〇聖書個所 マタイによる福音書 17章24~27節

一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

 

〇宣教「税は義務から分かち合いへ」

今日は4週間ぶりにマタイによる福音書からお話をします。この間の3週の礼拝は転入会やバプテスマなどの嬉しい出来事や、永眠者記念など特別に心落ち着けて祈る時などが守られましたが、今週は平常に戻ります。また来週31日には奥田知志先生を招いての特伝、再来週11月7日には、もうお二方の転入と献児式、その次の週11月14日には子ども祝福礼拝と嬉しいときはまだまだ続いていきます。私たちはこれまでもその時々に応じて聖書から特別なメッセージをいただいて参りましたし、これからも頂いていきます。でもそういう意味で言うと、今日はいつも通りの礼拝ではありますが、毎回が特別な礼拝であります。特に私たちは今、衆議院選挙や神戸市長選挙という大切な選び取りの時を迎えています。今日の聖書個所は奇しくも「税金」がテーマになっていますので、果たして私たちはそれをどのように考えるのかということを、イエスさまの姿から見ていきたいと思います。

ところで「税金」について語る時に私はどうも少し緊張します。というのは、税金は私たち一人一人の義務ではありますが、私たちの向き合い方はそれぞれ異なり、肯定的にも否定的にも受け取ることができるからです。肯定的に捉えれば税金とは「公の生活」を守るために支払うべきものであります。これは憲法30条で「国民の義務」とされているものです。自分が直接的に利用しない公共サービスではあっても、共に生きていくための必要なサービスのために税金が使われるのは喜ぶべきことです。しかし否定的に捉えれば、納税は義務ではありますが、やはり支払いはできる限り抑えたいと思うのが、私たちの本音なのではないでしょうか。毎年たくさんの方が脱税で捕まっています。自分たちのお金を好き好んで税金の支払いに回すことはせず節税に努めたいと思うのではないだろうかと思います。節税どころか税金を払うことさえ困難な状況もあるのです。私自身そういった経験もあります。まして税金が本来の意図と違う形で用いられることに対しては我慢がなりません。その使い道は公正に明らかにされなければならないものです。キリスト教会の中でも特にバプテスト教会は政教分離を主張します。それはバプテスト教会が、政治と宗教の癒着と混乱の中で生まれてきたグループであるからなのですが、その主張である政教分離とは、宗教と政治は無関係、互いに口出ししないということではなく、むしろ政治が宗教を利用したり宗教が政治を利用したりすることがないように、神の御心に立って見張るwatchmanの機能を教会が果たすべきであることを信じるからです。なので、私たちは間違っていることには間違っているとしっかり言わなければなりません。

さて、そこまで言い切っておいてなんなのですが、イエス・キリストが「税金」について考えていることもそうだと思います。実は聖書の中で取り上げられている税金は、大きく分けて2つあります。それはすべての人に義務とされローマ帝国に納められていた「人頭税」と、ユダヤの体制維持のために徴収される「神殿税」というものでした。他にも関税とか色々あるのですが、今日は割愛します。ちなみに「ローマ帝国への税金」については、マタイ22:15-22で取り上げられています。ここではファリサイ派の人々が聞きます。「先生、教えてください。皇帝に税金を納めるのは律法に適っているのでしょうか、適っていないのでしょうか。」(マタイ22:17)ユダヤ人にとって当時自らの国を支配していたローマに納める税金は非情にデリケートな問題でしたので、イエス・キリストが税金をどう考えていたのかということは関心事でした。ところが、実はこの質問をした人々は、その答えを聞こうとしていたのではなく、イエスさまの言葉じりを捕えて、罠にかけようとしていたようです。

