなければやっていくことができない罪びとである者です。にもかかわらず、同じような立場である相手との関係の中でトラブルが起こり相手を排除したり、心傷つき疲れ果てて教会を去っていったりするということが起こるのです。そんな煩わしい関係から抜けて神様だけを求めたいということがあります。私も心情的には大変よくわかります。しかし、人間関係に踏み入らなければ本当の恵みにはあずかることができません。これは葛藤を含むことです。しかしそういう時、イエス・キリストが今日の箇所で言おうとしていることが響いてきます。

今日の箇所を読むと、イエスさまは兄弟が自分に対して罪を犯したらまず二人だけのところで忠告しなさいと言っています。つまりそれは、その問題から逃げてはいけないということです。そしてその問題をそのまま放置していてもいけないということです。むしろ向かい合いなさいと言っています。イエスさまはなかなかに厳しいことを言われます。私なんて逃げ出したくなりますし、そんな人には近寄らないようにしようと思います。でもやはりそれでは問題の解決には繋がらないのでしょう。ですからイエスさまはその二人が向かい合う中でそれが解決しないのであれば他に二人または三人で話しなさいと言います。でもこれは、二人か三人で相手に自分の言い分を伝えるのではなく、客観的に起きている問題を確認しなさいということです。一人だけの言い分を聞いていてはいけないということです。私たちは自分の意見を正しいとしまうし、相手を間違っていると思いますが、そうではない。しっかりその客観的な事実を確認することが大切だと言うのです。でももしそれでもだめなら教会の事柄としなさい。教会として関わっても無理であれば、その人を異邦人か徴税人のように扱いなさいと言うのです。

実は権威的な教会にとっては、今日の聖書箇所はそのような問題を起こす人に対しては、教会は破門しても良いのだというような根拠を与えるような聖書個所として捉えています。「繋ぐことと解くことは教会の権威だ」と言うのです。しかし果たしてイエス・キリストは本当にそんなことを望んでいるのでしょうか。私はそうではないと思います。「異邦人や徴税人と同様に見なしなさい。」の意味を考えたいと思います。イエスさまは異邦人や徴税人にどのように接していたでしょうか。マタイ福音書にはマタイ15章にカナンの女との出会い、マタイ9章に徴税人マタイとの出会いが記されています。

カナンの女との出会いの中では、イエスさまは「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、一見冷たく厳しいことを言っていますが、最終的にイエスさまはこの女性の信仰を立派だと評価し、彼女の願いをかなえています。これはこの異邦人の女性との出会いによって、むしろイエスさまの態度が変えられていく顛末となっています。徴税人マタイの場面では、ファリサイ派の人々が「何故あなたたちの先生は徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか」と言っているのを聞いて、「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのだ」と言い、彼らを肯定したうえで、かつ徴税人を排除しようとした人々に厳しく対応する姿を示しています。つまり異邦人も徴税人も切り捨ててよい存在であるのではありません。言いたいことは兄弟(同胞)とは扱うなということです。それはどういうことでしょうか。恐らくそれは、同じ文化の中で育った者たちとして考えるな。むしろその相手が大切にしている自分と違う部分にしっかりと心を留めたうえで、交わっていきなさいということであるのです。もし仮にイエスさまが異邦人や徴税人のように見なしなさいと言ったのが、彼らを切り捨てるということであれば、イエスさまのこれまでの関わりとはまるで違うことになってしまいます。しかし、そうではないのです。

