〇聖書個所 マタイによる福音書 18章1~5、19章13~15節

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

 

〇宣教「子どもを妨げる弟子と子どもを真ん中に招くイエス」

今日はオンラインで初めてキリスト教の礼拝に参加される方もおられると思います。これからしばらくの間、聖書のお話をさせて頂きます。聖書の中心人物であるイエス・キリストはおよそ2000年前のイスラエルという国の北部にあるガリラヤという地域で生活していました。そこはイスラエルの中心地エルサレムから見れば、辺境の一地方でありました。ところがそんなところで暮らしていたイエスがキリスト(救い主)と呼ばれるようになりました。何故ならば、そのイエスの言葉が弱く貧しい多くの人々の心を打つものであり、その自らの命を献げるほどの行いが多くの人の慰めになったからです。今日はその聖書の中からイエス・キリストが子どもたちに対してどのように関われたのかというお話をします。予めお伝えしておきますが、聖書は、「正解」や「正論」を教えるものではありません。むしろその言葉を私たちが聞いて、「自分の事柄として考えること」が大切だと私は考えています。

それでは今日の箇所に入りますが、まずは弟子たちが尋ねています。「天の国では誰が一番偉いのでしょうか。」例えば皆さんが子どもに「誰が一番偉いのか」と聞かれたら、皆さんはどんな人を思い浮かべるでしょうか。例えば、とても大きな権力を持った人でしょうか。その力を使って国を動かすような人は、確かにそう思うかもしれません。或いはお金持ち。その富を使って国を潤したり、経済発展を支えたりするような人も偉い人と言えるでしょう。他にも様々な分野で社会貢献する人なんかも偉い人だと思われます。そんな人たちは国からも表彰されることもあり、多くの人に「こんな人になるように」と推奨されたり、大きな影響力を持ったりするようになります。こういう人々こそ私たちがよく考える「偉い人」、普通ではなかなかできないことをする人だと思うのではないかと思います。

弟子たちも恐らく「天の国で一番偉い人」というのはそういう人をだと想像していたことでしょう。例えば天の国に入れるくらい立派な行いをする人でしょうか。例えば聖人と呼ばれるような奇跡を行うひとであったり、マザーテレサのように貧しい人を受け入れたりする人。現代で言えば、例えば先々週私たちの教会にお招きしましたが、北九州で長年ホームレス支援の働きをしている奥田知志牧師なんかは確かに偉い人だなぁと思うかもしれません。

しかし、「天の国で誰が一番偉いのか」と問われたイエス・キリストはそうは言いませんでした。そうではなく、子どもを呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせこう言いました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」

みなさんはこの言葉をどのように受け取られるでしょうか。子どものようにならなければ天の国に入ることはできないのであれば、天の国にいる人はみんな子どものような人ということになります。しかもそれが天の国で一番偉いと言われることなのだと言うわけです。それでは子どものようになるとはどういうことでしょうか。まず「子ども」とはどういう存在か考えてみたいと思います。

実は聖書の中に「子ども」と言う言葉はいくつかあるのですが、ここでは「幼子」を指す言葉が使われています。大体年齢からすると2歳以降の「幼児」であり、およそ少年と呼べるようになる前の年齢だと思います。まさに幼稚園児の年齢とでもいうでしょうか。イエス・キリストはそのような幼児が天の国で一番偉いと言うのです。

何故そんな幼児が偉いと言われるのでしょうか。この解釈についてはよく2つのことが言われます。一つ目は当時のユダヤ社会は年長者が尊重される社会でしたから、子どもと言えば無価値な者です。しかしそういう無価値のように見える子どもこそが最も大切なのだという逆説的な教えという捉え方です。これは偉い人と言えばすごい人と想像してしまう私たちの価値観をひっくり返すメッセージです。もう一つの解釈は、子どもは純真で天真爛漫だから偉いという捉え方です。確かに無垢な命が大切という思いはわかります。世間にまみれてしまっている大人に比べて無垢な命は尊いものです。その存在を確認するだけで涙が出ることもあります。でも私たちは子どもの天使のような笑顔の陰には小悪魔の仮面をかぶる時があることも知っています。純粋だけれどいいことも悪いことも頓着しない。つまりそんな社会の空気を読まない「自由なふるまい」が最も偉いという意味だとも言われます。

でも、私は今日もう一つのことを考えてみたいと思います。先ほど、この子どもと言う言葉は幼稚園児くらいの年齢だと言いました。それはまだまだ手のかかる子どもであるということです。2歳くらいだったらトイレさえ自分でできません。気分屋で大人の言う通りにはできません。そんな子どもたちをわたしたちは人々の真ん中に立たせることができるでしょうか。それはつまり私たちの生活の在り様を子ども中心にするということです。そしてそれが天の国だとイエス・キリストは言うのです。

私たちは子どもの命を大切に守りたい、その将来を夢見つつも、その子どもを私たちの真ん中に立たせるということはなかなかしないのではないでしょうか。むしろ大人が中心となり、子どもは外にほおっておく、或いは大人の都合に合わせてしまうということがあるのではないでしょうか。いま私は、3人の子どもがいますが、こんな高いところで偉そうに語っておりながら、全くそのようには出来ていないことを反省させられています。ふとした時に子どもたちを自分の都合に合わさせてしまっていることに気付くのです。昨日だってこのお話の準備をするためにほとんど一緒にいることができず、妻にワンオペ育児をお願いしてしまっていました。本当にどの口が偉そうに語るのかと思います。