つまり、皇帝に税金を納めることが律法に適っていると言えば、「神より皇帝を優先した」ということで、律法違反と罵られ、民族の敵になるわけです。じゃあ反対に納税が律法に適っていないと言えば、「ローマ帝国に対する不穏分子」としてイエスさまを逮捕することができるわけです。ファリサイ派の人々は本当に悪知恵が働くと感心します。でもイエスさまはその上を行っており、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と切り返します。これは答えとしてはあいまいです。私はすべてのものは神のものなのだと思いますが、そうではないのでしょうか。実にここには様々な解釈があります。二つだけ紹介します。まずは先ほど言ったように人頭税と神殿税があるのですからそれぞれ皇帝と神殿に払うということです。この場合、イエスさまは皇帝と神とを並べてどちらを良いかどちらかを否定するかという二分にはしていません。もう一つの説は、皇帝を先に例に出し神を後にしたので、皇帝さえ神の権威の内に立てられているものだからそれを否定しないという説です。私個人は大切なのは後者の方だと思っています。つまり皇帝は神が立てたものであるなら、それには従う義務があります。しかしその場合、皇帝は神の御旨を求めなければならないし、私たちはそうなるように見張り、かつ間違いのない範囲で協力していくということです。これはわたしたちがイエス・キリストを主と告白し、それ以外の権威は認めないとしながらも、この社会が神の御心を成していくように祈り協力していくというスタンスと同じであると思います。

さて、ところで実は今日の箇所がテーマとしているのは「神殿税」です。先ほども申し上げましたが「神殿税」とはユダヤ体制維持のために使われるお金です。ローマに対してではなく、ユダヤ人が自分たちの信じる宗教を支えるための税制です。公的な性質はあると思いますが、しかしある意味で言うと、これは特定の目的のために使われる税だと言えます。もし仮に、この神殿を教会と置き換えると、教会を維持し支えるために自由献金をするのではなく税金として集められるということになります。確かにドイツなど西洋諸国の中には「教会税」を取り入れている国もあります。しかし、これはいくら歴史的な文脈があり文化と体制を維持するためだとは言え、バプテストの観点からするとやはり政教分離の原則から反していることだと言えます。現にその国々ではクリスチャンとして登録しているだけで税が引かれるため、教会員が激減しているのです。もし私たちの国でも、税金が特定の宗教団体に提供されたらやはり問題だと思います。税として投入されると助かると思うかもしれません。しかし自分たちだけよければよいわけではありません。ここには明確な線引きが必要です。やはり利用者負担、或いは当事者による支援という形がしっくりくるように思います。

聖書個所ではペトロが、そのような「神殿税」をあなたたちの先生は払わないのかと聞かれています。ちなみにこの聖書個所には「神殿税」という言葉は出てきません。2デナリオンと書かれているだけです。2デナリオンは二日分の労働対価ですが、これが出エジプト記30章で20歳以上のイスラエル人が聖所で支払うべき代償が「銀半シェケル(2デナリオン)」と規定されていることから、神殿税とされているわけです。その問いを受けたペトロは「払います。」と答えています。ところが家の中に入ったところ、イエスさまが一部始終を見ておられたのでしょうか、こう言います。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」この税や貢ぎ物というのは実は人頭税や関税を表しています。これらの税金を払うのはだれか。ペトロは「他の人々です」と言います。これはイエスさまの思いに適う答えであったと思います。ですから、イエスさまは「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。」と言っているのです。つまり、皇帝が自分の子どもから人頭税を取らないのであれば、神が自分の子どもである人々から神殿税は徴収するわけがないというわけです。

この話は、本来であればここでおしまいであるはずです。つまり、神は人々からの税金を必要としないからです。そもそもこの世の全ては神のものなのに、神さまが税金としてお金を手に入れたところで何に使うのでしょうか。イスラエルの王ソロモンが豪華絢爛な神殿を神のために建てたとき、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も天の天もあなたをお納めすることができません。私が建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(列王上8:27)と言っていますが、まさにその通りです。私たちが神殿税で神殿を作ったところで、神からすればそんなものは取るに足らないものですし、神はそこにお住まいになるわけではありません。