イエスさまが言おうとしていることは、相手の悔い改めを求めることや相手を変えようとするのではなく。むしろ自分自身が変わっていくことが大切だということなのではないでしょうか。でももちろん、それをもって相手の言い分をまるのまま受け止めるということではありません。それは私たちが頭では理解できても心が許さないことでしょう。しかしこう考えたらどうでしょうか。聖書個所には「自分の兄弟が私に罪を犯したら」と書いてあります。実は私はこれまでこの部分を「兄弟が自分に対して悪を行うこと」として考えてきました。悪とは悪意であり故意であり、攻撃であります。これは認めてよいことではありません。しかし、罪というのは、「ハマルティア」。つまり、的外れなことです。誰にとって的外れか、それは第一義的には神に対してですが、ここでは私にとって的外れだと思うことなのだと思うのです。しかしそれは相手にとって大切なことであるかもしれないのです。言い換えれば、この両者の対立というのは、相手には相手なりに大切にしたいことがある。それはもちろん私が自分の立場から見た時に、明らかにおかしい。間違っているとしか感じられないことかもしれません。でも相手はそれを大切にしているのです。だからそれが対立の原因になるのです。その場合、相手を変えていくことは困難です。相手を変えようとすればするほどその態度は硬直化するのです。

だからイエスさまはここで、その兄弟を異邦人か徴税人のように見なしなさい。つまり兄弟とは同胞、自分と同じような文化で育ち、自分と同じものを大切にする人のことですが、そうは考えないようにしなさいと言っているのです。つまり、自分とは違う文化で育ち、自分とは違うことを大切にする人として受け入れなさいということです。しかし、ここから始まっていくのがあるのです。

私は大学生時代にカウンセリングの勉強をしましたが、その時に大切なことを教わりました。それは「過去と他人は変えられない。変えられるのはこれからの自分だけである」ということです。過去というのは、今日の文脈で言えば起こってしまった対立であり問題そのものです。それは変えることができません。そして相手を変えることもできません。やり込めて悔い改めを促したところでそれは本当の解決につながるとは思えません。

それでは私たちにできることとは何でしょうか。それは自分が変わることです。それは相手の存在をそのまま受け入れるということです。かつ向かい合っていくということです。対立が深まっていくのは歩み寄りをしない時です。しかし自分が相手を理解しようとしはじめたときに、相手にも何かが変わっていくのだと思うのです。ですから自分の見方がまず変えられていくことを喜ぶことが大切だと思うのです。

イエス・キリストは「二人または三人が私の名によって集まる場所に私もいるのである」と言われました。この二人または三人というのを、私はこれまで自分と意見の違う人は蚊帳の外に置いておいて、自分と心を通わせ合うことのできる二~三人で自分と意見の違う者のために祈ることだと考えていました。しかしそうではないのでしょう。むしろ、その二~三人とは、対立関係のただ中にある人々です。それぞれに違いを持ち、並び立つことができない困難な関係の間柄の中にイエスさまがいてくださるということであるからです。

もちろん私たちは現実的には難しい時があります。使徒言行録を見れば共に宣教旅行をしたパウロとバルナバだって二回目の宣教旅行の前には意見対立し、それぞれ別の道に進んでいきました。これはある意味で言えば弟子たちであったとしても和解が成っていない現実があることの証拠であります。彼らは一緒に歩むことはできなくなりました。でも、同じ主の道をそれぞれ別の道で進んでいったのです。相手を憎さのあまり邪魔してやろうとは思いませんでした。先週の子どもメッセージの箇所で、パウロが自分の行こうと思っていた道が塞がれ、マケドニア地方に旅立っていったとお話ししましたが、新しい道に導かれたのは、もしかしてやりたいと思っていたその働きはバルナバたちに委ねたということであったのかもしれないと思うのです。私たちはいずれにせよ、自分が考えていることが最も正しいのではない、神の御手に委ねていく時が必要なのだと思います。

しかし、私はここに希望を感じます。何故ならば、和解の主であるイエス・キリストが私たちと共にいてくれるからです。イエス・キリストはこの出会いの中で私たちに働いて下さり、共に新たな関係に預かるように招いてくださるからです。私たちは自分自身さえ変えることができない者です。しかしイエス・キリストはそんな私たちを縛りから解放するために私たちのただ中に来てくださったのです。クリスマスはそのことの記念であります。私たちはこの出来事を喜んでまいりましょう。