昨今のニュースではコロナ不安も相まってか、家庭内で幼い子供が暴行などの被害に遭う事件がたくさんあります。本当にひどいことだと心が痛みます。しかし、私自身、自分の心の状態が在れている時にはいつそのようになってもおかしくないと思うことがあります。本当に他人事とは思えません。

残念ながら世の中は大人中心の社会です。大人中心の社会の中で子どもは常に受け身であり、大人の事情で自分たちの創造性を認められたり、自分の本当の思いを出せたりする場が非常に限られていることがあるのだと思います。もちろん願いとしてはそういう子どもたちを中心にしたいという気持ちはあります。しかしそれができない環境が私たちの身の周りにはあります。その子どもを本来養育すべき親たちも非常に苦しい状況におかれることがあります。私たちの社会とは、そういうところなのだということは今日のもう一つの聖書の箇所にも記されています。もう一度お読みします。

「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。」【マタイ19:13-15】

ここは先ほどの箇所とは別の文脈ですが、人々が幼子たちをイエスさまのところに連れてきました。ところがなんと弟子たちは、子どもたちがイエスさまのところに来ることを妨げた上で、子どもを連れてきた人々、親だと思いますが、その人々を叱ったと言うのです。この言葉は、他の言葉に訳すと、「厳しい言葉で命じる」で、上の人が権威的に下の人に命令するかのような印象の強い言葉です。本当であれば来てくれて嬉しいはずなのに、何故妨げたのでしょう。恐らく弟子たちにも言い分があったと思います。例えば「イエスさまの手を煩わせないようにしたい。疲れているのだから子どもたちが近寄っては迷惑だろう。だから私たちが守ってさし上げなければ。」この弟子たちはある意味自分たちのしていることが正しいと思って意図的に子どもを妨げたのです。だからその子どもたちを連れてきた親に注意をしたのです。

ところが、イエスさまの思いはそんな弟子たちの思いとは異なりました。マルコによる福音書では、イエスさまはそんな弟子たちに対して憤ったと書かれています。イエスさまは言います。「子どもたちを来させなさい。」これは子どもたちが自由にしていることを許しなさいということ。「私のところに来るのを妨げてはならない。」とは、私は子どもたちが来ることを喜ぶ、あなたがたの判断はそこにはいらないということです。そしてそこが天の国であると言うのです。子どもたちがうるさくてもいい。手がかかってもいい。その子どもたちが自分のところに来ること、またその子どもたちの姿がこの社会の中で受け入れられていくことをイエスさまは喜ばれるのです。だから、最初の聖書個所では、子どもを真ん中に招き、今の箇所では子供に手を置かれたのです。手を置くと言うのは、祝福であり、かつ向き合うことであり、関わりを持つという意味があります。このことは親たちにとっても救いになったはずです。イエスさまは親に対しては何のアクションもされていないようですが、しかし子どもを受け入れてくれたということが親にとっては何よりもの救いになるからです。このイエスさまの言葉は、子どもん対しての配慮、そして親に対しての配慮、そして親子に対する無理解な社会への批判です。

しかし問題は、時として子どもたちを妨げている弟子たちが、私たち、あるいは私自身であるということです。子どもたちにそのまま天真爛漫なままでいてほしいと思いつつ、社会の中では大人の都合に押しとどめようとすることがあります。子どものためにと言いながら、本当は自分の思いを押し付けることだってあるわけです。

特に私たちキリスト教会の礼拝の中でも、かつては子どもがいると大人が集中して礼拝出来ないから、子どもは外に出されるということがありました。しかしイエスさまは本当はどのような礼拝の在り方、教会の在り方を望んでいるのでしょうか。子どもと共に礼拝を守るなら、子どもが喜んできたいと思えるような礼拝、あるいは子どもたちのその姿を共に喜んでいく環境の中で神を賛美することができたって良いはずです。

イエス・キリストは「この子どものようになる人が天の国で一番偉いのだ」と言いました。これはあなたがたはどうなのかということを問いかけています。つまり、どうしたら偉いか、誰が偉いか、ではない。そういう思いから解放されて自由になりなさいということです。そして、その子どもの一人に向き合って行きなさいということです。それが最も大切であるということです。その子どもの命に向き合うことであるからです。子どもと言う子どもはいません。ひとりひとり異なります。それには確かに手がかかります。迷惑をかけるのが子どもです。しかし、その迷惑をかけてもいい関わりの中にこそ、天の国というものがあるということなのではないでしょうか。また、あなた自身もかつて手のかかる子どもであって、そこで受け入れられて大きくなっていったのではないかということを問いかけているように思います。

イエス・キリストは子どもたちをどうするか、ではなく子どもたちと共に生きていく社会へ、子どもたちの生きていける社会になっていくために、まず私たち自身の姿を振り返らせます。神は私たち一人一人をそのままの姿にお造りになり、「良し」とされました。この一人一人がその命のままに生きていけることを願っておられるということです。どんな命にも意味がある。不必要な命は一つもない。私自身その言葉に打ち崩されますが、しかし神はそんな親たちにもまた共に生きていこう。重荷を私の元に降ろしなさいと関わりを与えてくださいます。このことを共に心に留めたいと思います。この神の恵みが皆さまに豊かにありますようにお祈りします。