それでは何故、イエスさまは彼らを躓かせないためにと言って「税金」を払ったのでしょうか。私、思うのです。イエスさまは、「地上の王たちは子どもたちから税金を取り立てることをしない」ことを引用した上で、彼らを躓かせないために支払うと言っています。つまり問題とされているのは、「税金」というシステムで取り立てられることなのです。だからイエスさまは「取り立て」ではなく、自分の選び取りとして、彼らのために自由になって献金として献げたのではないでしょうか。つまりイエスさまは「献金」として「自分の思いで献げること」を言っておられるのではないでしょうか。それは、金額の大証ではなく、神に献げる思いの大切さなのです。

イエスさまは、献げる人の思いを軽んじられる方ではありません。ルカ21章に「やもめの献金」という話があります。そこでは貧しいやもめが献げたレプトン銅貨2枚、これはデナリオンの128分の1、現代の一日の労働対価が1万円であれば100円です。もっとも小さなお金であったにもかかわらず、イエスさまはもっともたくさん入れたのは彼女だと言いました。もし本当にそんなに切羽詰まっている経済状況であるなら、献げないで良い、と言ってあげたいところです。しかし、イエスさまはそうはされませんでした。そこまでしてでも捧げたいと思う彼女の思いを喜ばれたのです。

それは、税金と言う、支払わなければならないという性質のものではなく、そこには神への日々の感謝の思い、つまりこれまで神さまから必要なものが与えられて生かされてきたように、これからも神からの守りと恵みを信じ分かち合うという応答であったからに他なりません。それがむしろ、彼女が神の国に生かされていたということなのではないかと思うのです。

私は、イエスさまが神殿を否定していたとは思いません。しかし神は神殿なんかにはお住まいにならないと思います。むしろ神委はそのような歩みを送る一人一人と伴っておられる。私たちのただ中にある「神の宮」にお住まいになる方なのではないかと思うのです。

だからイエスさまは、こういうのです。「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

これはどのような性質のお金なのでしょうか。落とし物なのでしょうか。いえいえ、それは神さまからの恵みの象徴に他なりません。もちろん釣りをしたペトロの労働の対価ともいうことができるかもしれません。しかしイエスさまはその銀を取って、私とあなたの分の二人分として納めなさいと言うのです。実はこの銀貨とは4デナリオン分の価値があるお金です。ここで問題にされているのはイエスさまの神殿税理解ですから1人分だけ納めればよかったはずです。しかしイエスさまがペトロの分も払いなさいと言ったのは、神から与えられた恵みを分かち合って一人だけではなく他者と共に生かされていくということです。それ大切であるということに他なりません。

この箇所からイエスさまが言いたいことはなんでしょうか。それは「神殿税」は義務ではなく、その交わりの中にいる隣人と共に分かち合って納めるものであるということです。そこには喜んで出すことのできる人もいれば出せない人もいるでしょう。誰がいくらという分担する性質のものではありません。またその基準は誰かに決められることでもありません。そうではなく自分に与えられている恵みの中から分かち合って生きて行きなさい。その時、私たちのただ中に生まれるのが「神殿」、つまり神がおられるところ、わたしたちの「教会」という交わりになるのではないでしょうか。税金なんて取り立てられてできる建物には神はお住まいになりません。神殿は「すべての者の祈りの家である。」(マルコ11:17)神殿は税によってではなく、私たちの祈りの内に建てられるものであるのです。

神戸教会のメンバーの中には、いまのメッセージを受けて、この教会、或いは教会堂の今後について考えられた方もおられるかもしれません。わたしたちの教会は今、新しくされ続けています。現実的な話を言えば、建物は古く老朽化しており長期計画を考えるところに在りましたが、見える教会の交わりとここには見えない教会の交わりが今私たちにあるということを感じつつ、導かれているところです。それは私たち一人一人が繋がり合い、私たちが思いを分かち合うというところからスタートしていくものであります。共に神の国の実現を祈って参りましょう。