〇聖書個所 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章26~27節

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

 

〇宣教「キリストの体なる教会とその部分」

今日の宣教は、これまで続けて読んできたマタイ福音書を離れ、コリントの信徒への手紙Ⅰから「キリストの体なる教会とその部分」という題でお話をさせて頂きます。その理由は、今日3人の方の転入会があったからですが、まさにこれはコロナ禍の中にあってもなお私たちはイエスさまに結ばれているということを改めて感じる出来事でありました。今私たちは、人に出会いに行くことがはばかられる、密になって交わることに恐れを感じる時代に生きています。オンラインでの礼拝も、物理的には孤独を感じることもあります。そんな中で私たちは寂しさを感じるわけですが、しかし私たちは今慰めを受け、イエスさまによって結ばれていること。決して一人ではないということを感じます。何故ならば、今この転入された方々は神戸教会員、つまり私たちと同じ教会で私たちと共に信仰生活を生きる関係に入ったということであるからです。このことを私たちは共に喜び合いたいと思うのです。

先ほども申し上げましたが、3名は今年の4月あたりからそれぞれのご事情でこの神戸教会に通われだして、当初より転入会の思いを持っておられました。本心では、みなさんももっと早く転入会したかったと思います。しかし緊急事態宣言が再三に渡って発出される中、共に集まり証しを分かち合うこともできませんでしたので、ずっと待っていて頂いておりました。もちろん私たちは教会に所属しなくても信仰生活はできます。しかし一つの教会に所属するということは、お互いのために祈り合う関係に入るということであります。ですから籍に入らないではふわっとしたお客さま感覚で落ち着かない、安心できないし寂しいと感じることもあるわけです。今オンラインや会堂で礼拝に参加してくださっている方の中にも、同じような状況にいる方もおられることでしょう。ようやく少し状況が落ち着いたということで今日、三人の転入会を行いましたが、これからもまた皆さまの時が満ちることを待ち、共に祈りによる交わりを続けていきたいと思います。

さて今日の聖書個所は本来であれば教会論や教会形成、つまり「教会とはどういうものであるか、どういうかたちでありたいか」というお話しの中で読まれることが多い箇所です。そこでは、私たちは互いにキリストにそれぞれの部分として結ばれており、共に祈り支え合うことで教会が形成されていくということが語られますが、今日は特にイエスさまに結ばれること、互いに結び合わされていくことを考えていきたいと思います。

パウロは言います。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」言い換えれば、一人一人はそれぞれ部分であり、決して同じではない、しかしキリストにあってそれぞれ異なっていることが大切なのだということです。これは大切な指摘です。何故ならば、21節に「目が手に向かって、お前はいらないとはいえず、また頭が足に向かって、お前たちはいらないとも言えません」とあるように、私たちは教会の交わりの中にあったとしても、その違いによって他者を排除しようとすることがあるからです。その違いとは、例えば信仰の強さ、信仰歴の長さ、祈りの熱心さ、聖書理解度、奉仕の量、人と違う意見を持つこと、あるいは大切にしていることの違いなどでしょうか。これらの理由で、共に生きるために招かれたはずの教会に亀裂が起きてしまうということがあるのです。私たちもこうしたことを経験したことがあるかもしれません。

しかし、パウロは言います。「教会は最も他よりも弱く見える部分がかえって必要であり、それぞれ異なる部分が配慮し合うことで体に分裂が起こらず、かえって引き立たせられるようになる。」私たちの中で、私は強いのだと思う人はいるでしょうか。恐らく私たち一人一人の自意識の中で、最も弱い人というのは誰か他の人のことではなく、自分自身だと思います。それが健全です。何故ならばそこでこそ神との出会いが起きるからです。そして神によって私たち一人一人は引き立たせられるのです。だから、私たちはイエス・キリストの体なる教会の部分なのです。私の教会ではなく、この教会はこういう教会だという固定化するでもなく、生きているキリストの教会です。私たちはその部分なのであり、イエスさまによって互いに結ばれている存在です。そのイエスさまの体は、福音書に書かれている生きざまと死にざまに証しされているように、小さくされた人たちが共に生きられるように、自らの体を割き、血を流された体です。それがキリスト教会なのです。だから私たちも異なるものと共に生きることができるよう、日々自らを割かれ続ける教会であるのです。

先ほど転入会の際、「バプテスト教会は信徒の教会ですので、私たちが転入される方々の信仰を聞き、受け入れ、共に生きることを大切にする教会です」と言いましたが、それは私たちが判断する基準になるということではなく、わたしたちもまたそれぞれの時に招かれた存在であること。だから本来転入会とは、今回招かれた方と共に生きるように私たちが変えられ新しくされていくことを確認する時であるのです。それが私はイエスさまの招きによる教会であると思います。

コロナ禍が始まってから、私たちの教会にとっての一つの大きな課題は交わりをどうするかということでした。中でも、転入会やバプテスマの方を共に集まれない中で、どう知り、どう交わっていくかということです。直接的にはこれが転入会が遅れた原因となったのですが。しかしながらもう一つの課題は教会に物理的に来ることができない方にどう繋がっていくか、教会として共に生きていくかということです。これらについては、これまで通りの形ではやっていくことができません。でもこれは私たちが共に生きるということを考える良い機会となりました。何故なら私たちが教会に繋がるとはこの場所に来るということではないからです。わたしたちが御言葉の交わりに加わり、共に祈り合う関係にあることが教会に結ばれるということであるのです。ですから場所は別々のところであったとしても共に祈り合い、繋がり合っていく時に私たちは教会になるのです。

今回5度目となる緊急事態宣言でしたが、この間礼拝は教会の皆さまにはオンライン礼拝を勧めてきました。本来このような時にこそ集まりたいところ、それができなかったのは、やはり人数制限があったからです。礼拝堂に50名、両サイドルームに20名、当初決められたのがこの制限でした。

その中で新来者、求道者にはやはり続けてきてほしい、またその方々のフォローやオンライン礼拝をするために奉仕者は必要だ。だから他の方にはオンラインでの協力をお願いしたのです。でも、そのような一人一人のご理解とご協力により、今日までの礼拝体制が守られ、今日は転入者が3名、来週は1名のバプテスマがあります。また他にも礼拝に出席したいという方が今もこられています。これは私たち一人一人の祈りによるもの、その中にイエスさまが働いてくださった、いわば協力伝道だと思います。

ですからわたしが今日この箇所からお話ししたいのは、私たちはそれぞれ異なる状況の中におりますが、イエス・キリストが私たちに伴ってくださること。それによって私たちは互いに結ばれており、それぞれの部分として働いているということなのです。私たちは決して一人ではない。一人には今後決してならないということを心に留めたいと思います。

今日の聖書個所をもう一度お読みします。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」

私たちは苦しいときもありました。共に嘆くときもありました。これからもあるかもしれません。しかし、このように共に喜び感謝を分かち合う時もあるのです。これはすべて主の伴いの中で与えられる恵みとなります。

今日わたしたちはこれより主の晩餐を守ります。主の晩餐は主イエス・キリストのこの思いを私たちが共に分かち合って生きていくために、この交わりの中で守られます。まだ共にすべての人が集まれるわけではありませんが、わたしたちはこの思いを互いに共有しています。ここに神の国があることを覚え、共に受け取って参りましょう。